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2008/03/13

アントワン・ダガタ

 ひょんなことからアントワン・ダガタという写真家の存在を知った。
 1961年マルセイユに生まれたフランス人。
 読み捨てられた週刊誌の情報欄に安楽寺えみ 写真展『Snail Diary』についてのコラムがあった。評論家・飯沢耕太郎の手になるもの。
 コラムの題名は、「「只管打坐」の境地で撮る「性と生」-RAT・HOLE・GALLERYで」である。
 そこには小さな写真が一つ載せてあった。写真もだが安楽寺えみという存在がとても気になった。

Img_snail2

← 安楽寺えみ (画像は、「exhibition|RAT HOLE GALLERY」より) 

 その写真展とは、「exhibition|RAT HOLE GALLERY」(東京・青山のラットホール・ギャラリーにて開催中)
 
 一部を転記する:

安楽寺えみは武蔵野美術大学で油絵を学び、約10年間闘病生活を送った後、93年より銅版画制作を始め、98年頃より本格的に写真制作をはじめます。人間の持つ根源的な生への欲望や疑問が、様々なメタファーに置き換えられ、そこに自身の記憶、心象がいく層にも重ねられた不思議な世界を生み出す安楽寺の作品は(以下、略)

exhibition|RAT HOLE GALLERY」には安楽寺えみの「蝸牛日誌」(の一部?)が載っている:

皮膚のあちらこちらにできた水泡が破け、
ひりひりとしたむき出しの粘膜の上を無数の蝸牛たちが這いまわる。
おぞましく不快で心地よい感覚はいつまでもいつまでも続く。
ぐるぐるのめくるめく回帰できない世界。
(略)
わたしは心もとない杖が地をつく振動を頼りにぐるぐるの螺旋空間をいつまでも彷徨い続けるのだろう。

exhibition|RAT HOLE GALLERY」には、既に終わっているが、アントワン・ダガタ写真展のことも載っている。
 安楽寺えみのことも気になるのだが(「OPENERS - 安楽寺えみ 写真展『Snail Diary』対談(その1) 北村信彦」参照)、取りあえずはアントワン・ダガタのことをメモしておきたい。
 そう、安楽寺えみのことを知りたいとネットで情報を摂取しようとして、偶然、アントワン・ダガタなる人物に出会ったのである。

1

→ アントワン・ダガタ写真集・作品集『アントワン・ダガタ/シチュアシオン(SITUATIONS)』(Hysteric Glamour(ヒステリック・グラマー))

exhibition|RAT HOLE GALLERY」なる頁から抜粋する:

荒い粒子にブレた残像、そして闇の混沌とした世界が写し出されたダガタの作品は、ダガタ自身が過ごした時間が刻まれたものです。夜の街、娼婦、麻薬中毒者、顔の見分けもつかない裸体、セックスするカップルなど、モノクロームやカラーで撮影されたイメージは、刹那的ゆえに美しく、どこか退廃的な匂いを感じさせます。

 アントワン・ダガタの写真は、時に絵画ならば、さしづめフランシス・ベーコン(Francis Bacon, 1909年10月28日 - 1992年4月28日)か。それともベルメール? フォートリエ?
 おっと、そんなにあっさり決め付けるものじゃないね。
OPENERS - アントワン・ダガタ写真展『SITUATION』インタビュー(1) 北村信彦」などで肉声を聞いてからでもいい。

5

← アントワン・ダガタ写真集・作品集『アントワン・ダガタ/シチュアシオン(SITUATIONS)』(Hysteric Glamour(ヒステリック・グラマー))より

 アントワン・ダガタや 特に安楽寺えみの幾つかの作品を見ていて、同じ世界というわけでは決してないが、というよりむしろ対蹠的な位置にあるとさえ云えそうなのだが、何年か前に書いたモノローグ風な掌編を思い出した。
 観念に走りがちな頭。肉の身に食い込み蝕んでいる病という桎梏が枷となっている。常に常にどんな瞬間であっても肉体としての我、生身の存在としての自分から決して離れられない。
 アントワン・ダガタや安楽寺えみの作品を見てまともな感想なんて書けそうにないし、昔の拙稿でお茶を濁しておくしかない。
 ネットで見つかる感想では、下記が目に付いた:
ディレッタントのひとりごとイメージの飼い馴らしへの執拗な抵抗 アントワン・ダガタ展を観て

 抜粋する:

 奴は蛇の目をしていた。間違いなく、奴は爬虫類だ。冷血動物だ。いや、動物に熱い血が流れるというイメージがあるなら、興味ある対象に向かっていくのが動物というのなら、そもそも、外界に興味あるものがあるというのなら、奴は、動物ですらない。
 といって、奴が植物というわけでもない。
 奴は、大地とは何のつながりもない。根無し草ですらないのだ。
 奴の目に睨まれた連中の行く末がどうだったか、オレは知っている。みんな生気をトコトン吸い取られ、生ける屍となって、路上に転がり、目を見開いたままに息絶えていった。見てはならぬものを見てしまった、のだろうか。
 奴の目は、解剖学者の目だ。それも、医学の世界とは無縁の、忘れ去られた灰色の廃屋の一角で、人の目を盗みつつ、密やかにメスを握る人間味の欠片もない学者の目だ。心を狂わしたとしか思えない、冷酷な目。生きている相手を対象として選びながらも、対象をモノとしてしか見ることができない。モノ。しかも、メカニズムの塊としての、分析可能な玩具としてのモノ。
 が、奴には、そのモノが、ただのモノとは思えないらしかった。メカニズムの集積に過ぎないはずが、理論的には分析可能のはずなのに、いつも手の平から洩れ零れる何かの潜む、禍禍しい怪物に映るらしいのだった。
 奴の異常なまでの記憶力。奴は、一度目にした対象は、どんな微細な部分に至るまでも脳裏に焼き付けてしまう。いや、脳髄の奥の何処かに、本当に、それこそ焼き鏝でジューとされたみたいに焼印が残ってしまっているのかもしれない。
 だから、一旦、目にしたものは、瞼を閉じるだけで、見てから何日が経過していようと、完璧なまでに思い浮かべることができる。
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→ Situations / Antoine d’Agata (画像は、「Situations - Antoine d’Agata - plaisir.genxx.com」より)

 が、奴は、同じ対象を穴の開くほどに眺める。観察する。解剖台の上で微動だにしない検体を、しかも、奴に命を捧げた生きている献体を、トコトン、眺め入る。楕円し曲折し屈折し湾曲する肉体。毛穴の開き、幾つかの穴の開いた、皮膚という名のゴム膜の風船。
 それは眠れる美女だった。いや、眠ってなどいないのだ。奴を心底から愛する女が、冷たいベッドに横たわっている。寒々とした蛍光灯に体をこれ以上ないほどの裸に晒しているのだった。四方八方からの蛍光の明りが女に影を与えないのだ。
 神々しく、それとも空々しく輝いている女。人形のように、それとも、人形以上に人間の夢に忠実なる人形。それが女の役割だった。
 そう、女は完璧なる女を演じ通そうとしていたに違いないのだ。奴の冷血なる心の襞の襞にまで女として取り入ろうとする、打算と愛情の塊として女を黒い皮のベッドに横たえているのだった。
 情感が白い肉体となって柔らかな曲線を描き、奴の目の凍て切った心を愛撫していた。女は奴を理解していた。
 奴が、心をモノとして、そう、物体としてしか受け止められないでいることを知り尽くしていた。モノとは、心の変幻であり、心の集積であり、心の遺棄場であり、心の描く夢の形なのだった。
 そう、奴には心が見えないのだ。感じられないのだ。信じられないのだ。分からないのだ。そして、懇願しているのだ。
 女は、奴の冷たい目の奥に湖を見ていた。透明な湖。濁った湖。細波さえも立たない夢の中の湖。それは氷の湖、ガラスの湖なのだった。光さえもが際限もなく屈折して抜けだすことの叶わない閉じた湖だった。心が封じ込められた湖なのだった。
 奴は、肉体を信じていた。肉体にこそ、心があるのだと思っていた。肉体以外に心の在り場所、ありえないと思っていた。肉体が心なのだ。
 だからこそ、今、女を解剖しようとしている。皮を剥ぎ、神経細胞を剥き出しにして、心の伝わる経路を追おうとしていた。皮膚感覚の電気的変化の様相をグラフに写し取り、内臓の蠢きを手の平で確かめ、四肢の可動に神秘を見ていた。

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 奴の指の動きに素直に従う顔の皮膚の動きを奴は不思議な面持ちで眺めていた。
 しかし、何処にも、そう、肉体の動きのどんな部分にも心など見つかるはずもなかった。
 女の口に咥えられた肉の棒の動き。噛み切られて今にも呑み込まれそうな、断末魔の喘ぎに悶える奴の片割れ。嚥下され喉を蠢かせ、腹の奥に収まっていく不思議。五臓六腑に拡散する奴。
 奴は、女を壊れた人形だと思った。関節が外され、もがれた下肢が、血の雫のポツリポツリと垂れているコンクリートの床に落ちている。
 拾うべきか、否か。
 まっさらな骨が砕けて無慙な様を露わにしている。
 奴は、女の肉体をバラバラに引き裂き、解体して、懸命に心を探していた。
 愛情が潜んでいるはずだった。あれほどの愛情が見当たらないはずがないのだった。奴は、排泄物の山にさえ分け入って愛情を探した。泥まみれ糞まみれになって女の心を探した。脊髄を抉り出し、剥き出しの延髄に頬を当てて
みた。腸(はらわた)を抜き出し、天井に張り巡らして、滑(ぬめ)る表面の光沢に陶然となっていた。
 奴は、最後にとうとう決心した。自分も同じ格好になるべきだと思ったのだ。女と同じ姿を眩い蛍光灯の光の満ち溢れる空間に曝け出す。骨の欠片、散在する内臓の肉片。転がる眼球。血の海に漂う髪と指先。近くのテーブルの上に鋭利なメスを取り囲むように、綺麗に並べられた爪の数々。
  そう、爬虫類の目とは、怯えきった心の窓なのだ。外界の一切が恐怖の対象と映る、生まれながらに臆病者だった奴の惨めな末路なのだ。
 そんな奴だから、解剖室の中でのメスと爪との必然的なる出会いを夢見たって、不思議なことなど、何もない。
 奴は、白い部屋の中の全てを掻き集め、青いポリバケツに詰め込んだ。それを地下の巨大なダストシュートに放り込み、ついで、自分の体も飛び込ませた。その生ゴミ貯蔵庫には無数の女達の肉塊が保存されている。奴は、ついに自分の夢を叶えたのだ。
 肉の塊の腐れ行く、熱気溢れる中で窒息して果てること。思い残すことなど、何もない。
 赤い闇の海に溺れていく瞬間、奴の瞳に初めて表情が生まれ、そして消えていった。
       (「ディープスペース:ベルメール!」より)

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