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2008/08/16

Perle ペルレ…遍路の旅は六道の闇夜へと

 ネットを好みのタッチの素描(デッサン)を求めて放浪(漂流)していたら、「Perle(ペルレ)」という名の線描作家の作品に遭遇した。

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→ 「ものをくれたとすればそれは奪うためであった21」 (以下、画像は最後の一枚を除き、何れも「ペルレ」より。)

 幾つか同氏の作品を断りもなく掲載させてもらうが(あくまでネットでの画面で観た印象という限定の上でのこととして)、エゴン・シーレの素描のタッチをどうしても連想させる。

 そんな感想を述べたら、本人は光栄に思うか、迷惑に思うだけなのか。
 チェッとか、アホめ! という舌打ちの音が聞こえてきそう。

 学生時代だったか、エゴン・シーレの世界に痺れて久しい小生、ある意味、ちょっとでもシーレの匂いを嗅ぎ取ると、誤解になりかねないとしても、どうしても、その色眼鏡(偏見?)で見てしまうのかもしれない。
 あるいは、平面アートへの小生の素養のなさのゆえなのかもしれないとも思う。

20

← 「ものをくれたとすればそれは奪うためであった20

 画家でなく、彫刻家でも、デッサンでは意外な面を示してくれる作家のいることを学んだばかりだし:
ロダンのエロス

 そもそも、線描画家と勝手に呼称したが、ペンによる線描以外の世界に挑戦しているのかどうか、分からない。

 ペンに限らず、鉛筆や版画など、切っ先一つで描いてく作品は小生、大好きである。
 惑溺への志向、ナルシズム志向があれば、レオノール・フィニも好きになるかもしれない。
 あるいは、ハンス・ベルメールらの影響もあるのか、なんて、まだ言っている。
(線描画で)小生の一番の好みはヴォルスであることは、これまで何度となく言ってきたこと。

 最初に同氏の世界にネットで遭遇した頁は下記である。
vanilla-gallery Perle展 「沈黙の素描」 (2008年6月30日~7月5日)」:

無限にあるとも言える手段のなかから最もシンプルな部類に属するペンによる線描を選んでいる理由は手段に煩わされることなく描きたいという自身の性質によるものです。伝えるようなことは何ひとつ持ち合わせてはいません。黙した画こそ最上と考えます。

Perle(ペルレ)/プロフィール
1977年岡山生まれ。男。
道具→紙・ペン・墨・時間・慈悲深さ等。


15

→ 「ものをくれたとすればそれは奪うためであった15

 調べてみたら、「現代日本のエロテックアート展 - The exhibition of contemporary Japanese erotic art」(2008年4月3日~10月16日)に参加しているし、(以前(04年)にも東京・銀座「ヴァニラ画廊 vanilla-gallery」で展覧会(個展)を開いていた。

vanilla-gallery ペルレ展「虚像展」」:

怪我をした指先から
溢れ出た血が
黒い半球を作った
なんだ

血の色は黒いのか
血を拭った白い紙に
黒が際立っていた
純白は

穢される為にある色
目にしたものを

写し取ろうと思った
白地のうえに黒線を紡ぐ


11

← 「ものをくれたとすればそれは奪うためであった11

ぺルレとはフランス(ドイツ)語で真珠の意味」のようだ。
 ペルレと読ませるということは、ドイツ語の名称なのか(断定は控える)。

 調べたら、ホームページらしきものが見つかった:
ペルレ

 本人的には、サイト自体の存在がまだるっこしいようだ。
 絵だけで表現したい。意味などない…。
 文章を書くのが好きな作家もいれば、絵だけという人もいる。後者のタイプなのだろうか。

1

→ 「ものをくれたとすればそれは奪うためであった1

WEB MAGAZINE "mistoa" vol.5 に参加」しているとか:
WEB MAGAZINE mistoa perle - 「擬似録」

 ここには、「首のない地蔵に手を合わせ世界の終わりを祈った」という文言で始まる「擬似録」という名の黙示録風な詩が載っている。
 眼目は、「ものをくれたとすればそれは奪うためであった」にあるのかもしれない。

 右手と左手の邂逅と齟齬と。
 でも、両者はその気がなくてもぶつかったりするんだね。

 サイト作りはともかく、言語表現への志向があるらしい。
 絵という直接的なイメージ表現(という幻想)と言語という抽象的イメージ表現(という症状)との股裂き。
 こういった作家は好きだ。
 ジャン・コクトー(Jean Cocteau)とか池田満寿夫とか。

Perle_gijiroku

← 画像は、「WEB MAGAZINE mistoa perle - 「擬似録」 より。

 七月の下旬近くから四国へチャリでの遍路の旅に出かけたらしい。もう、旅は終えたのだろうか。
 まだ、旅の途中?
 遍路の旅はいつかは終わっても、表現への旅に終わりはない。

 所詮は傍観者に過ぎない小生、勝手なことを言わせて貰えば、アーティストにはもっともっと世界を引き裂き自らを股裂きの刑に処して欲しいものだと思う。
 遍路の旅はむしろ心と肉体とをめぐる六道の闇夜をこそ目指して欲しいと思う。

 その迷妄や美と苦と快の堕地獄に何処まで耐えられるのか、高みの見物がしたいのだ。

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