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2008/04/18

死の画家ティスニカル(3)

 今日の昼過ぎはトイレ(男子用)掃除。過日は液体洗剤を塗布。今日は、鍋の焦げ付きを磨くタワシでゴシゴシ。深長にやったつもりだけど、やっぱりトバッチリを少々。

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→ 画像の真ん中の黒い点。実は我が家の庭を横切る近所の猫。黒猫に見えるが、濃いグレー。毛並みがいい。これ以上、近寄れない!

 本稿は、「死の画家ティスニカル(1)」「死の画家ティスニカル(2)」につづくもの。前回に引き続き、徳田良仁著の『芸術を創造する力』(紀伊國屋書店)からの転記である。
 では、さっそく続きを。

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C9

← Mati z otrokom, olje in tempera, lesonit, 1968 (画像は、「tisnikarjevazbirka」より)

 彼は病院を追放される運命にあったが、病院長のスタネ・ストゥルナド博士は、彼を人間として、職員として、芸術家として認め、支えることに努力したが、結局はアルコール中毒を治療するために入院させることになった。一度退院して一九六九年末に精神錯乱の発作のために再入院した。その時彼は、自己の体験したせん妄状態のときの幻視を絵に描いた。それは《せん妄》として、描きのこされた。彼はその時のことについて、「私はアルコール中毒による振戦せん妄という禁断症状を呈しており、まったく手のほどこしようもない状態に陥っていた。入院中、私は、血液中のアルコール分が薄れていくと、ひどい苦痛に悩まされた。地獄や煉獄というのはまさにこのことにちがいないとつくづく思ったものだった。亡霊が私のまわりにただよい、化け物がからかうように私につきまとい、私を苦しめた。(中略)自分の見た亡霊を忘れないうちに急いで描きとめたのだった」とのべた。また《マリボルのせん妄》は、「突然煙のような物がベッドの上からゆらゆらと窓の方へ流れるのを見た。ちょうど火が消える時にみるような煙だ。(中略)お前は剖検台の上に寝かされているのがわからないのか? 次の交代要員がおまえを処理しにくるぞといっているようだった」と、自分に起こった幻覚の一部を絵に描いている。横たわっている人間はティスニカルの自画像である。

Tisnikar

→ 「Encounter with the Truth」 (画像は、「Tisnikar」より)

 一九七〇年、ティスニカルの回顧展が開催された。そのような光栄な取扱いは、彼を立ちなおらせるのに充分なものであった。アルコール中毒を克服し、新しい心強さ、自信へと結びついていった。自分の創作が無能で取るに足らない魂の産物ではないということを示す機会が開けたことにより、彼の自己不信は消え去っていった。彼は新しく生まれ変わり、恐怖を取り除くために、または疑惑を追い払うためにも、アルコールを必要とする人間から少なくとも脱却することができたのだった。このような自信にあふれ、他者からの良き評価に支えられながらも、彼はなんらの特権を望まずに、今日も剖検室でひたすらに働き続けている。

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← 画像は、「galerija sloART - spletna ART galerija - Jože Tisnikar - Pod križem」より

 ティスニカルの作品の中で《祈祷》は、もっとも熱のこもったものである。ここには、「平和に暮らしなさい。何となれば人生は愛以外のことをするには余りにも短すぎるから。この絵はイエスの受難の世界を表している。地平線上にある空の線が生命の線を表している。手前の二つの苦痛に満ちた顔は、人類を象徴している」という、彼の人間に対する重要なメッセージが含まれている。ティスニカルは、キリストの死と人類の死とを同一視している。人類はひたすら、互いの平和を無益な死からのがれるために祈らねばならない、という寓意が描かれている。また、《行列》の構図は、ティスニカルの表現の中に何回かあらわれる。人間やカラスなどが、地平線の彼方からこちらへ向けて行列をなしている。これについて彼は、「人びとは違った歩き方をしている。なぜなら彼らは私の剖検台や墓場から蘇ってくるからである。彼らは寄り集まって、もう一度現世に蘇る道をみつけるために出発しようとしている。ロウソクを持った女性が彼らの道を照らし、灯がとだえるまで彼らは歩き続ける。ロウソクが消えるや否や彼らは暗闇にふたたび道を失い、墓地に戻ることになるのだ」とのべている。蝋燭もまた、彼の好んで用いる生命の象徴である。
 ティスニカルは、作品の全てに対して素朴な言葉で真実をこめながら語っている。彼の人生哲学は単純である。人間を天にある多くの星になぞらえる。流星を死になぞらえる。そしてその一瞬の流星をみているのがティスニカルなのだ。人間が死にゆくということについて、ほとんどのものが無関心であるか、あるいは避けて通ろうとする。しかし、ティスニカルは死の現場にたえず立ちあいながら、死と肌を深く接しあっている。そして死と生のはざまにいて、より生を豊かにし、より死の尊さを訴えかけている。ティスニカルの死のイメージ世界、そこには冷厳な燐光が発している。ひとことにしていえば、「永遠の死との出会いと鎮魂のための素朴な詩」がそこに唱えつづけられているとみることができるのではないか。

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