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2008/03/11

モンドリアン(追記2:世界を干拓する描写)

 ここまでがある意味、導入部。能書きにもならない前書き。
 まあ、駄弁として読み流されるのがオチの一文なのだろう。

 が、タイモン・スクリーチ著の『江戸の身体を開く』(高山 宏訳 作品社)を読んでいたら、気になる記述を見つけた。
 といっても別にモンドリアンについての言及があるというわけではない。
 モンドリアンがオランダ生まれだということに留意して以下に転記する記述を読んでみると面白い。

 広くはヨーロッパの(日本に比しての)特徴と言うべきなのだろうが(斜字体部分は本書では傍点):

 1 
Cornelisdeheem

← コルネリ・デ・ヘーム (1631-1695) 『?』 (画像は、「オランダ・ベルギー蝶のいる静物画」より)

   (前略)
 蘭学の感覚では、何にもせよ理解の対象となるにはその内部を開示されなければならないのである。閉ざされたままでは何事も知の対象にはならない。蘭学のディスクール、以下、三五〇ページ以上もの紙幅にわたってわれわれが相手にするディスクールは外に対する内の優越を言い続ける。新奇な発想だったのである。
 現象の充足した外貌ではなく、その内部に目を向ける強迫観念じみた眼差しというものは日本的思考にありふれたものではなかった。そう断言して良いのではなかろうか。日本ではその逆に、あるがままの一個の総体としての事物が意味を持っていた。袋やポーチだろうが、もっと大きい物質の世界、動物、植物、鉱物の世界の事象だろうが、対象は開いてみなければ理解できないという感覚はなかった。水辺のあやめも、汀(みぎわ)の千鳥も別に切開などされる必要はない。西瓜は割られるに及ばず、蜜柑は別段皮を剥かれるに及ばない。花も鳥も切り開かれるに及ばず、茶碗はこれをひっくり返したり割ったりすればそれこそ愚の骨頂である。それらの事物はその全体性によってこそ意味を持っているのだから、その統一性を破ろうとするのは平衡破壊の愚挙である。そんなことをされれば事物は理解されるどころか、かえって誤解されてしまうだろう。なるほど理解(「分かる」こと)の意の漢字(「分」)は切開(「分ける」行為)を示す漢字と同じだが、これは中国由来の舶載の観念である。日本人そのものは対象の全体性(ホーリズム)を以て物事を考える族(うから)なのだ。

487893753x

→ タイモン・スクリーチ著『江戸の身体を開く』(高山 宏訳 作品社

 2

 こうした状況と比較してみると面白そうなのが同時代のヨーロッパ、とりわけオランダの状況である。オランダ美術の研究者たちがその静物画ジャンルにふれていつも言ってきたことだが、低地地方には「内部へ」という大きな文化的衝迫と言うべきものがあった。芸術的表象の世界では絵の中の果物はそのままで見物者の目にさらされるばかりではなく、皮を剥かれたり、刃を入れられたりして自らの内部を見せようとする。ティーカップが転がって中がのぞけ、牡蠣(かき)はからをこじ開けられている。オランダの風俗画(ジャンル・ペインティング)さえ、そういえば開いた窓、扉、戸棚のたぐいを得手とするが、絵を見る人間が中をのぞけるようにというわけだ。内へという眼差しを欠くところでは、描かれた事物は自然の一部を単に示すだけで、注意も関心もほとんど惹くことがない。しかるにいったんその内部を此方にさらす(エクスポーズする)や、人間精神のまともな熱中の対象になり、人間の注意を惹くに値するものと化す。要するに、「知る」に値する対象になるのである。オランダ美術のこの衝迫は「描写の芸術」と呼ばれて、美術史家スヴェトラーナ・アルパースが見事に解析するところとなっている。アルパース女史はそれをオランダに固有の現象と見ている。そして、そういうオランダこそが日本と直接の交渉を持っていた唯一の西欧の国であった点が面白いのである。ヤン・ダーヴィッツ・デ・ヘームの静物画もピーテル・デ・ホーホの風俗画も低地地方美術にあふれた同類の絵の一例にすぎない。画廊でだろうと画集でだろうと、偶然の結果か作為の所産かを問わず、われわれは実に無数の内部(インテリア)表象を見る。アルパースの評言を竿頭一歩進め、「静物画(ナチュール・モルト)」として知られている絵画ジャンルをいっそ「接近の図像」と呼びたいとさえ思う。このようにしてむきだし(エクスポーズ)にされないですむものは、十八世紀オランダ人にとっては何もなかったのである。


9784756693303

← スヴェトラーナ・アルパース著『描写の芸術 一七世紀のオランダ絵画 』(幸福 輝:訳 ありな書房) かなりの毀誉褒貶を呼んだ書。「アルパース講義ノート1」を参照。

 以上、転記終り。
 オランダ、特に干拓地のオランダにあっては、大地は、つまりは自然は決して磐石なものでも癒しと安らぎの場ではなく、足下は徹底してその構造を知り尽し日の本に晒し尽くさなければならないものだったのだろう。
 そうしたオランダ的描写姿勢の可能性の一つをモンドリアンは極めたということなのだろうか。

 以下、3として、「「開ける(オープニング)」現象を追ってみるのがこの本の狙いである」と続いていくのだが、本書の紹介が本稿の目的ではないので、惜しいけれど今回はこの興味深い本書(豊富な画像の数々が興味津々!)は脇に置くことにする。

 たとえば、拙稿「ロラン・バルト著『表徴の帝国』」の中で紹介した日本人が箸を使う光景を現象学的に(?)記述し分析する卓抜した一文についても、本書の中で採り上げられていて、小生の理解に痛棒が加えられたのだった!
 内容を記す余裕はないが、一言で言えば、ロラン・バルトは、ナイフ&フォークの解剖と箸に象徴される腑分けとの違いを明晰に叙述して見せているということになろうか。

                           (08/01/22作)

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