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2008/03/07

モンドリアン(追記1:世界を干拓する描写)

ピエト・モンドリアン(後篇:抽象性に宇宙を見る)」において、小生はややモノローグ風に以下のようなことを書いている:

 オランダ生れのモンドリアンがパリへ出たのは案外と遅い。39歳前後。チーズ、チューリップ、風車で有名なオランダだが、同時に、リベラルな気風や風土、そして「堤防により囲まれた低地」という土地柄もモンドリアンの画風の基本にあるような気がする。

Floris_claesz

→ Floris Claesz van Dijck(1575-1651) 『チーズとバターと果物のある静物画』(部分図 1613) (画像は、「Floris Claesz van Dijck - Wikipedia」より) 「食物を口にし消化することが象徴する消費一般をいおうとしている。もっともこれはどちらかといえば貧しい人間のテーブル風景である。切られていない果実ですら、茎からちぎられてできるくぼみがこちら向きになるように置かれていて、中をのぞける感じを与える。ガラス器も中が透けて見える」(タイモン・スクリーチ著『江戸の身体を開く』より)

 大方の(?)日本人が抱いている…大地という感覚はオランダ人にはあるのだろうか。

 アメリカや中国、ロシアなどの大陸、それこそ火山と地震の国である日本でさえ、大地の感覚はそれぞれ異なるのだろうし、改めて説明を求められても困るものだとしても、多少なりとも持っている(人が多いだろう)。
 海より低い土地! 堤防に囲まれた干拓地。オランダ語のネーデルラント自体、「低地の国」「低地地方」を意味する普通名詞に由来する(オランダが低地という話については既に触れた)。

 地に根差しているという感覚より、もっと違う感覚がモンドリアンなど一部のオランダ人にはあったのでは。
 風景というのは天然自然にそこにあるのではなく、人の手が加わって、時に如何様にでも変貌しえるという人工的な土地に生まれ育ったものでないと分からない感覚。

 小生は、湾岸地域にある会社で13年、勤めた経験がある。当然、埋立地である。会社の目の前に首都高速、会社と湾岸道などを挟むように運河が走っている。近くにはモノレール。
 ちょっと歩けば地下鉄が走り、小生が働いていたビルの屋上にはヘリポート。轟音が鳴り響くかと思ったら、羽田空港に離着陸する飛行機の音。

 通勤時、運河に架かる橋から運河を、あるいは岸壁を眺めたりすると、別に足元が揺らいでいるわけでもないのに、浮遊感のような心もとない感覚に見舞われるような気がした。
 ちょっとした地震があったら、ズブズブと足が沈み込んでいく…。
 下で掲げるモンドリアンの抽象画の幾つかは、何気なく見ると時折、大地の罅割れに思えたりする…。
(小生が働いていた当時の風景とは様変わりしているが、今の芝浦の様子ということで、「写真倉庫の奥 #384 写真「2008年 初撮り」」など覗いてみる?)

Heem0311

← ヤン・ダヴィス・デ・ヘーム(以下の転記文では「ヤン・ダーヴィッツ・デ・ヘーム」) Jan Davidsz de Heem (1606-1683/84) 『Still-life』 (画像は、「アート at ドリアン ヤン・ダヴィス・デ・ヘーム (バロック)」より) 「世界中から豊かで贅沢なものが富裕なネーデルランド商人の家の卓上に集まる。あらゆる土地の産物が切られ、剥がれ、つまり彼の(そして見ているわれわれの)視線に向けて開かれる」(タイモン・スクリーチ著の『江戸の身体を開く』より)

 実際にはそんなはずはない、はずである。
 ちゃんと埋め立てしてあるのだ(多分)!

 埋立地、運河、高架となっている首都高、そして空中をレールにぶら下って走るモノレール、ニョキニョキと高層ビルが建ち並び、やがてはレインボーブリッジが運河を越えて渡されているのを見ると、全てが虚構とまでは言わないとしても、何事も厳然としてそこにあるのではなく、人の手によって大概の時空間は現出しえる、演出される、造成される、CGより遥かにリアルな時空間が創出されつつあることを感じさせられる。

 何処かの設計者が構想した(通りにはいかないとしても)机上の(空)論が、メビウスの輪のように、空のはずが気がついたら実の空間になって、そこに日常が生れる…。
 しかも、そうして創出された時空間という4次元世界に人が車が自転車が乳母車が行き来する。夢ではなく、現実がそこにある!

モンドリアンは宇宙の調和を表現するためには完全に抽象的な芸術が必要であると主張し、水平・垂直の直線と三原色から成る絵画を制作した」というが、抽象性は決して冷たい仮構の時空を意味するのではなく、人間味を内に含みえるものであるのだ。
 数式と記号と法則と規則と法規と習慣と惰性とが相俟って、つまり人間の目が手が加わることで手垢が付いて、気がついたら温みのある、退屈にも覚えることもある、そんな馴染みの時空へは抽象性はひとっ飛びであり、湾岸地区だって人が実際にそこで働き暮らせば、従前の古臭く汗臭い人間的次元からはそんなに遠くはないことを思い知らされる。
 この海岸地区での小生の不思議な感覚とオランダという国土の大きな割合を干拓地が占めている国に生まれ暮らしての感覚と同じ地平で考えるのは無理があるのは言うまでもないのだが。

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→ ヤン・ダーフィッツ・デ・ヘーム (1606-1683) 『?』 (画像は、「オランダ・ベルギー蝶のいる静物画」より)

 ただ、モンドリアンというと抽象的と決まり文句で言われるのだが、だったら、時空間を数学や論理学や物理学で表現するという意味での抽象化とはまるで違うことが、この言い方では説明できない。
 モンドリアンは決してトポロジー的な表現をしたわけではなかろう。
 あくまでモンドリアンの感じ思う(建物や人間、花、部屋、道路を含めた)それこそ人間的な風景の粋を抉り出そうとした、その意味での抽象化のはずなのである。

 さて、駄弁はこれまで。
 本論に入ろう。
 ピエト・モンドリアンのミニ特集も今回でひとまず終り。いよいよ地下に溜まっていたマグマのエネルギーが噴出口を見つけたとばかりにモンドリアンの抽象化の動きが表面化し加速する。

                             (追記の2へ続く)

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