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2008/10/21

忘れられたか江戸の画家・熊代熊斐

 小生はいろんなブログを見て回るのが好きで、お気に入りのサイトだと何度も勝手にお邪魔するが、そういうのは稀で、一瞬、チラッと覗いて、恐らくもう二度と目にしないサイトのほうが多いだろう。

 それこそ、街中で擦れ違った人をチラッと通りすがりに見るだけ。
 そんな相手と今生、遭うことも、まして言葉を交わすこともない…。

 その一瞬の印象がどれほど相手の人柄や背景を捉えられるものではないのだろうが、それでも、一瞥さえしえない相手が圧倒的な数なのであることを思うと、ネットのサイトであろうと、ほんの数秒間の滞在であっても、それはそれで縁(えにし)なのかなとも思う。

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↑ 熊代熊斐「花鳥」(画像は、「Yahoo!オークション - 熊代熊斐:花鳥」より。)


 さて、何度となくお邪魔するサイトの一つに、「江戸時代を世界遺産に」がある。
 それこそ江戸時代の有名無名の人物を採り上げてくれていて、江戸の世についても無知な小生には非常にありがたい、貴重なサイトなのである。

 既に我がブログでも何度か参照させてもらったが、今日は、或る日、見つけた「熊代熊斐(くましろ ゆうひ)」の記事を勝手に覗かせてもらう。
「熊代熊斐(くましろ ゆうひ)」は、沈南蘋(しんなんぴん)の唯一の弟子で、「弟子千人に及ぶ」とのことだが、少なくとも小生には全く未知の人物だ。

 本ブログでは熊代熊斐」について、「江戸時代を世界遺産に」から、以下の記事を参照する:
江戸時代を世界遺産に忘れられた江戸人物誌102 熊代熊斐1

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→ 熊代熊斐「?」 「この画は、紙画とあるので、おそらく宴席で紙縒りを用いて描いたものと思われる。印は、徳川美術館にある画の印と同じものである」という。「印」については、当該頁の画像を参照のこと。(画像・転記文は、「江戸時代を世界遺産に忘れられた江戸人物誌102 熊代熊斐2」より。)

熊代熊斐」をキーワードにネット検索してみると、下記のサイトなどが浮上してくる。

開運!なんでも鑑定団 ( テレビ東京 )熊代熊斐の作品

趣味名:絵画 アーティスト:熊代熊斐
中国から来日した沈南蘋に影響を受けた画家・熊斐の作品。
”清泉白鶴図””波に鵜図””登竜門図””王母献寿図”などの作品を残した。
熊斐は、写実的な花鳥画を得意とした。

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← 直上の画像の部分拡大画像。(画像は、「江戸時代を世界遺産に忘れられた江戸人物誌102 熊代熊斐3」より。)

掛け軸は思文閣 「く」で始まる人名

熊代熊斐(くましろ ゆうひ):
江戸中期の画家。長崎生。号は繍江、字は贍、通称は甚右衛門。熊斐は漢名。初め渡辺秀石に、のち沈南蘋に画を学び、江戸時代の南宋画の先駆者である。門人に宋紫石・鶴亭・森蘭斎等がいる。安永元年(1772)歿、59才。

 たった今、検索して知ったのだが、「10月19日(日) 昼12:00~1:00 開運!なんでも鑑定団」で、「江戸時代に来日した中国人画家の弟子・熊代熊斐(クマシロユウヒ)の作品で、日本人の多くが虎を知らなかった頃に描かれた珍品だという」作品が登場したらしいのだが、小生は番組を見逃してしまったので、本物だったかどうかは分からない(どうやら、再放送のようだ)。

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→ 同じく、部分拡大画像。(画像は、「江戸時代を世界遺産に忘れられた江戸人物誌102 熊代熊斐3」より。)

 やはり、「江戸時代を世界遺産に忘れられた江戸人物誌102 熊代熊斐1」のほうが詳しい。
 例えば:

熊代熊斐くましろゆうひ1693-1772。彼は、長崎出島の中国語の通訳でした、中国人を出自として、本名を神代彦之進といい、中国姓が熊ゆう名を斐ひ、といいました。たまたま長崎に来航した、中国人画家沈南蘋に画を習い、いわゆる長崎派の元祖となりました。彼のもとには、全国からその画を習うものが参集し、長崎は、戦前のパリのようなエコールドパリのような場所となったのです。(中略)熊斐の画は、南蘋派といった方がいいのかもしれませんね。熊代熊斐の画は、類型的な花鳥画が多く、日本の画家たちは、その類型的な画を各自の解釈でますます類型化していったのです。

 長くはない記述なので、同上の頁を是非、覗いて一読してみてほしい。小生が勝手に略した部分こそ参考になる見解が示されている!

 ネット検索では、「熊代熊斐」についての情報があまりに乏しい。
 沈南蘋の弟子だとか、「建部綾足」を紹介する記述の中に熊代熊斐に学んだ云々と名前が挙げられる程度である。

 やはり忘れられた画家なのだろう…多分。
 でも、忘れない、そして今も調べている人がいることも事実だ。

 残っている実物が少ない。逆に贋作が多い。
 ということは、真似るために(あるいは所蔵したいがために)本物は散逸し、同時に贋作(乃至は真似た習作)が世に出回ったということなのだろうか。
 真価は、幾つかの実物をじっくり見る機会を小生ならずとも持って初めて得られるということなのだろう。

                    (08/05/17着手 08/10/20作)

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