ジャン=レオン・ジェローム (1:ヌードを描くアトリエを嫉視する?)
絵に魅入ってあれこれ妄想が勝手に逞しくなっている間に記事が長くなってしまった。
二回に分けて掲載する。
← ジャン=レオン・ジェローム『Phryne before the Areopagus』(1861年) (画像は、「ジャン=レオン・ジェローム - Wikipedia」より) 「ジャン=レオン・ジェロームの『Phryné devant l'Areopage(アレオパゴス会議でのフリュネ)』も、フリュネの美貌にインスパイアされたもの」だという。でも、価値観も主体の在り処も全く転倒している…。
ピーター・ゲイ 著の『快楽戦争 ブルジョワジーの経験』(富山 太佳夫訳 青土社)読んでいたら、ジャン・レオン・ジェロームという画家の名前が出てきた。
どこかで聞いたことがある。
でも、すぐには思い出せない。
上掲の本には数知れない事項や名前が出てくるので、一々調べてられないのだが、ジャン・レオン・ジェロームは調べよ、という直感がある。
早速、「ジャン=レオン・ジェローム - Wikipedia」を覗いて、掲げてある画像を見る。
ああ、そうだ、多分、中学か高校だったか覚えていないけれど、教科書か参考書か、あるいは副読本、それとも、何かの毒本をつらつら読んでいて(挿し絵を眺めていて)、彼の描く奴隷市場の絵を見て、陶然たる思いに駆られたものだった。
奴隷制度なんてとんでもない制度がある、許せないと思いつつも(いや、正直を言うと、思わないといけないと思いつつも)、女をこういうふうに扱う世界があることに衝撃を受けたものだった。
いや、嘗てあったのであって、現代はないはずだが、しかし、胸に蟠(わだかま)る思いは、嘗てあった、遠いアラブの地にあったなんて、嘘であって、古今東西ある、嘗てあり現にあり、未来永劫、表の社会からは見えないところであることは、証明はできない(少なくとも困難だ)としても、地下の世界には厳然としてあり続けるに違いないと確信している自分を感じていた。
→ ピーター・ゲイ 著『快楽戦争 ブルジョワジーの経験』(富山 太佳夫訳 青土社) 「近代芸術誕生の瞬間。政治・社会を大胆に変革した新興ブルジョワジーの破竹の勢いは、芸術という感性の世界に逢着する。王侯・貴族とのせめぎあいのなかから、荒削りで粗野な趣味が、近代芸術へと洗練・変貌するダイナミズムを多角的・綿密に描く。P・ゲイ文化史学の到達点。」
カネは嘗ては権力者や支配者にあったものが、現代は(一部はアラブの王族などに一層加速度を増して集中しているとして)金融の潮流の成功者に集まっている。
もはや、ブルジョアという言葉は死語になっている。カネは一個の怪物のように生命を持ってしまっていて、それは未曾有の嵐、遠い昔、嵐に龍(ドラゴン)を見たように、不可視のブラックホールかホワイトホールとなって、世界を席捲している。世界を掻き回している。
その嵐の巻き起こす暴風は数知れない人々を巻き込み地上高く舞い上げ死の岩場に叩き落す。
頚木(くびき)のない、手綱の切れた金融の悪魔は過去のどんな王や祭祀者より世界を徹底して、そう、メニエル病者の意識が回転して止まないように、悪無限的に回転させ、ルーレット盤から人を秩序を弾き飛ばしてしまう。
← ジャン=レオン・ジェローム『Pollice Verso(指し降ろされた親指)』(1872 フェニックス・アート・ミュージアム蔵) (画像は、「ジャン=レオン・ジェローム - Wikipedia」より) 「巨大コロシアムに立つローマ剣闘士。彼は皇帝を見上げ決断を待つ。生死を決める皇帝の親指が指し伸ばされ、最高権力者は冷酷な表情で剣闘士に敗者を殺すよう指示している」…映画『グラディエーター』を産んだ絵としても有名。「製作総指揮のウォルター・パークスと製作のダグラス・ウィックに、この絵を見せられたスコット監督は述懐して言う。「ローマ帝国が栄光と邪悪さに包まれていた事を物語る、その絵を目にした瞬間、私はこの時代の虜になったよ」」(「『グラディエーター』の誕生」を参照)。
男も女も同じように一文のカネに齷齪する。思わず知らず金融のバースト現象に首も心も体も差し出すことを余儀なくされる。
歴史は繰り返す、但し、装いを変えて。奴隷制ではなく自由という名の先行きの展望のまるでない新たな神に苦しむ。身も心も全てを捧げても許されることはないのだろう。
現代にあっても男女を問わない、老若さえも不問の奴隷市場が実際には公然と日々24時間、開かれているのではないか。
自分は決して奴隷なんかじゃない。自由の民なのだ。ただ、不幸にして自由の道を選んだ結果、このような擬似的な奴隷状態にあるだけなのだ。
→ ジャン=レオン・ジェローム『ピュグマリオンとガラティア』 (画像は、「ジャン=レオン・ジェローム - Wikipedia」より) 絵の中の男に嫉妬しそう!
カネがなくて病院へ行けない、介護サービスもまともに受けられない、年金は役人に没収されたまま消えてしまっている、税金は道路や訳の分からないハコモノに消えていくだけ、ノルマ制という名のサービス残業にプライベートタイムが掠め取られて、カードの支払いに汲々とし、ローンの重さに呻き、それでも自由という名の幻想にしがみついて、将来の展望など全くない日々を息も絶え絶えにやり過ごす、そんな外見からしたら奴隷以外の何物なのか、区別がまるで付かない状態にある、でも、奴隷じゃない。
ただの絶望の淵への志願兵に過ぎないってことか。
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コメント
こんにちわ。
初めて書き込みします。
私は近代の日本洋画やアカデミックな絵が大好きなのですが、ジェロームやボナについては今までよく知りませんでした。山本芳翠の渡仏中の師、ジェロームを知るに至って、芳翠の素晴らしい裸婦像もそこら辺りから学んだものかなと思いました。
ブ―グローやコランも大好きで図録も幾つか持っているのですが、もっとアカデミックな絵の図録や日本近代洋画の図録を集めたいと思っています。
もしよろしければ教えて頂きたいと思い、思い切って書き込みした次第です。
近年最も感動した日本の近代洋画は目黒区立美術館で拝見した「日本近代洋画への道」の五姓田義松「人形の着物」です。五姓田一族はどうやって高度な洋画の技術に到達したのか。義松という人はフランスで日本人として初めてサロン入選したらしいのですが、「人形の着物」からはその実力が如実に感じられました。
もしよろしければ返信お願い致します。
投稿: デラモルテ | 2008/09/16 02:21
デラモルテさん
はじめまして!
「近代の日本洋画やアカデミックな絵が大好き」だとのこと。
小生はその方面(分野)についても不勉強なのですが、もう十数年ほど前に読んだ、芳賀徹著の『絵画の領分―近代日本比較文化史研究 』(朝日選書)に感銘を受けたものでした。
あれこれ調べたり読んだりはしてきていますが、人さまにお教えできるような素養はありません。
「日本近代洋画への道」で五姓田義松「人形の着物」に感動したとか。
確かに高橋由一の『鮭』や『花魁』などで西欧的迫真性は頂点に達したかなと感じます。
同時に、彼らの絵に感じるのは気迫です。あるいは西欧の技術や文化を摂取せんとする貪欲さのようなもの。
五姓田義松の「人形の着物」にも、絵としての素晴らしさと同時に気迫をまず感じてしまいます。
小生に言えるのは、絵画の分野に限らないのでしょうが、明治人の自覚の凄みが我々には想像も付かないほどだということ。
きっと、デラモルテさんも展覧会で五姓田義松の「人形の着物」などの絵を見て、そうした気迫を感じられたのではないでしょうか。
明治人の覚悟と自覚は、混乱する明治の文化の状況にあっての危機感の為せるわざではないのかと、今はそう想像するばかりです。
先の展覧会でも、そういった解説があったのではないでしょうか。
投稿: やいっち | 2008/09/16 23:39
ご返答ありがとうございます。
教えて頂いた芳賀徹という方の本は探してみます。ありがとうございます。
明治人の気迫ですか、そういう観点からは近代洋画を捉えていなかったので参考になります。
確かにあの当時の西洋文明摂取の貪欲さは凄かったのかもしれないですね。
高橋由一も岩絵の具にてんぷら油を混ぜて洋画としていたと聞いたことがありますし、山本芳翠の渡仏もかなり無茶な方法だったと聞きました。
今は様々なものに恵まれていて、もしかしたら本質的な絵画への渇望は時代を追うごとに希薄になっているのかもしれませんね。
前に銀座の彩鳳堂画廊というところで拝見した800万円の玉葱の絵を展示していた礒江毅というスペインリアリズムの方が高橋由一へのオマージュとして鮭を描いていらっしゃいましたが、それもきっと気概溢れる先代への敬意だったのかもしれません。
ありがとございます。
またいろいろ勉強させていただきたいと思います。
投稿: デラモルテ | 2008/09/18 05:45
デラモルテさん
絵画を評価するに、気迫とかの精神論(?)で以てするのは、ちょっとずるい気がしないでもないのですが、明治の洋画草創期の画家たちの辛酸ぶりは、どうしても画面から滲み出てくるようで、技術論を超えるものがあると感じてしまうのです。
絵画などの芸術に限らず、明治人の気迫は今となっては到底、太刀打ちできないものなのでしょう。
デラモルテさん、また何かご意見などありましたら、遠慮なくコメントしてくださいね。
投稿: やいっち | 2008/09/18 13:26