浅草サンバカーニバル幻想
「謝肉祭 - Wikipedia」によると、「謝肉祭(しゃにくさい)とは、カトリックなど西方教会の文化圏で見られる通俗的な節期」で、「仮装行列やパレードが行なわれたり、菓子などを投げたりする行事が行なわれる」とか、語源については、「カーニバルの語源は、一つにラテン語のcarne vale(肉よ、さらば)に由来するといわれる。ファストナハトなどは「断食の(前)夜」の意で、四旬節の断食(大斎)の前に行われる祭りであることを意味する」とか、あるいは「この農耕祭で船を仮装した山車であるcarrus navalis(車・船の意)を由来とする説もあ」ったりする。
↑ 以下、ピーテル・ブリューゲルの絵画を除き、画像は全て、batoさんの「コンデジ画像館 (浅草サンバカーニバル)」内にある、「浅草サンバカーニバル(2008)スナップIndex」より。撮影は一部を除いてFinePix S100FS。大きな画像で見てみたい!
後者の語源(説)がどれほど妥当性があるのか、小生には判断が付きかねる。
ただ、リオや浅草のサンバカーニバルで、アレゴリア(山車)が一つの呼び物(見物)であるのは、根拠のあることだし(浅草サンバカーニバルの出場規定の一つなのは別儀としても)、むしろ、花形であり、もっともっと注目を浴びていい出し物だと理解すべきなのだろうと思う。
← ピーテル・ブリューゲル (Pieter Brueghel the Elder)『謝肉祭と四旬節の喧嘩』(The Fight between Carnival and Lent) (1559年 118×164.5cm | 油彩・板 | ウィーン美術史美術館) (画像は、「ピーテル・ブリューゲル-謝肉祭と四旬節の喧嘩 ヴァーチャル絵画館」より。)
ところで、アレゴリアを山車とか装飾山車とか訳したりする。
いずれも苦しい訳なのは、仕方ないとしてても、山車はもともと装飾を施されたものなのだとしたら(装飾されていない山車って、ある?)、装飾山車って、一般向けのしつこすぎる訳のように思えたりする。
まあ、そんな堅苦しい話は、真っ当なサイトに任せよう。
ただ、「謝肉祭は古いゲルマン人の春の到来を喜ぶ祭りに由来し、キリスト教の中に入って、一週間教会の内外で羽目を外した祝祭を繰り返し、その最後に自分たちの狼藉ぶりの責任を大きな藁人形に転嫁して、それを火あぶりにして祭りは閉幕するというのがその原初的なかたちであった」という記述は見逃せない。
少なくとも(今でこそ)日本では、大方の認識としては、カーニバルというと、「謝肉祭」といった生々しい過激なものではなく、華やかなパレード、ともすると仮装行列ですか、程度の認識なのだろう。
この認識の浅さにはマスコミの報道の仕方も預かって大きい気がする。
普段はサンバにも凡そダンスにも関心のないカメラマンや記者が、物珍しさに偏した写真や記事を安易に(熱意に溢れた記事のつもりなのかもしれない ? ! ) 垂れ流す(…って、小生にしても人のことは言えない記事を日々垂れ流している!)。
(まあ、誤解や正解も含め広報となり宣伝となり、浅草サンバカーニバルやサンバの認知度のアップに繋がると信じているけれど。)
また、当事者らがブログやそのほか雑誌などでサンバへの熱意やカーニバルに寄せる思いをあまり語ってくれていないように感じる(それぞれのチーム内では分からないが)。
語る必要がない、語れるはずもないってのは前提としても。
たまたま浅草サンバカーニバルでは、パレードコンテストも兼ねているので、それぞれのエスコーラ(チーム)がダンスや演奏や歌や山車や衣裳や、テーマや、さらに全体としての調和に神経を使うが、これがコンテストの側面が浅草サンバカーニバルからなくなったら(順位付けがされなくなったら)、各チームとも、拍子抜けして、どうパッションを維持していいか、途方に暮れるかもしれない(そうでないかもしれないが)。
そう、そもそも浅草サンバカーニバルがパレードコンテストの場でもあることすら、知らない人が多いのでは。
さて、カーニバルのこと。
「謝肉祭は道化・滑稽・歓楽が許されており、この時期はいろんな格好をした人が街を歩いていて、あちこちでパレードやパーティがあ」るという。
道化・滑稽・歓楽が許されている…。
あらゆる規制や規範が取っ払われたなら、一体、どんな地獄と極楽のさまが繰り広げられ、欣喜雀躍と阿鼻叫喚の巷と化すことやら。
「ゲーテとカーニバル:ローマの謝肉祭 (壺 齋 閑 話)」なる頁は、冒頭に「ゲーテは「イタリア紀行」の中で、1788年に目撃したローマの謝肉祭の様子を描いている」とあって興味深い:
仮装行列では、プルチネッラの面を被っていれば、婦人たちの前で性的仕草をしたり無作法をしても許される、広場ではコンフェッティを武器に互いに斬り会い、道化の王が選出される、横丁では女装した男の腹から不恰好なものが生まれる、カーニバルの終わり近くには火の祭が催され、参加者たちは皆ろうそくを持って互いに罵りあう、息子は父親に向かって、「お父さんなんか殺されてしまえ」といって、父親のろうそくの火を吹き消そうとする。こうしたカーニバルの騒ぎの中に、ゲーテは民衆のエネルギーを感じ取った。それもカーニバルにおいては、あらゆる秩序が転覆し、上は下となり、生は死と結びつき、真理は呪詛のうちに宿り、肉体的・物質的な影の部分が表舞台に躍り出て、世界は一新する。それも笑いのうちに。ゲーテはそうした、カーニバルが本来もっていた姿を、共感をこめて感じ取ることができた。
一部の転記に止(とど)めるが、全文を読んでも一分も要しないだろう。
まあ、ゲーテの『イタリア紀行』を読んだことのある方には、何を今更なのだろうが。
同上のサイトの違う頁も読むに値する。
「カーニバルの祝祭空間:ガルガンチュアとパンタグリュエル (壺 齋 閑 話)」:
ラブレーの作品世界を特徴付けている最大のものは、祝祭性である。ガルガンチュアとパンタグリュエルのいくところ、至る所にカーニバルの祝祭的空間が広がり、道化や、洒落のめしや、遊戯や、権威のひっくり返しや、ありとあらゆる滑稽な見世物があり、しかもそれらは笑いで満ち満ちている。カーニバル的な祝祭は、現代の世界に生きる我々にとっては、局地的に催される、なかば観光化した、商業主義的なお祭に矮小化されてしまったが、中世のヨーロッパにおいては、民衆の生活に溶け込んだものであり、いわば第二の生活であった。ミハイル・バフチーンはそれを、「笑いの原理によって組織された、民衆の祝祭の生活」であったといっている。
ここには冒頭部分だけを転記させてもらったが、ラブレーやバフチーン、中世のカーニバル、祝祭空間などに関心のある向きはこの頁の一読を薦める。
サンバが、サンバこそが持つ、持ちえるカーニバル性、祝祭の異次元時空を想う。
拙稿から幾つか転記してみる。
生きているとは、肉体が生きていること、脳味噌の出来とか、社会の中での役割に見合った程度の断片化された身体などに制約されるのではなく、そんな逆立ちした後ろ向きの人間性に縛られるのではなく、まさに丸ごとの人間。頭も胸も腰も腕も脚も、とにかくあるがままの肉体の全てをそのままに、今、生きている地上において神や天や愛する人や知り合った全ての人に曝け出すこと、それがサンバなのではないか。
為政者の思惑、カーニバルやパレードをイベントとして、何かの呼び物として利用しようというマスコミや商店街の思惑、観客として女性の裸体に近い体を眺めて楽しみたいという観客の欲望、踊る男性の弾む肉体を堪能したいという欲望、そうした一切の思惑をはるかに超えて、ひたすら生きる喜び、共に今を共有する歓びを確かめ合いたい、そういう肉体の根源からの歓喜の念こそが、何ものにも優るという発想、それがサンバなのだと感じる。
踊れる者も、踊れない者も、観る者も、観られる者も、支配したいと思うものも、支配の桎梏を脱したいと思うものも、すべてが肉体の歓喜に蕩け去ってしまう。
(「サンバのダンスに感じること」より)
(前略)ダンサーの方が、裸足で踊っている最中、どんなことをイメージしているのか、小生には分からない。アフリカの大地なのか、あるいはブラジルの大地なのかもしれないし、いや、日本の何処かの土の色の見える大地なのかもしれない。
あるいは、そんなことの一切は、まるで見当違いであって、大地というより、この世界、この宇宙そのものをイメージしているのかもしれない。それとも、大地から宇宙へ至るエネルギーの通路としての自らの体を意識しているのであって、踊るとは、そのエネルギーの充溢と発散のことなのかもしれない。つまりは、自在に動く体への喜びなのかもしれないし、自らの肉体と大地や世界や宇宙との交歓そのものを実現させているのかもしれない。
(「裸足のダンス」より)
(前略)むしろ、時に体をしなやかにくねらせるダンスを眺めながら、アフリカの乾いた草原を豹かライオンのような猫族の猛獣が、特に獲物を狙うでもなく、ただ足音も立てずにのし歩く、その様を想ってみたりしただけだ。白っぽい土煙。吹き抜ける熱い風。何処か血生臭かったりする大気。容赦なく照り付ける太陽。影と日向との輪郭が、匕首よりも鋭い大地。
肉体。人間は、どうしても、モノを想う。思わざるを得ない。言葉にしたくてならない。言葉にならないことは、言葉に縋りつくようにして表現する奴ほど、痛く骨身に感じている。でも、分かりたい、明晰にこうだ! と思いたい、過ぎ行く時を束の間でもいい、我が手に握りたい、零れ落ちる砂よりつれない時という奴に一瞬でもいいから自分が生きた証しを刻み付けたい、そんな儚い衝動に駆られてしまう。
でも、肉体は、肉体なのだ。肉体は、我が大地なのである。未開のジャングルより遥かに深いジャングルであり、遥かに見晴るかす草原なのであり、どんなに歩き回り駆け回っても、そのほんの一部を掠めることしか出来ないだろう宇宙なのである。
肉体は闇なのだと思う。その闇に恐怖するから人は言葉を発しつづけるのかもしれない。闇から逃れようと、光明を求め、灯りが見出せないなら我が身を抉っても、脳髄を宇宙と摩擦させても一瞬の閃光を放とうとする。
踊るとは、そんな悪足掻きをする小生のような人間への、ある種の救いのメッセージのようにも思える。肉体は闇でもなければ、ただの枷でもなく、生ける宇宙の喜びの表現が、まさに我が身において、我が肉体において、我が肉体そのもので以って可能なのだということの、無言の、しかし雄弁で且つ美しくエロチックでもあるメッセージなのだ。
(「裸足のダンス」より)
サンバに実際に当事者として関わる人たちは、踊っているパシスタ(ダンサー)の方たちを始め、バテリア(打楽器隊)の皆さんも、サンバの音楽の楽しさと踊る楽しさに触れてファンになった、そして当事者になったのであり、それで十分なのかもしれない。
でも、ブラジルではない日本でサンバが、どのように広まるかは、サンバの関係者がサンバを日本でどう展開するか、その展望の如何に懸かっているような気がする。
小生は、「頭も胸も腰も腕も脚も、とにかくあるがままの肉体の全てをそのままに、今、生きている地上において神や天や愛する人や知り合った全ての人に曝け出すこと、それがサンバなのではないか。」などと、分かったような科白を吐いてしまっている。
何も知らない部外者の蒙昧な意見に過ぎないのかもしれない。
でも、ブラジルが、人種的な混血国家の苦しみの中から民衆が権力との相克、あるいは利用し利用される中で、サンバが逞しく育ったのだとしたら、日本は、視聴覚障害者、身体障害者も含め、あるいは高齢者の方も含めた、身体的多様性を受容した形でサンバが育ったらいいなと思う。
そんなことをサンバに期待するというのは、基本的に少なくとも入るのは誰でも入れる世界だという予感があるからなのである(その先の奥深さは、どんな世界とも事情は同じなのだろうと思う。入りやすさと奥の究めやすさとはまるで話は違う)。
車椅子の人が、そのままにパレードに参加するとか、眼の不自由な人もサンバの音や響きや雰囲気を堪能できると思うし、青空の下、身体的精神的自由の感覚を誰もが一時的ではあれ満喫できる…、そんなサンバであったらと、ふと思ったのである。
(「サンバに期待すること」より)
参考:
昨年も、batoさんの「コンデジ画像館 (浅草サンバカーニバル)」内にある、「浅草サンバカーニバル(2008)スナップIndex」から画像を許可(容認)を得て拝借し、下記の記事を書いたものでした:
「浅草カーニバルテーマの周辺散策」
なお、パレードの被写体となっているのは、全ての画像について、今年の浅草サンバカーニバルにおける我がG.R.E.S. リベルダージである!
おまけの参考:
「Carnaval do Rio 2007」 ← 音楽も画像もグー!!
| 固定リンク
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- 2024年11月の読書メーター(2024.12.06)
- 2024年10月の読書メーター(2024.11.17)
- 2024年9月の読書メーター(2024.10.01)
- 2024年8月の読書メーター(2024.09.04)
- 2024年7月の読書メーター(2024.08.05)
「浅草サンバカーニヴァル」カテゴリの記事
- 第32回浅草サンバカーニバル画像情報(2013.09.02)
- 「第30回 浅草サンバカーニバル」画像情報(2010.08.29)
- 09浅草サンバカーニバル画像情報(2009.08.30)
- 私的第29回浅草サンバカーニバル(後篇)(2009.08.31)
- 私的第29回浅草サンバカーニバル(前篇)(2009.08.30)
「カーニヴァルテーマ」カテゴリの記事
- ブラジル不思議・探検(2009.06.26)
- 浅草サンバカーニバル幻想(2008.09.18)
- 浅草サンバカーニバルへ(4)…美は細部にあり!(2008.09.06)
- 浅草サンバカーニバルへ(2)…東京 ! サウダージ(2008.09.03)
- 30日(土)は浅草サンバカーニバルの日!(2008.08.28)
「サンバ(ブラジル)関連用語」カテゴリの記事
- 浅草サンバカーニバル幻想(2008.09.18)
- サンバ(ブラジル)関連用語解説(2007.02.05)
「番外編」カテゴリの記事
- 09浅草サンバカーニバル画像情報(2009.08.30)
- 間もなく西牧 徹 展「月と雷雲1865」(2009.04.25)
- あなたを縛るものは何ですか(2009.04.21)
- 浅草サンバカーニバル幻想(2008.09.18)
- ベリーダンサーさんサイト情報(2008.09.17)
「妄想的エッセイ」カテゴリの記事
- 深井克美 あるいは 愚よ、愚よ、汝を如何せん(2015.08.12)
- メリッサ・マクラッケン あるいは豊饒なる共感覚の世界(2015.06.26)
- エロスの罠(2012.05.01)
- アウトサイダーアート…あなたはもう帰れない(2011.02.06)
- バシュラール『水と夢』の周辺(2009.09.21)
「サンバエッセイ」カテゴリの記事
- ブラジル不思議・探検(2009.06.26)
- 09浅草カーニバルテーマ「アマゾン」の周辺散策(2009.06.24)
- 浅草サンバカーニバル幻想(2008.09.18)
- 浅草サンバカーニバルから(5)…宴の後(2008.09.07)
- 03志村銀座サンバパレードに行って来た(2008.09.05)
「ダンス」カテゴリの記事
- 草刈民代写真集『バレリーヌ』新聞広告写真を巡って(2010.05.28)
- 2010年リベルダージ New Year Party のお知らせ!(2010.01.10)
- ベリーダンサーさんサイト情報(続篇)(2009.12.27)
- 09浅草サンバカーニバル画像情報(2009.08.30)
- 私的第29回浅草サンバカーニバル(後篇)(2009.08.31)
「美術エッセイ・レポート」カテゴリの記事
- バンクシーをも呑み込む現実?(2022.10.27)
- フローベールからオディロン・ルドン作「聖アントワーヌの誘惑」へ(2018.10.23)
- ニコライ・レーリッヒの孤高の境涯(2016.05.18)
- 川合玉堂の「二日月」に一目惚れ(2016.02.25)
- 先手必笑(2015.08.10)
「旧稿を温めます」カテゴリの記事
- ヴィルヘルム・ハンマースホイとリルケ(2015.05.21)
- IT is キラー・クラウン(2015.05.23)
- アウグスト・ペイショットの終末への追懐(2015.05.24)
- Yaga Kielbの澄明なる迷宮世界へ(2015.05.22)
- アルトドルファー:風景画の出現(前篇)(2013.03.21)
コメント
少し大きめのを載せてみました。
http://blog.goo.ne.jp/otidagya/e/59e557cf4004de1a6122480487f698c3
投稿: bato | 2008/09/19 04:07
bato さん
ありがとう!
大き目の画像、そのままのサイズで載せちゃいました。
必ずしも、クリックして拡大画像を見てくれるとは思えないしね。
浅草サンバカーニバルの番外編は、今月末のつもりでいたので、ちょっと異例な記事になっちゃった。
体力・気力があれば、番外編として「愛のファンタジア」的なものを書きたいんだけど、いつになることやら:
http://atky.cocolog-nifty.com/manyo/2007/01/post_61b6.html
それにしても、bato さんサイトの画像群、壮観です。
浅草サンバカーニバルについて、チーム毎にはそれぞれの記録があるんだろうけど、全貌を捉えているという意味では、稀有なサイトなのでは?
投稿: やいっち | 2008/09/19 13:18