リベルダージ、今年は海中探検!
今年は海中探検って云っても、小生が探検するわけじゃない。
サンバ・エスコーラ(チーム)であるリベルダージ(G.R.E.S.LIBERDADE)の「2008年浅草サンバカーニバル」に向けてのパレードテーマ(Enredo)が既に公表されているのだ:
「海中探検(仮題)」
→ 『海の宇宙ステーション シーオービター(Sea Orbiter)』(Illustration: Jacques Rougerie) (画像は、「Gemini - Research news from NTNU and SINTEF」より) 「海の宇宙ステーション:シーオービター」を参照のこと。
「G.R.E.S. LIBERDADE---浅草サンバカーニバル:2008年 パレードテーマ---」なる頁を覗くと、リベルダージのパレードテーマ(Enredo)である『海中探検(仮題)』について以下のように謳われている:
今回の主役は、潜水艦リベルダージ号! 波打ち際から出発し、やがて深海の幻想世界へと、探検していきます。 潜水艦は勇敢に進み、様々な海中の生物たちに出合うのですが、 幾度となく、行く手を阻むアクシデントも?? さあ!沿道の観客も一緒に海の冒険へと連れていってあげましょう!
小生、「海」に関連する記事は結構な数、書いてきた:
「海の宇宙ステーション:シーオービター」(2008/02/06)
「知られざる宇宙 海の中のタイムトラベル」(2008/02/05)
「海洋画家アイヴァゾフスキー(前篇)」(2008/01/17)
「海洋画家アイヴァゾフスキー(後篇)」(2008/01/18)
「水から陸への冒険…人間は魚類の一員だ!」(2007/09/14)
「水母・海月・クラゲ・くらげ…」(2007/04/05)
「地と海とグランブルーに繋がれる」(2006/12/23)
「中島敦著『南洋通信』」(2006/12/04)
「『白鯨』余聞・余談」(2006/04/28)
「「白鯨」…酷薄なる自然、それとも人間という悲劇」(2006/03/26)
「クジラ後日談・余談」(2006/04/18)
「白鯨とイカと竜涎香と」(2006/04/17)
「私の耳は貝のから 海の響きをなつかしむ」(2006/04/12)
「白鯨と蝋とspermと」(2006/03/20)
「はだかの起原、海の惨劇」(2006/02/06)
「バチスカーフ」(2005/06/17)
「蛤 浅蜊 桜貝 鮑 飯蛸 海雲 海胆…」(2005/04/23)
以下、拙稿から「海」をイメージしたやや瞑想(妄想)っぽい叙述を転記する:
夢の世界に居る。真っ青な海の中。自分が海の真っ只中にいて、時に浮かび、時に潜って行く。
そう、潜って行くのである。決して沈んでいくわけではない。なぜなら、不思議な浮遊感が自分の体を満たしているのが分かるからだ。海の水が体を浸潤している。目の玉にも耳の穴にも鼻の穴にも、尻の穴からだって、尿道口からでさえ、水は遠慮なく入り込んでくる。
まして、口内を満たした命の水が喉から胃袋へ、あるいは肺にまで浸透し満ち溢れ、やがては我が身体を縦横無尽に走る毛細血管もリンパ管も神経の無数の筋をも充満させ、気が付くと、海水で膨らまされた気泡にまで変えてしまった。
そうだ、今は一つの泡なのだ。私とは、泡の膜なのだ。それ以上でもそれ以下でもない。
私には苦しみもなければ喜びもない。あるのは、波の戯れにゆらゆら揺れる膜の襞の変幻だけ。体に満ちる瑞々しい感覚。外界と内界とが分け隔てなく、自在に交流する自由感。
私は今、一個の宝石になっている。水中花より遥かに永遠なる輝きと神秘を誇る太古の宝石に。
私に光は要らない。太陽の光をたっぷりと吸い込んでいるから。どんなに深い海の底にあろうと、光の粒は無数に回遊する微生物の体を通して私に届く。マリンスノーは光のペイジェント。その光のイルミネーションこそが、私の餌。私の細胞。私を光り輝かせるエネルギー。
私は、この世がある限り、自光する。
私は美しく優雅に、優美に、優艶に、悠々と泳ぎ漂う。私は命そのものだ。たとえ、行き逢った海の生物に私の裸の肉体の一部が齧られようと、平気。ほんのしばしの時の後に、凹んだ身体が前にも増して艶艶の肌を蘇らせるのだから。
だから、むしろ、私は食べられたい。命の欠片を誰彼構わず与えることで、私は永遠に近付いていくことを実感する。
食べられた肉片は、相手の体の血肉となる。骨となる。体液となる。水晶体を構成するゼリー状の液晶となって、私は私の居ないはずの場所をも見、聞き、嗅ぎ、舐め、感じるのだ。
齧られるたびに、私は世界により深く偏在していく、というわけだ。こんな喜びが他にありえるだろうか。
私は膜。この世を包み込む膜。私は膜に包まれる一個の宇宙。私は膜に包まれている……? そうかもしれない。けれど、一体、膜に包まれているのは、本当に私なのだろうか。むしろ、膜の内側にあるのは、宇宙のほうではないのか。
ああ、私は偏在する。千切れた肉片が、細胞の一つ一つが、海の中だけではなく、魚を通じ、やがては鯨に熊にイルカに人にだって、なる。蝶にも蟻にも、ミミズにだって、なる。屍骸となった私は微生物達に分解されて、植物にもなる。
植物達の体で私は、ふたたび光と出会う。光合成する葉緑体で、海に淵源する私は、大気中の光の粒たちとの再会を祝福する。至福の時を生きる。
濁れる海。限りなく透明で、それでいて際限もなく豊かな海。海とは、世界だ。世界が一つに繋がっている何よりの証明だ。海とは、池でもなければ、川でもなく、世界の融合のことなのだ。
青海原。浮き漂う脂の如き命の種。形さえない、天に咲く木や花の花粉。花粉の中には原初の光景が詰まっている。モノとモノでないものとの境目の時の産みの苦しみと歓喜の記憶が刻み込まれている。微細な粒子の胎動が、目を閉じた私の脳裏を不思議な感動で惑わせる。
命の胎動は、遥かな昔同様、今も鳴動していることが分かる。感じる。
私は黴。私は苔。私は茸。私は藪。私は壺。私は花。私は草。私は肉。私は土。私は水。私は海。私は気。私は風。私は息。私は時。私は愛。私は全。そう、私は全てなのだ。私は命の誕生そのものなのだ。
(「ディープタイム」より)
← 「Aqua Blue」 (画像は、「Free Web Graphics」サイトの「La Moon」より)
いつだったか、夜毎に色鮮やかな夢を見つづけたことがある。文字通りの総天然色の夢。その中でも青や紺色の、鮮烈というより毒々しいほどの凄みに驚いたものだった。何故、そんなに色がその粒子の一粒一粒に至るまで命を持ち、燃え立っているような夢を見てしまうのか、しばらくは分からなかった。 (略) 月の光が、胸の奥底をも照らし出す。体一杯に光のシャワーを浴びる。青く透明な光の洪水が地上世界を満たす。決して溺れることはない。光は溢れ返ることなどないのだ、瞳の奥の湖以外では。月の光は、世界の万物の姿形を露わにしたなら、あとは深く静かに時が流れるだけである。光と時との不思議な饗宴。 こんな時、物質的恍惚という言葉を思い出す。この世にあるのは、物質だけであり、そしてそれだけで十分過ぎるほど、豊かなのだという感覚。この世に人がいる。動物もいる。植物も、人間の目には見えない微生物も。その全てが生まれ育ち戦い繁茂し形を変えていく。地上世界には生命が溢れている。それこそ溢れかえっているのだ。 けれど、そうした生命の一切も、いつかしらはその物語の時の終焉を迎えるに違いない。何かの生物種が繁栄することはあっても、やがては他の何かの種に主役の座を譲る時が来る。その目まぐるしい変化。そうした変化に目を奪われてしまうけれど、そのドラマの全てを以ってしても、地上世界の全てには到底、なりえない。 真冬の夜の底、地上世界のグランブルーの海に深く身を沈めて、あの木々も、あそこを走り抜けた猫も、高い木の上で安らぐカラスも、ポツポツと明かりを漏らす団地の中の人も、そして我が身も、目には見えない微細な生物達も、いつかは姿を消し去ってしまう。 残るのは、溜め息すら忘れ去った物質粒子の安らぐ光景。 (「真冬の月と物質的恍惚と」より)
夢の中にいる。夢だと分かっている。間違いなく夢に違いないのだ。そんな世界がありえるはずがないし。 でも、この世界から抜け出せない。上も下も右も左も、どっちを向いても、水である。水に浸されている。口を固く閉じているつもりだけど、つい油断して口を開けてしまう。すると、口の中に水が浸入してくる。水が口中だけじゃなく、喉にまで入り込み、内臓をも水浸しにしてしまう。 喉に入った水は、容赦なく気管支に流れ込み、肺にも入り込んで、肺胞を水攻撃し、水鉄砲で突っつき始め、ついには、無数に分枝したその末端にある肺胞の一個一個が肺の本体から剥がれ落ち、気が付けば、ブクブク上がる水の泡どもと紛れてしまって、もう、水の泡なのか肺胞だったのかの区別も付かない。 (「ディープブルー」より)
海の厳しさにほんの少し向き合ってみよう:
それは見るも恐るべき驚異の光景だった。全能の海が盛り上がり、鈍い底鳴りの音を響かせて膨張し、四艘のボートの八枚の船縁を洗って行く。海という無限の広さをたたえたボーリング・グリーンの競技場にあって巨大な波の玉が次々に襲いかかってくるようであった。ボートは波に押し上げられ、切り立ったナイフの刃渡りのような波頭に打ち震える。二つにへし折れるかもしれないのだ。が、次の瞬間、底無しの水の谷へと滑り落ちて行った。と思うと次の波が巨大な山となって眼前に聳え立ち、そのまままっすぐ、迫ってくる。鋭く拍車を噛ませ、激しく突き棒で突き、喘ぐボートをその頂きへ押し上げていく。するともう波頭を越えたのか、あっと思うと、真っ逆様、また谷底へ橇のように滑り落ちていくのだ。このとき終始、艇長と銛打ちは叫喚と怒声を発しつづけ、漕ぎ手はオールを操りながら全筋肉を痙攣させて呻き声を発し、こうした声という声が交錯するなか、彼方より蒼白の色をしたピークオッドが全帆を広げて、泣き叫ぶ雛を追う野鴨さながら、四艘のボートめがけて異様な姿で迫り来るのだ。これすべて、心の奥底に震えが走る世界であった。初めて妻の柔らかな胸を離れ、火炎舞い散る戦場に駆り出された新米の戦士といえども、あるいは、あの世に旅立って初めて見知らぬ幽霊と出会った死者の魂といえども、これほどにまで怪異な感情を経験することはあり得ない。そこはまさに魔に魅せられた激烈なる世界、初めて抹香鯨追跡に身を置いた人が出会う世界がこれであった。
海上を走る雲の影がその暗色を濃くし、あたりが次第に薄暗くなって行くせいか、追跡される鯨の群れが上げる舞い散るようなしぶきは、いよいよその白さを鮮明にしてくる。漂い上がる水蒸気はもう混ざり合うのを止めて右に左に、そして至るところに飛散し、個別に漂い始めている。鯨の群れがばらけてきたのだ。ボートも互いの間隔を広げて走っている。三頭の鯨が風下へ向かってまっすぐに泳いで行く。スターバックはそれを狙って追走しているのだ。我々のボートにはすでに帆が張られ、いよいよ強まる風のなかを飛ぶように走って行く。波を切って狂ったように疾走していくので、水を捉えるべく風下へ差し込んだオールはどんなに素早く漕ぎ抜いても、オール受けからもぎ取れそうになるのだ。
やがて我々のボートは、あたり一面を覆いつくすヴェールのような水蒸気のなかに突っ込んで行った。そして母船も他のボートも見えなくなってしまった。
(「ハーマン・メルヴィル作『白鯨―モービィ・ディック (上・下)』(千石 英世訳、講談社文芸文庫)」より)
更に、小説ではなく海の現実に接してみる?
海は広い。海は美しい。海にはあらゆる可能性が秘められている。そのように、書斎で考えつく海と海辺の様相がどれほど甘美であろうと、海の真ん中に放り出された人間には、生き残る可能性はほとんどない。それが現実である。
海中起原説をアクア仮説と呼んで、海中から海岸へと微妙に主張の軸をずらし、仮説の整合性をなんとか維持しようとする人々、人間の裸の起原を海に求める書斎の夢想家たちに海の現実を教えるのに、このインディアナポリス号の惨劇ほど適切な忠告はないだろう。
人間には高速で海中を進むために必要なヒレも水掻きもなく、海水温度による低体温障害を防ぐ機能もない(人間の皮下脂肪の無力さは見たとおりである)。そのうえ、飲んだ海水を微量でも処理する能力もなく、海水が脂を取り去らないように皮膚を守るわずかな手だてもないのだから、その裸の皮膚の起原を海中生活が証明するはずもない。
(「島泰三著の『はだかの起原―不適者は生きのびる』(木楽舎)」より)
→ Ivan Aivazovsky. 「The Billow.」 1889. Oil on canvas. The Russian Museum, St. Petersburg, Russia. (画像は、「Ivan Aivazovsky - Olga's Gallery」より) 「海洋画家アイヴァゾフスキー(後篇)」参照のこと。
転記文中にある「インディアナポリス号の惨劇」の一端をドキュメントタッチで垣間見る。
「ちょうどその頃(第一日目が明け、太陽は、勢いよく真上まで上がった頃)、水面下、海の深いところで恐ろしい惨劇の始まりが準備されようとしていた。それは、負傷者や死体から漏れ出る血の臭いに誘われてやって来た。海の死神とも言うべきサメの群れは、暗い海の底から次第に、海面に忍び寄っていたのである。」「サメのザラザラした背びれに少し触れるだけでも、皮膚が切れて血が出た。
そのわずかな傷跡にも無数の小魚が集まって来ては赤向け状態になった肉をついばんだ。死神は、サメだけではなかったのである。まるで、周囲にいるすべての生き物が、彼らの死を待ち望んでいるようであった。 」「海水に長時間浸かっていると、様々な症状が体中にあらわれる。まず、ふやけた腕や足に痛みをともなう赤い腫れ物が多数出来る。いわゆる海水腫瘍という症状である。それは、次第に大きくなり、バスケットボールほどにもなる。そのうち、体毛が溶かされてゆく。腎臓は機能が低下し、心臓は、わけもなく脈打ち、口で息をしなくてはならなくなる。体温は、低下して、昏睡状態の一歩手前になる。多くの者があえぐように呼吸をして、様々な集団幻想に悩まされていた。」(体温の低下で、低体温障害を起こす。海水に浸かることは、弱酸性のお湯に浸かるのと変わりない。)
「脱水症状、高ナトリウム血病などに加えて飢餓による苛立ちも追い打ちをかけていた。希望が尽き、絶望だけが支配し始めると、人はとんでもない行動に出る。ある集団は、突然、「ジャップがオレたちを狙っている!」とわめいて手当りしだいに、殺し合いを始めた。ある者は、ナイフで、また、ある者は、手で相手の目をえぐり出し、また体をメッタ刺しにして壮絶な殺し合いが海上で行われた。こうして、ほんの十分足らずの間に50人前後の人間がやみくもに殺されていった。」(「脱水症状から肉体はゴムのように重かった」)
「のどの乾きに、堪えきれなくなった者は、海水を飲もうとした。しかし、海水を飲むことは死を意味していた。海水は、人体が安全に摂取出来る水準の2倍以上の塩分を含んでいたからだ。いったん、海水を飲み始めた者の血中には、大量のナトリュウムがドッと放出されることとなる。この量は、もはや腎臓の浄化能力を越えた数値なのである。」
「やがて、くちびるが、青く変色し呼吸が不規則になる。両目がグルッとひっくり返って白くなり、神経組織まで犯されるのである。その成れの果ては、身体をけいれんさせて死を迎えるのである。これに対する有効な対策は、真水を大量に採ることしかない。だが、この大海原のどこに真水があるというのだろう。」
(「不思議館~海にまつわる恐ろしい話~」より)
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コメント
サンバとは関係ないですが、今日日本橋三越「中村征夫写真展ー命めぐる海」に行ってきました。
ジープ島、島の直径が34mしかない!
東京湾ー空き缶を住処にしている生き物がいるー。
しかし海のいちばん深いところはマリアナ海溝の10920mといいますが、人が潜って写真を撮れるところはせいぜい水深何ジゅーメートルの世界。
それだけでも生き物たちの様々な物語がある。
宇宙と同じく海の深いところも人に知られていないまま。
これからの海洋探検に期待がかかりますね。
投稿: oki | 2008/05/02 23:56
oki さん
ジープ島、初耳です。
「野生のミナミハンドウイルカとハシナガイルカが生息するトラック環礁内の島」だって:
http://www.jeepisland.info/
>宇宙と同じく海の深いところも人に知られていないまま。
これからの海洋探検に期待がかかりますね。
そう、全くその通り。
SFの話だった『海底二万マイル』が、現実に始まるのは、いよいよこれからってことです。
投稿: やいっち | 2008/05/03 03:42