中川八郎:水墨画の伝統を水彩画に
[この「壺中水明庵(こちゅうすいめいあん)」なるブログは、「ネットで、あるいはリアルでの美と快と楽めぐりのエッセイやレポートをボチボチと」と銘打っている。今のところネットでの美めぐりの旅に終始しているが、この現状に甘んじているわけではない。
未だ雑用に追われていて、眼が関心が外へ向かない。
← 『ちくま哲学の森 6 詩と真実』(鶴見 俊輔 /安野 光雅 /森 毅/井上ひさし/池内紀 編集、筑摩書房) (画像は、「Amazon.co.jp: 通販サイト」より) もう二十年近く前、90年の初め頃に購入し読んだ本。帰郷の際、古い本は整理・処分するつもりだったが、つい懐かしくて温存。一年もしないうちに、港区の高輪から大田区の大森へ引っ越すことになると自分でも思っていなかったはず。カフカやジャコメッティらはともかく、寺田寅彦の「自画像」なる一文が秀逸!
この内向きの傾向が転居(帰郷)に伴う一時的なものなのか、それとも自分でも若干懸念しているのだが、ある意味での精神的な落ち込みの証左なのか、分からないでいる。
ただ、富山ではサンバパレードもベリーダンスショーも見る機会が極僅かなのは確か(ベリーダンスショーのライブって富山で見ることができるのか、分からない)。
いずれにしても、追々、リアルでの美と快と楽めぐりのエッセイやレポートも書きたいと切に願っている。
とは言いつつ、今日も二ヶ月前に作ったメモを提供する次第である。(アップに際し記す。08/03/29)]
辻惟雄著の『日本美術の歴史』(東京大学出版会)を読んでいたら、以下のような記述に遭遇した:
太平洋画会の画家たちは、ビゲロー→五姓田義松→浅井忠と受け継がれた水彩画法を御家芸としており、すでにアメリカで好評を博していた。なかでも吉田博の卓越した技量は、いまでもイギリスなどで高く評価されている。中川八郎の「雪林帰牧(せつりんきぼく)」(一八九七)もまた、水墨画の伝統が近代水彩画として見事な再生を遂げた例である。この系譜は石井柏亭(はくてい)(一八八二-一九五八)の水彩画に受け継がれている。
→ 中川八郎『雪林帰牧(せつりんきぼく)』(一八九七) (上掲書の写真をさらに携帯電話のカメラで撮ったもの。) 実物を見たい!
話の前段として、太平洋画会とは如何をまず説明すべきか。
同じく『日本美術の歴史』によると(黒田とは黒田清輝であり、久米とは久米桂一郎である):
黒田が美術学校の教授となった明治二九年(一八九六)、かれは久米とともに明治美術会を退き、同郷の藤島武二、和田英作や佐賀出身の岡田三郎助らと白馬会をつくる。いずれも東京美術学校の教師である。明治美術会はこれに対抗して明治三四年(一九〇一)に解散、吉田博、満谷国四郎、大下藤次郎、丸山晩霞、中川八郎に、フランスでジャン=ポール・ロランスから正統アカデミズムを学んで帰国した鹿子木孟郎(かのこぎたけしろう)、中村不折が加わって同年太平洋画会が結成された。官学系の白馬会の折衷アカデミズムに対する在野の太平洋画会の本格的アカデミズムという図式が洋画壇につくられたわけである。
← 中川 八郎『竹林』(明治12年 (1879年頃) 50.5 × 34.0 cm) (画像は、「ギャラリー壮美・パラス- 水彩画 No.26 中川 八郎 - 竹林」より)
上掲書には、中川八郎の「雪林帰牧(せつりんきぼく)」(一八九七)の写真が載っている。小生、それが気に入ってしまった。
是非とも、(本物はともかく)とりあえず、もっと大きな画像を見たい。
生憎、小生にはお目当ての画像を見つけることができず、本書の写真を携帯のカメラで撮って掲げておく。
→ 中川八郎『朱富士』 (画像は、「中川八郎 朱富士 F4 油彩」より)
小生にとっては中川八郎は初耳である。
「中川八郎 朱富士 F4 油彩」(ホームページ:「ギャラリーエコール」)によると:
明治10年愛媛県生まれ
19年大阪で、松原三五郎に師事
29年不同舎に学ぶ
32年吉田博と渡米
34年帰国
太平洋画会を創立
35年~39年渡米欧
40年文展で三等賞
大正11年神戸で歿 享年44歳
← 中川八郎『杏花の村』(1914) (画像は、「独立行政法人国立美術館・所蔵作品検索」より)
「独立行政法人国立美術館・所蔵作品検索 中川八郎」(ホームページ:「独立行政法人国立美術館」)によると:
愛媛県の生まれ。1886年大阪に出て松原三五郎に師事、96年上京して小山正太郎の不同舎に入門した。99年吉田博とともに渡米、後にヨーロッパを巡遊し、1901年帰国。同年太平洋画会結成に参加。02年欧米を再訪、06年帰国した。翌年東京勧業博覧会に《とりいれ》を出品、二等賞受賞。文展には、1回展で《夏の光》が三等賞となり、つづいて2回展に《北国の冬》(三等賞)、4回展に《巌壁》(二等賞)がそれぞれ受賞し、5回展では審査委員をつとめた。堅実な写実と素直な自然観照による一連の出品作は、三宅克己(水彩)、山本森之助、大下藤次郎(水彩)らの出品作とともに文展における風景画の特色をつくった。22年3度目の渡欧の際発病し、帰国後間もなく神戸に没した。
出典: 近代洋画の名作 : 東京国立近代美術館所蔵
→ 中川八郎『北国の冬』 (1908) (画像は、「独立行政法人国立美術館・所蔵作品検索」より)
小生など、「太平洋画界」についても知らないことばかり。
既に冒頭で若干の情報を示しているが、3年ほど前に、「もうひとつの明治美術 明治美術会から太平洋画会へ」という展覧会が催されていたことが分かった。
この展覧会の案内で、太平洋画会の前身の明治美術会のことも含め説明されていて、貴重な記述である:
← 中川八郎『九月末』 (1910) (画像は、「独立行政法人国立美術館・所蔵作品検索」より)
文明開化と富国強兵への道を歩んだ明治時代、西洋美術の技法に対する関心はこれまでになく高まり、多くの洋画家や彫刻家を生み出しました。彼らは一時期、西洋文化を排撃する国粋主義の風潮のなかで、作品の発表の機会を奪われるなど、困難な時期を過ごしましたが、これに対抗して洋画家たちが大同団結したのが、小山正太郎・浅井忠・松岡寿らによって明治22年に結成された「明治美術会」でした。彼らは、重厚な色彩を用いた堅実な作風によって、日本の神話や歴史、あるいは同時代の風俗や風景といった主題に、意欲的に挑戦しました。
→ 中川八郎『海辺の風景』(鉛筆, 淡彩・紙 15.1×20.0cm) (画像は、「Collection of the Mie Prefectural Art Museum」より) 「三重県立美術館」の「Collection of the Mie Prefectural Art Museum」なる頁では、同館が所蔵する著作権保護期間の過ぎた)作品画像が多数載っていて、そのほとんどを見ることができる。
「鴨川市太海のお話」(ホームページ:??)なる頁に太平洋画会に影響のあった浅井忠や浅井と中川八郎との関係などについて興味深い話が載っている。
「浅井の五十一年の生涯の特徴の一つに、毎年出かけた三十回ほどの写生旅行があった。この初期の明治十九年十二月に三十歳の浅井は、最初の房州写生旅行(鴨川市太海)をし、結局三年間いつも冬の季節に繰り返した」として:
(前略)大正二年浅井人脈につらなる太平洋画会の、石川寅治と中川八郎の二人が波太(太海)海岸で写生したことが発端になった。具体的には石川が波太海岸の「港の午後」という油彩の作品を、第七回文展に出品し二等賞を得て、一躍波太海岸が洋画家の注目を集めたという。当時の波太海岸にはまだ旅館がなかったので、石川・中川の二人は造船所を経営していた江澤家を拠点にした。民宿的な滞在で写生を続けたわけであるが、「港の午後」からは洋画家の来訪が次第に多くなった。造船所はこうして旅館業に転ずることになり、現在の海上ホテル江澤館へと続き画家の宿と呼ばれてきた。(後略)
(08/01/29作)
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コメント
「もう一つの明治美術」は確か府中市美術館ですね。
ここは意欲的で今開催中の「南蛮の夢、紅毛のまぼろし」などここの単独開催とは思えないほど充実しています。
コレクションとしては浅井忠とか、鹿子木武郎←漢字これでよかったっけ、とかが充実していますね。
投稿: oki | 2008/03/29 23:39
okiさん
府中市美術館に限らず、東京には企画やコレクションの充実した美術館が多いですね。
今更ながらに痛感してます。
無論、どの美術館や博物館も頑張ってるし、来館者を増やそうと工夫している。
実際には訪ねられる機会は限られているのだから、個々の施設の充実度よりも、選択肢が限られていることに飢餓感というか物足りなさを覚えてしまうのかな。
それに富山(地方)はまさに車社会。ローカル線やバス路線が乏しくなり、車がないと身動き自体、侭ならない。
自転車じゃ、行動の範囲も知れたものだし。
富山の展覧会・企画情報を見ていて、そっか、小生は<足>がないことに愕然としているんだと気付かされました。
追々、対策を考えていくつもりです。
投稿: やいっち | 2008/03/30 11:08
勉強になりました^^
投稿: 大阪 ベリーダンス | 2008/04/02 20:33
勉強になりました^^
投稿: 大阪 ベリーダンス | 2008/04/02 20:35
中川八郎はやはり雪林帰牧が抜群によい
明治期に日本的感性と欧米に接し学んだ、異文化の融合が、徐々にではなく彼の中で突然に混ざり合って生まれた独特の画風が、その時代でなければありえなかったかたちの創造が彼の中で開花したと言えるだろうか
投稿: 外岡 豊 | 2011/11/13 14:49
外岡 豊さん
コメント、ありがとうございます。
中川八郎の「雪林帰牧」、小さな画像でしか見ていないのですが、いいですね。
実物を見たいものです。
いや、ホント、改めてこうして中川八郎の作品の数々を見て、彼の絵の見事さを再認識させられました。
彼の画業は、今日、どのような評価がされているのでしょう。
気になります。
まあ、どんな評価であれ、彼の絵の魅力に変わりはないですが。
投稿: やいっち | 2011/11/14 03:35