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2008/07/10

リベルダージ、今年の浅草テーマは海中探検

[本稿は、「リベルダージ、今年は海中探検!」に続く、第二弾です。]

 今年は海中探検って云っても、小生が探検するわけじゃない。
 サンバ・エスコーラ(チーム)であるリベルダージ(G.R.E.S.LIBERDADE)の「2008年浅草サンバカーニバル」に向けてのパレードテーマ(Enredo)が既に公表されているのだ:
海中探検~海深くどこまでも 潜水艇リベルダージ号~

Tobirae

今回の主役は、潜水艦リベルダージ号! 波打ち際から出発し、やがて深海の幻想世界へと、探検していきます。 潜水艦は勇敢に進み、様々な海中の生物たちに出合うのですが、 幾度となく、行く手を阻むアクシデントも?? さあ!沿道の観客も一緒に海の冒険へと連れていってあげましょう!

 小生の手になる、海をテーマの拙稿の数々は、「リベルダージ、今年は海中探検!」にて紹介済みです。
 ここには潜水艦に関係する拙稿「バチスカーフ」だけリンクを張っておきます。


 以下、拙稿から「海」をイメージしたやや瞑想(妄想)っぽい叙述を転記する。
 あくまで小生の妄想・瞑想・邪念の世界です。チームのテーマとは関わりありません:

 夢の世界に居る。真っ青な海の中。自分が海の真っ只中にいて、時に浮かび、時に潜って行く。
  そう、潜って行くのである。決して沈んでいくわけではない。なぜなら、不思議な浮遊感が自分の体を満たしているのが分かるからだ。海の水が体を浸潤している。目の玉にも耳の穴にも鼻の穴にも、尻の穴からだって、尿道口からでさえ、水は遠慮なく入り込んでくる。
 まして、口内を満たした命の水が喉から胃袋へ、あるいは肺にまで浸透し満ち溢れ、やがては我が身体を縦横無尽に走る毛細血管もリンパ管も神経の無数の筋をも充満させ、気が付くと、海水で膨らまされた気泡にまで変えてしまった。
 そうだ、今は一つの泡なのだ。私とは、泡の膜なのだ。それ以上でもそれ以下でもない。
 私には苦しみもなければ喜びもない。あるのは、波の戯れにゆらゆら揺れる膜の襞の変幻だけ。体に満ちる瑞々しい感覚。外界と内界とが分け隔てなく、自在に交流する自由感。
 私は今、一個の宝石になっている。水中花より遥かに永遠なる輝きと神秘を誇る太古の宝石に。
 私に光は要らない。太陽の光をたっぷりと吸い込んでいるから。どんなに深い海の底にあろうと、光の粒は無数に回遊する微生物の体を通して私に届く。マリンスノーは光のペイジェント。その光のイルミネーションこそが、私の餌。私の細胞。私を光り輝かせるエネルギー。
 私は、この世がある限り、自光する。
 私は美しく優雅に、優美に、優艶に、悠々と泳ぎ漂う。私は命そのものだ。たとえ、行き逢った海の生物に私の裸の肉体の一部が齧られようと、平気。ほんのしばしの時の後に、凹んだ身体が前にも増して艶艶の肌を蘇らせるのだから。
 だから、むしろ、私は食べられたい。命の欠片を誰彼構わず与えることで、私は永遠に近付いていくことを実感する。
 食べられた肉片は、相手の体の血肉となる。骨となる。体液となる。水晶体を構成するゼリー状の液晶となって、私は私の居ないはずの場所をも見、聞き、嗅ぎ、舐め、感じるのだ。
 齧られるたびに、私は世界により深く偏在していく、というわけだ。こんな喜びが他にありえるだろうか。
 私は膜。この世を包み込む膜。私は膜に包まれる一個の宇宙。私は膜に包まれている……? そうかもしれない。けれど、一体、膜に包まれているのは、本当に私なのだろうか。むしろ、膜の内側にあるのは、宇宙のほうではないのか。
 ああ、私は偏在する。千切れた肉片が、細胞の一つ一つが、海の中だけではなく、魚を通じ、やがては鯨に熊にイルカに人にだって、なる。蝶にも蟻にも、ミミズにだって、なる。屍骸となった私は微生物達に分解されて、植物にもなる。
 植物達の体で私は、ふたたび光と出会う。光合成する葉緑体で、海に淵源する私は、大気中の光の粒たちとの再会を祝福する。至福の時を生きる。
 濁れる海。限りなく透明で、それでいて際限もなく豊かな海。海とは、世界だ。世界が一つに繋がっている何よりの証明だ。海とは、池でもなければ、川でもなく、世界の融合のことなのだ。
 青海原。浮き漂う脂の如き命の種。形さえない、天に咲く木や花の花粉。花粉の中には原初の光景が詰まっている。モノとモノでないものとの境目の時の産みの苦しみと歓喜の記憶が刻み込まれている。微細な粒子の胎動が、目を閉じた私の脳裏を不思議な感動で惑わせる。
 命の胎動は、遥かな昔同様、今も鳴動していることが分かる。感じる。
 私は黴。私は苔。私は茸。私は藪。私は壺。私は花。私は草。私は肉。私は土。私は水。私は海。私は気。私は風。私は息。私は時。私は愛。私は全。そう、私は全てなのだ。私は命の誕生そのものなのだ。
          (「ディープタイム」より)

Libe2008flyer_a

↑  『2008年浅草サンバカーニバル リベルダージのパレード参加者募集中!』のチラシ(表面 (jpg.642kb)
)です。チラシには「裏面 (jpg 439kb) 」もある! 可能な方、関心のある方は是非、画像の拡大、もしくはプリントアウトしてみて!

 

いつだったか、夜毎に色鮮やかな夢を見つづけたことがある。文字通りの総天然色の夢。その中でも青や紺色の、鮮烈というより毒々しいほどの凄みに驚いたものだった。何故、そんなに色がその粒子の一粒一粒に至るまで命を持ち、燃え立っているような夢を見てしまうのか、しばらくは分からなかった。
(略)
 月の光が、胸の奥底をも照らし出す。体一杯に光のシャワーを浴びる。青く透明な光の洪水が地上世界を満たす。決して溺れることはない。光は溢れ返ることなどないのだ、瞳の奥の湖以外では。月の光は、世界の万物の姿形を露わにしたなら、あとは深く静かに時が流れるだけである。光と時との不思議な饗宴。
 こんな時、物質的恍惚という言葉を思い出す。この世にあるのは、物質だけであり、そしてそれだけで十分過ぎるほど、豊かなのだという感覚。この世に人がいる。動物もいる。植物も、人間の目には見えない微生物も。その全てが生まれ育ち戦い繁茂し形を変えていく。地上世界には生命が溢れている。それこそ溢れかえっているのだ。
 けれど、そうした生命の一切も、いつかしらはその物語の時の終焉を迎えるに違いない。何かの生物種が繁栄することはあっても、やがては他の何かの種に主役の座を譲る時が来る。その目まぐるしい変化。そうした変化に目を奪われてしまうけれど、そのドラマの全てを以ってしても、地上世界の全てには到底、なりえない。
 真冬の夜の底、地上世界のグランブルーの海に深く身を沈めて、あの木々も、あそこを走り抜けた猫も、高い木の上で安らぐカラスも、ポツポツと明かりを漏らす団地の中の人も、そして我が身も、目には見えない微細な生物達も、いつかは姿を消し去ってしまう。
 残るのは、溜め息すら忘れ去った物質粒子の安らぐ光景。
          (「真冬の月と物質的恍惚と」より)

 
夢の中にいる。夢だと分かっている。間違いなく夢に違いないのだ。そんな世界がありえるはずがないし。
 でも、この世界から抜け出せない。上も下も右も左も、どっちを向いても、水である。水に浸されている。口を固く閉じているつもりだけど、つい油断して口を開けてしまう。すると、口の中に水が浸入してくる。水が口中だけじゃなく、喉にまで入り込み、内臓をも水浸しにしてしまう。
 喉に入った水は、容赦なく気管支に流れ込み、肺にも入り込んで、肺胞を水攻撃し、水鉄砲で突っつき始め、ついには、無数に分枝したその末端にある肺胞の一個一個が肺の本体から剥がれ落ち、気が付けば、ブクブク上がる水の泡どもと紛れてしまって、もう、水の泡なのか肺胞だったのかの区別も付かない。
            (「ディープブルー」より)

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