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2008/03/02

池大雅と富山

 18世紀というのは、ヨーロッパにおいて様々な人々が国境を越えて旅して回った時代だった。
 もっと言うと、そうした動きが活発になった世紀だったというべきか。

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→ 池大雅「白雲紅樹」 「昭和14年5月、国宝に指定」(画像・情報は共に、「【楽天市場】池大雅「白雲紅樹」:R-Garden」より)

 宗教改革、その後の反宗教改革の運動もあったが、次第に宗教的権威が失墜とまでは言わないまでも宗教的縛りの緩みが表面化したというべきか。

 宇宙観の変化。近代的科学の誕生とその普及。解剖学などの医学の発達。顕微鏡と天体望遠鏡の発明と普及。世界の意味は宗教的権威が、権力者のみが示しえるものだったのが、誰もが自然を自らの目で見るような時代に一気になっていった。

 宇宙も海も(大航海時代)山も(山登りが盛んになったのも17世紀)動植物の探求も、人間の手と目と足が世界を駆け巡るようになった。
 その影響から日本のみが自由だったわけではない。
 また、無関心でありえたわけもない。

 少なくともオランダ人によって<啓蒙>されていたし、少なからぬ先覚者が自ら学びに行ったし、オランダの本を医学(解剖学)に限らずドンドン入手していった。
 人の流れは無論、古今を問わずあったが、戦争が江戸時代なかったこと、武士階級においてさえ武から文へシフトされていった。
 刀は武士の魂なのは相変わらずだが、抜かないのが当然であって、脇に差してあればそれで十分なのである。
(この辺りのことは、T・スクリーチ 著『江戸の身体を開く』(高山 宏訳 作品社)がいい。オランダ人の啓蒙で、身体のみならず世界を解剖するという発想を多くの先覚者が学んだ。その風潮は日本中に広まったというのだ。実に面白い本だった )
 
 ヨーロッパにおいても特に高い山は霊峰であり宗教的意味合いが濃厚だった。登山にトライするものはあったかもしれないが、17世紀の特に後半において宗教的意味合いとは関係なく上ること征服することに意義を見出していった。
 同じように(なのかどうか、断定は避けるが、少なくとも同じような傾向として)日本においても、宗教者・信者だけが登るあるいは信心する対象ではなく、文人らも登ることが珍しくなくなった。

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← 池大雅筆『楼閣山水図屏風』(東京国立博物館) (画像は、「文化遺産オンライン」より)

 この辺りのこと(但し、日本の登山とオランダなどの啓蒙との関係は除く)は、下記を参照のこと:
登山 - Wikipedia」:

文化・文政期(1804年~1829年)、1819年の明覚法師と永昌行者による乗鞍岳、1828年の播隆上人による槍ヶ岳など、開山が相次ぐ。また、立山講や御岳講などの講中登山がさかんになる。寛政期(1789年~1800年)に寺社詣でが解禁され、東海道中膝栗毛(1802年~1822年)が人気を博すなど、民衆の間に旅行人気が広まったことが背景として考えられ、参加する者の多くにとっては、宗教的な意味合いよりも、物見遊山としてのものだったと考えられる。

江戸時代、文人画家池大雅、医者川村錦城、医学者橘南谿、画家谷文晁などが、山そのものを味わうために山に登ったことが知られている。


 登山の歴史や文化については今回は扱わない。
 例えば、下記のサイトが参考になる:
井桁研究室:卒業論文(2001年度) 現代都市社会における自然回帰体験の意義(2/4) 登山が我々にもたらすものとは  栃谷 佳宏」:
 おりしも宗教界ではマルティン・ルターによる宗教改革が行われ、プロテスタンティズムが勃興する。これの持つ近代的合理性により、それまで神秘化されていた山から悪魔や守護神の存在が駆逐され、山は物理的環境として初めてその姿を人々の前に現わした。(以下略)

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→ 池大雅『濺瀑山峡図(せんばくさんきょうず)』 (画像は、「中津市-デジタル美術館」より。この頁では多数の書や画を見ることができる。本ブログでは載せなかったが、大雅の飄逸な画にも注目。)

CiNii - 江戸時代の山岳紀行 三山(富士山・白山・立山)紀行を中心に(第2部) 住谷 雄幸」(抄録)によると:

わが国では、多くの名山・高山は修験者によって開山された。江戸時代に入り、講社がつくられ、信仰登山は庶民の間に広まった。宗教的な登拝だけでなく、高山に登り、その霊気にふれ、雄大な眺望を楽しむ風潮が、一部の文人・墨客の間に起ってきた。俳聖松尾芭蕉は、『奥の細道』の旅の途中で月山に登拝し、俳人大淀三千風は、富士山・白山・立山の三山を含めて多くの高山に登り、『日本行脚文集』を著した。南画の大家池大雅は三山を登り、三岳道老と号し、多くの富士の絵を描いている。山水画の巨匠谷文晃は、三山を含めて山岳名画集『日本名山圖會』を上梓し、山好きの人々に愛されてきた。また、本草学者の植村政勝は、全国の山野を跋渉して、薬草を採集し、見聞したことを『諸州採薬記抄』として書き記した。

 こんな仰々しいような話題を持ち出したのは、我が郷里・富山に関連する話題だからでもある。
 上掲の転記文に「南画の大家池大雅は三山を登り」とある。
 三山とは「富士山・白山・立山」のことだろうが、池大雅は本当に三山を登ったのだろうか。
 なんて、野暮な疑問を呈するつもりはない。
 ただ、池大雅が現地近くを旅し、山を描いたのは間違いないのである。
 冒頭、オランダ人の影響を云々したが、池大雅がそうした潮流の中にあったと断言するのは避けておく。
 そもそも池大雅は、「中国明末の文人画家の董其昌」の影響も大きいし、「元来旅が好きだったからである」のだから(「特集:九州国立博物館/The Nishinippon WEB」参照)。

 例えば、池大雅には有名な逸話がある。
池大雅 - Wikipedia」によると:

ある日京都の庵で仲間と富士山の話をしていて盛り上がり、『ならば登ろうではないか』と、いきなり旅支度を始め、富士山に行き旅巡りをして一か月以上して帰って来た。人々はこれを雅談だと讃えた、というエピソードが残っている。

 そう、池大雅が実際に登ったかどうかなど、文人の話なのだ、雅美に渡る話なのである、要はそれが雅談だということが肝要なのである。

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← 池大雅『蟠幹香雪図(ばんかんこうせつず)』 (画像は、「中津市-デジタル美術館」より)

 話の順序が違うが、ついでなので、「池大雅 - Wikipedia」から最低限のことは転記しておく:

池 大雅(いけの たいが/いけ たいが、 享保8年5月4日(1723年6月6日) - 安永5年4月13日(1776年5月30日))は、日本の江戸時代の文人画家。
(中略)
享保8年(1723年)、京都の生まれ。柳里恭(柳沢淇園)に才能を見出され、文人画を伝えられた。与謝蕪村とともに、日本の文人画(南画)の大成者とされる。また、書家としても一流である。中国の故事や名所を題材とした大画面の屏風、日本の風景を軽妙洒脱な筆致で描いた作品など、作風は変化に富む。

 例によって「美の巨人たち」が「文人画で大切なのは、心に沸き起こる情感をその儘、筆先に伝えること。見る者を喜ばすのではなく自分が楽しみながら描く。そして何よりも重要なのは、そこにどんな遊び心が彩られているのか・・・。」などと興味深い話を提供してくれている。

 さて、池大雅と富山である。
会報「商工とやま」平成14年8・9月号  立山と富山12 池大雅の雪見橋と三山完登 立山博物館 顧問  廣瀬  誠(元県立図書館館長)」なる頁(「機関紙「商工とやま」インデックス」参照)が小生の関心事を的確に教えてくれる:

 富山城の西は神通川、東はいたち川で守られていた。神通川には橋がなかったから、いたち川の大橋が城下町最大の橋で、しかも北陸道の交通上重要な橋で「表の橋」とも呼ばれ、橋詰には橋番所が設置されていた。(中略)
 江戸時代の中期、このいたち川大橋に毎日足を運んでくる人があった。日本一の南画の大家・池大雅その人であった。大雅は藩医・野中玄室の家に逗留していて、大橋から望む雪の立山の絶景に感動し、何度も何度も橋をたずねたのだという。
 明治25年、この大橋を改築したとき、大雅の伝説によって「雪見橋」と命名した。単なる雪ではなく「立山の雪」なのだ。(中略)
 立山の壮観に感動した大雅は寛延2年(1749)と宝暦10年(1760)の2回、実際に立山に登頂した。2回目の登山のメモ『三岳記行』が京都国立博物館に残っていて、国の重要文化財に指定されている。道中の小遣いを明細に記録し「ひものや長左衛門」方に宿泊し、宿賃240文払ったとある。多分旅籠町の宿屋であろう。
 メモのあいまに立山や称名滝のスケッチもある。立山から下山して、15文の代金を払って西瓜を食べているのも愉快だ。
 おわら節に歌われたように、富士・白山・立山を日本三霊山と称し、この三山に次々に登ることが江戸時代に流行した。大雅は三霊山を完登し、みずから「三岳道者」と誇らしげに名のった。(現代「日本百名山」完登を志す人があるのと同じ心情だ)。
(後略)

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→ 池大雅『猿狙把月図(えんそはづきず)』 (画像は、「中津市-デジタル美術館」より)

 転記文中、「いたち川」「大橋」などの名称が出てくる。参照させてもらった「立山と富山12 池大雅の雪見橋と三山完登」や、さらに「いたち川」全般の観光案内ということで、下記がいい:
とやまウオーキングガイド 桜並木と名物橋を愛でながら、松川・いたち川沿いを歩く」(ホームページ:「とやまウオーキングガイド」)
読売新聞北陸発「北陸の造景」」(ホームページ:「YOMIURI ONLINE(読売新聞)」)
富山市観光ガイド-川に囲まれた町-富山

                        (08/01/18作)

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