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2008/09/23

川村清雄…洋画の洗礼の果てに(後篇)

[本稿は、「川村清雄…洋画の洗礼の果てに(前篇)」の後篇です。]

神戸新聞Web News 文化 尼崎で初の桜井忠剛展」によると、桜井忠剛の絵について、「気づくのは、横長の絵がとても多いこと。また異常に細長い絵もある。これは柱とふすまでできた日本家屋に、西洋画を掛けるための解決策。ついたてや板戸に描いたものもあり、いわば「油絵で描く日本画」の試みがなされている」としている。

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↑ 川村清雄《ヴェネツィア風景》 (Landscape of Venice) (画像は、「川村清雄《ヴェネツィア風景》コレクション名品選」より。) 「この《ヴェネツィア風景》は、明治14年に帰国するまでの約8年間にわたるヴェネツィア滞在中に、近郊の農家の庭先を明快な色調とすばやい筆致で描写した川村清雄の数少ない滞欧作品のひとつ」とか。

 その上でさらに「神戸新聞Web News 文化 尼崎で初の桜井忠剛展」によると:

「板の木目を重視し、画面構成をしている」と尼崎市教委の大槻晃実学芸員。漆塗りの板に油絵の具で描いた奇妙な味の作品も残されているが、これは「桜井の師の川村清雄と、桜井と同時期に京都で活躍した伊藤快彦にしかみられない」ことを明らかにした。

 冒頭の転記文に、「気づくのは、横長の絵がとても多いこと。また異常に細長い絵もある。これは柱とふすまでできた日本家屋に、西洋画を掛けるための解決策」とあるが、だったら縦長の画が多くなるはずではないのか。掛け軸なども中国などの影響もあろうが、書院や床の間に相応しいから日本で広まった面があるはずだし。

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↑ 川村清雄「巨岩海浜図」 (1912-26年(大正期)頃  油彩、板 43.5×174.0cm) (画像は、「静岡県立美術館【主な収蔵品の作家名:川村清雄】」より。) 川村清雄(1852-1934(嘉永5-昭和9)) 

 むしろ、これはあくまで憶測だが、横長の絵は、あるいはパノラマ風な表現の効果を狙ったのではなかろうか。
パノラマ - Wikipedia」によると、「パノラマとは、1792年にスコットランドの画家ロバート・バーカーによって作られた造語である。内部から見られる円筒周面に、風景画などを記述したといわれる」とか。

 川村清雄は渡欧中に何処かでパノラマ写真か絵画作品を、それともパノラマの装置そのものを見る機会があったのではないか、なんて、彼の横長のパノラマ風な絵を見ていると、憶測を逞しくしてしまうのである(←根拠なし)。

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→ 高階秀爾・三輪英夫 編『川村清雄研究』(美術出版) 内容紹介によると、「川村清雄(1852-1934)は、明治初期の日本人として初めて欧州で本格的な油画技法教育を受けた画家で、勝海舟の庇護のもと画作三昧の生涯を送った。本書は彼の画業と生涯について、遺された書簡、資料を翻刻し、また多数の図版を収めて、明治初期の留学の実態を明かすと共に、画業を紹介する。併せて滞欧中の徳川家達の清雄宛書簡46通を公開」とか。

日本近代洋画への道 ―山岡コレクションを中心に―」なる頁にある以下の記述:

江戸時代後期から明治時代にかけて、さまざまな西洋文明とともに、西洋絵画の技法や表現が日本にもたらされました。初めて西洋の絵を目にした当時の画家たちは、現実をそのまま写し取ったかのような迫真的な表現に驚きました。その描写表現に魅了された彼らは、西洋絵画の技法を身につけようと、道具も技術もないまま試行錯誤を繰り返しました。日本における近代洋画の始まりです。画家たちは、遠近法や明暗法をとりこみつつ、最初は技術として西洋画法を受け入れましたが、やがては新しい芸術の創造を目指して、一歩一歩あゆみだしていきました。

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← 川村清雄『鸚鵡』(油彩、板・朱漆塗 84.5×36.3センチ 加島コレクション) (画像は、「Web版「正論」・Seiron」より。以下の引用も):

 大胆な構図で描かれた鸚鵡が今にも飛び出してきそうである。蝶に驚いて片方の羽を広げたところ。羽音まで聞こえてきそうだ。

 背景の紅は、実は板に塗られた漆。その上に油彩を施している。どんな技法で絵の具を漆に定着させたのか、定かでないという。

 そこまではいい…。

 覚悟と貪欲な摂取の念で若い頃に渡欧し、洋画を学んだ多くの明治の画家たち。
 その多くが晩年に到るにつれ、日本的な油絵を模索するようになる。
 洋画の技法を俊英たちが身につける。そこまでの道のりも想像を絶して大変だったろう。
 が、もっと困難なのは<オリジナル>な画風を築き上げること。

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→ 林えり子/著『福沢諭吉を描いた絵師 川村清雄伝』(慶応義塾大学出版会) 「書籍紹介」によると、「幕末から明治への激動の時代に旗本から画家へ転身し、波乱に富んだ人生を送った川村清雄。明治4年に徳川家私費留学生として渡米し、パリを経て、明治8年には王立ベネチア美術学校に学び、欧米で直接画技を習得した最初期の日本人である。清雄は、自身の肌に染み込んだ江戸のこころを失わず画業にはげんだが、列強に追いつけ追いこせの国ではそんな油絵師の存在など芥子粒に等しかった。その実力にも関わらず、時流に乗れず久しく忘れ去られていた。勝海舟など幕末から昭和にかけての重要人物とも親交があり、清雄を通して歴史の新たな一面が提示される」だって。面白そう!

 日本人としてどんな絵を描くのか。
霞を描いたり板や屏風に描いたり、油絵の日本化を試み」たり…。
 こればっかりは気迫や覚悟や生真面目な精進だけではどうにもならない。
 晩年の日本的情緒に偏した画風。
 本人たちの意図や狙いは別にして、何処か寂しい結末と感じる向きもあるのではないか。

 それにしても、肝心の川村清雄の《ベニス風景》なる絵の大きな画像がネットでは見つからなかったのは残念(冒頭から二番目に小さな画像を掲げてある)。
 この絵(の画像)が引き金というか契機になって本稿を書く気になったのに。

 いつか、またこの絵も含めた展覧会の開かれることを待つしかないのか。

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← 川村清雄「素描 [ヴェニス風景]」 (画像は、「江戸東京博物館 素描 [ヴェニス風景]」より。)

 こうして川村清雄ら明治の画家たちを見てくると、オリジナルな画風をとか、折衷だなんて、安易には口に出せないとつくづく思う。
 怒涛の欧米文化の流入と摂取にあって、溺れないでいるだけでも常人の想像を超えた精進と労苦があったのだろう。
 対岸へ辿り着けたのは、ほんの一握りであっても、少しも不思議じゃないのかもしれない。
 晩年には、「公的な出品を絶ち自らの絵画世界を深めてい」ったというが、その孤独な営為や心境は如何なるものであったのだろう。

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