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2008/05/01

血まみれ?芳年(3)

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← 雑草に埋もれている我が家の畑!

 このところ、草むしりが日課。とにかく、生える量より多くを毟るのがノルマだ。

 さて、徳田良仁著の『芸術を創造する力―イメージのダイナミックス』(紀伊国屋書店)から、「狂画家」「血まみれ芳年」の側面に照明を当てている一文を抜粋・転記している。
 今日もその続きである。

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→ 画像は、「無為庵乃書窓」のなかの「月岡芳年」より。芳年は、こういう絵も描く。

 当時は発禁物であったが、この一作こそ芳年のサディスティックなイメージ表現を代表し、後世に残るものとなったのである。宗谷真爾は、この妊婦逆さ吊りの表現に対して「芳年は実子に恵まれなかった。かれは新たな生命(分身)におのれの血を見出すことができず、空の空なる地点に空転する虚ろな生を自己凝視したのだった。すなわち、その人生は破壊のための破壊という絶対の空無化に終始せざるを得なかったのだ。その修羅の世界において女は、蠱惑(こわく)の対象であるとともに憎悪の対象でもあった。おそらく《奥州安達ヶ原ひとつ家の図》などは、潜在的な妊娠願望ととれぬこともない。願望がありながら到達しえないという不満が、深層のどこかで怨恨、攻撃と握手するのである」(『影の美学』新潮社)とのべる。
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← 月百姿 「つきのかつら」 (画像は、「芳年のようなもの」のなかの「月百姿」より)

 このような血みどろならざる残虐図は、ある意味では芳年の個人的な嗜好性における美学の発展的なものとみるべきかもしれない。一方、嘉永、安政に生きた人間には、明治維新の生きた血の悲劇の幕開きでもある。ブラッディ・シーンは、実際のところ民衆の生活の周辺、近接したところで展開された。その血のにおいに対し、人心はアパセティックになりつつあったとも想像されるが、この幕末の時代性は、いわゆるダダ的風潮と共に、刺激のより強いものを求めさせたのかもしれない。その時、その頃、そのような風潮にたくみに乗ろうとすれば、必然的に芳年のようなブラッディ・シーンが偏愛されても、なんら不思議はないのかもしれない。
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→ 新形三十六怪撰「清弦の霊 櫻姫を慕ふの図」(画像は、「芳年のようなもの」のなかの「新形三十六怪撰」より) 襖(ふすま)の暈し表現に凄みを感じる。

 宗谷は、芳年の作品の中の《英名二十人衆句》の競作に関連して「芳年のそれは、本質的に破壊的な性向と血のフェティシズムに支配されていたのだった」とのべ、さらに「芳年のそれは、平和な時代を迎えても日常のペルソナ(対社会的人格、仮面)によっておおいつくすことのできぬ先天的な資質が尖鋭に存在していたことを物語っている」とのべている。芳年の場合、彼の人生航路には躁うつ病的気分交代に伴って前後二回にわたって画業高揚、そして抑うつ的沈滞の両相が存在する。この交代する基本的気分に関連して、多少なりともサディスティックなモチーフを主景とする表現と彼自身の性向、そしてその時期の基本的な欲動とが密接に関連するようにみえる。これはすなわち、自らのサド・マゾヒスティックな欲望充足のための衝動が、そのままの日常の行動としては顕在化せず、一方で無意識の選択としての残虐画表現によって代償行為を完結させるという、ひとつの偏向を示しているものと解し得ないだろうか。
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← 「大物海上月」(『月百姿』)(画像は、「まよひが」のなかの「月岡芳年について」より)
(中略)
 現実に芳年の場合、精神的に正常安定な時期における創造的高揚期において、サド・マゾヒスティックな幻想が彼自身の肉体的な欲動とからくも均衡を保ち、さらにまったく逆の嗜好性において残虐シーンの連作においても、なお自らの社会的安定化を保ち得るような心理的状況を維持しえたともいいうるのではないか。
                        (転記終り)
                        (08/03/28作)

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