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2008/04/06

死の画家ティスニカル(1)

 夜はアルバイトで、帰宅が夜中の三時前後。洗い物したり、茶の間の片付けしたり、チラッとネットを覗き、本を片手に四時ごろ就寝(ほとんど読めず)。
 朝は八時過ぎに起きて、また三食の準備やら片付け、買物、掃除、合間にネットと居眠りと本(久しぶりにフロイトの文学論・芸術論……やはり疲れていて読めない)。
 近所でバードウォッチングと洒落込みたいが、庭先に来たスズメを撮るのがやっとの惨状である。
Cinposh20

→ 「全日本チンドンコンクール」 今日(6日)で終わる。

 昨日の午前はトイレ掃除。この前は男子用トイレ。今回は大のほう。小生が用を足すたびトイレットペーパーで拭いたり、ブラシで擦ったりしていた。それで十分かなと思っていた。
 油断だった。甘かった! 快晴の日中の明るい光が入り込むと便器(ウォシュレット)の汚れが目立つ!
(ちなみに、ここだけの話、我が家にウォシュレットが設置されて、帰郷する楽しみが増えた! と思ったものだった。癖になりそう(癖になっている人、異次元の悦びに目覚めた人もいるんだろうなー))。

 せっせせっせと洗いましたとさ。
 誰にも気付かれないけど、まあ自己満足。
 親戚の者も来るし、トイレは綺麗にしておかないと。

 こんな日々が続く中、ネットでの美を求めてのサーフィンがほとんど唯一の息抜きであり楽しみである。バッハやショパン、モーツァルトのCDを聴きながらってことが多い。
 たくさんあった音楽テープやレコード盤は、引越しの際、全て捨ててきた。
 カセットも本も何も当分、買えそうにない。十数枚のCD(半分はサンバ関係)だけが友であり頼りである。

 さて、閑話休題。本題に入ろう。

 === === === === === ===

ルイス・ウェインの猫」なる記事を書く切っ掛けを与えてくれた徳田良仁著の『芸術を創造する力―イメージのダイナミックス』(紀伊国屋書店)でまたもや初めてその表現世界に接した時、たまらなく欝で生臭さをも感じさせた画家に再会させてもらった。
 それはヨージェ・ティスニカル(Jože Tisnikar)(1928-1998 Born in Mislinje, Slovenia)という人物。

D3

← Ti, ki ostanejo, olje in tempera, platno in vezana plošča, 1971 (画像は、「tisnikarjevazbirka」より)

 今、どれほどの認知度があるものか…。
 今時、流行ったり持て囃されるような存在でないことは間違いない。

 徳田良仁著の『芸術を創造する力』に相当程度に詳しく紹介されている。
 が、本書は生憎、入手が困難になっているようだ。
 小生の拙い紹介や感想より、本書での徳田良仁氏の記述を可能な限り転記するほうが有意義だろう。

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→ Po kataklizmi I, olje in tempera, platno, napeto na vezano ploščo, 1975 (画像は、「tisnikarjevazbirka」より)

1 死の画家、ティスニカル

「仕事が終るとき、私は黒い布で死体をおおう。その時、私は立ちつくし、死んだ人がたどってきた生涯について考えをめぐらす。去年、先月、昨日、彼は何をしていたのか? 彼の最後の望みは、また最後の言葉は何だったのか? 私は、彼または彼女が、いろいろな状況にいることを想像し、これらの場面を描いたのだ」と素朴なことばで語る死の画家ヨージェ・ティスニカルとは、そもそもどのような人間であろうか。その名前すら、われわれにとっては耳新しく響く。素朴画家としての彼自身の名声はユーゴスラビアにおいてすらまだ充分ではないというのに、ここであらためてとりあげようとするには、大きな理由が二つある。
 第一の理由は、ティスニカル自身、素朴な画家が通常決して取りあげないような「死」の問題のイメージ表現に対して一貫して取り組み、そこに普遍的かつ永遠のテーマとしてわれわれにその問題を提起している。第二には、ティスニカル自身の境遇が医療従事者であることである。もちろん正規の医学教育を受けた病理解剖学者というのではない。しかし、ふとした運命的な人生の経緯を経て就職した病理解剖の助手という立場から、体験を通して得られた死に対する哲学が語られているためである。その剖検室を通過しティスニカルによって切開され、縫合され、洗滌され、そして着せ換えされた八千体もの死者たちに彼自身が語りかけ、問いかけを代弁しているうちに、「死」に対するはげしい省察、そして死の原点をみつめるなかでの死者に対する鎮魂のための祈りの作業が、われわれの胸を根底からゆりうごかすからである。

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← Črička, olje in tempera, platno, napeto na vezano ploščo, 1974 (画像は、「tisnikarjevazbirka」より)

 さて、このようなティスニカルとはそもそも一体どのような種類の人間なのだろうか? そして、彼が死者復活の世界を創造した震撼の源泉を求めて、簡単にその足跡をたどってみよう。彼はユーゴスラビアの寒村ミスリニエに、一九二八年の春まだ浅いころに産声をあげた。しかし彼の生涯の出発は幸福とはいえなかった。貧乏な家庭に九人の子供たちがひしめき、その上父親は大酒のみということで生活は破綻していった。ティスニカルは第一子として、その貧困の生活の中で母をたすけながら、学校では疎外されながらも不思議と絵を描く魂が生き生きとしていたし、感情のはけ口としても絵が彼の精神を持ちこたえさせているようにもみえた。家庭の悲惨は語りつくせるものではない。そればかりか第二次大戦の戦禍は、さらに彼らの家庭生活を破壊した。ナチスドイツに蹂躙されながらも、やがて新しい世界がひらけはじめた。製紙工場勤務から、陸軍病院での看護兵としての軍務、そして剖検室への配置、彼はこのころから次第に死への現場検証人としての運命が展開してゆく。

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