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2008/04/19

死の画家ティスニカル(4)

 今も相変わらず引越しの後片付けが続いている。
 納屋にあった古い家具や器具、書籍などが庭先に山積みになっている。
 その上にビニールシートを被せている。

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← 東京での我が部屋。東京を去る最後の日の朝の室内の様子。

 そのうち、業者に回収してもらうつもりでいたが、おカネがないので粗大ゴミの類いを解体しバラバラにして、燃えるゴミ・燃えないゴミ・金属・プラスチックなどに分類し、それぞれのゴミの日に少しずつ出していくことにした。
 この作業、週末に細々とやっていくので、二ヶ月は掛かりそう。

 本稿も、これまで同様、徳田良仁著の『芸術を創造する力』(紀伊國屋書店)からの転記であり、「死の画家ティスニカル(3)」に続くもの。
 今回が最後。

 === === === === 

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→ Joze Tisniskar, Love, 1977, Tempera, canvas. (画像は、「Permanent Collection Highlights Love」より)


2 死の象徴

 画家ティスニカルと親しい友人関係を保っている鳥、それは黒いカラスである。彼は《私の友人》(一九七五年)について「あのカラスを見るべきだ。二十年、いやおそらくもっと昔、私の友だちが巣から地面に落ちているカラスを見つけて私のところへ持ってきてくれた。彼の強さ、たくましさ、不死身な姿をそのまま絵にしたいと思った。何か恐ろしい出来事が地上に起き、何もかも死に絶えようとするとき生き残るとしたらあのカラスだろう」とのべている。また、彼の描く作品の中にしばしば自己像としてあらわれてる《自画像》は、自己省察、自己認識の経過にとって欠くべからざるもののひとつである。ティスニカルは「皆は私の描く人間がよく私自身に似ているという。そして私は、私が描くのはまさに人間である。やがて死ぬ人や、かつて生きていた人たちの双方を描くのだと答える。これは永遠な時の流れの過程の一部である」ともいう。そしてここでもまた、死の象徴的友人として、つねにカラスがいる。
 ティスニカルは、死の世界について「私たちは死後どんな世界に迷い込むのだろう。そこはどんな感じだろうか。そこではだれが私たちを待っているのだろうか? その世界を支配しているのはだれか? だれでもこのような疑問を持つだろう。われわれに何が起こって、どこへ行くのだろう? ある時私はあることを考え、そしてある時はまた別のことを考えている。ある時は、私が小さい頃、疲れきるまで他の子供たちと走り回ったミスリニエの花に埋れた谷のことを死後の世界と考え、またある時はこの絵のような場所が死の世界ではないかと考え、この世界に旅立っていった人は二度と帰ってくることがない」と考える。ティスニカルにとっても、死や崩壊や破壊の象徴であるカラス。カラスはまた西欧の絵画の死の象徴として生きつづけている。

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← 画像は、「Bicikel.com - Forum - Ste v sorodu...」より

(中略:カスパール・ダヴィット・フリードリッヒやヴィンセント・ヴァン・ゴッホらのカラスが登場する絵が引き合いにだされ、「カラスは死の象徴として多くの芸術家の作品の中で雄弁なところがある」と、徳田良仁氏の論が続く。)
 ティスニカルが一九七七年に描いた《最後の姿》は、一つの典型的な象徴をあらわしている。彼は自分の絵について、「この絵は私自身が死体に黒い布をかけているところを描いたものだ。私はこの動作を毎日二~三回は繰返して行なっている。死体を縫合し、きれいに洗い終ると黒い布をかけ死体公示所へ運ぶ。それ故に私は死体が棺桶に入れられ、その蓋が釘で打ちつけられるまでに死体を見ることのできる最後の一人といえる。それからは死んだ人びとは、みんな心の中か私の絵の中でのみ永遠に生きつづけるのである。それで私は剖検室と呼ばれる小さな部屋で処理された全部の人を永遠に伝え残したいのである。私は人間の最後の時を記録したいのだ」とのべている。黒い布は死の象徴であると同時に、死者への喪の意味と葬送へのはなむけである。このように、現代の素朴画家ティスニカルが生涯を投入して描きつづけている死のテーマとその表現は、果たして近代以降の画家たちの表現とどのような様式上の差異があるのか。また、死の問題に対する取り組みはどうなのか。
(以下、略。アーノルト・ベックリンやアントワーヌ・ヴィエルツ、グスタフ・クリムト、ムンクらの話題に移っていく。)

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→ Johannes Weidenheim『Joze Tisnikar』 (画像は、「Die Blauen Bücher - Verlag Langewiesche Königstein」より)

4 デス・マスク、死者との対話

 前にのべたティスニカルは、死者に対して彼自身剖検者としての立場から接し、さらに死者の家族達に対しても客観的な眼差しをそそいでいる。そのような視点から、ティスニカルは《残された人々》という作品を描いたが、この作品には黒褐色の背景の前に二人の人物、一人は女性で右手を胸にあて空虚な眼付きをして佇んでいる。もう一人の男性は、悲哀のため両手を顔にあててうずくまり、その苦悶に久しく耐えているようにみえる。当の死者は前景に横たえられ、閉じられた死者の眼は細長く白く光っていて、ことさらにそのデス・マスクの印象を強烈にしている。身体を覆う布は奇妙にも燐光のような青白さを放っている。ティスニカルは、死者と残された人々との間の心理的なありようを、次のようにのべている。

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← 徳田良仁著『芸術を創造する力―イメージのダイナミックス』(紀伊国屋書店) 「著名な精神医学者であり,また画家でもある著者が,多数の芸術作品を題材に,作品の背後にある人間精神のドラマを,いきいきと再現する。アイデンティティの模索から,ファンタジーとエロスの世界まで,作家の精神世界を描く」。(所蔵している本を携帯で撮影。)

「私はこの病院に来てから、この絵のような場面を何度となく見続けてきた。これは、死んだ人とその肉親が初めて対面する場面である。死んだ人は、昨日までは肉親たちと生活を共にしながら、将来のことなどを語り合って生活していたのである。そして今日、私は黒布を取り除き、彼を親族たちに対面させる。誰かの息子であり、夫であり、兄弟であったはずの死者は、息絶えて硬直状態で横たわっている。この事実の衝撃は一生ぬぐい去ることはできない。このような場面は、私の仕事の中でも最もつらい部分である。そしていつの時でも、私の心は最初の時と同様に衝撃をうける。愛する人を失った家族たちにとって、生活は決してもとにもどらず、完全に幸せになることはあり得ない。遺族たちの心の中には悲しみが宿り、その悲しみをいだいた人は、己の死に際してもまた、その悲しみを残していくことしかできない。その悲しみは、全世界のすべての世代を結びつけるものである」
 ティスニカルは、死体をとりかこみなげきかなしむ親族を描いているが、ことさらにこのデス・マスクは印象的である。この死者との対話としてのデス・マスクとは何か。(転記終り。以下、略)

                         (08/03/22作)

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