ケーテ・コルヴィッツ:才能は、同時に使命である
ピエト・モンドリアンの初期の頃のある絵を見ていて、ドイツの彫刻家というか版画家と呼ぶべきか、ある表現者のことを連想した。
でも、すぐに名前が出てこない。名前もジャンルも分からないではネット検索の遣りようもない。
ドイツ、版画、彫刻、労働者の悲惨、どこかゴッホ的…。
これじゃ、検索のキーワードにもならないと思った瞬間、ケーテ・コルヴィッツという名前を思い出した。
→ 2年前に開催された「ケーテ・コルヴィッツ展」のチラシ。まさにケーテ・コルヴィッツの真骨頂を示す絵が選ばれているので、掲げさせてもらった。(画像は、「企画展 ケーテ・コルヴィッツ展」より)
ピエト・モンドリアンの初期の頃のある絵とは、「ピエト・モンドリアン(前篇)」なる拙稿の二番目(あるいは三番目)に掲げた版画である。
ピエト・モンドリアンは後期の作品ばかりがクローズアップされる。
それは仕方がないのかもしれない。若い頃は試行錯誤があったようだ。それが途中から急激に変っていく。
一方、ケーテ・コルヴィッツはその意味では一貫しているとも言える。
↑ 《踏みにじられし者たち-亡骸と柱に縛りつけられた裸婦》 1900年初め 銅版画 (画像は、「企画展 ケーテ・コルヴィッツ展」(ホームページ:「熊本県立美術館」)より)
ケーテ・コルヴィッツの存在を、画業を知ったのは、どういう経緯だったのか覚えていない。
十何年か前、何処かの展覧会へ足を運んだ際、入口付近にあったチラシによってではなかったか。図録もだが、チラシ大好きな小生、チラシに載せてある画像でおお! こんな人がいたのかと知らされた。
ケーテ・シュミット・コルヴィッツ(Käthe Schmidt Kollwitz、1867年7月8日 - 1945年4月22日)はドイツの版画家、彫刻家。周囲にいた貧しい人々の生活や労働を描いたほか、自分自身の母として・女性としての苦闘を数多くの作品に残した。ドイツ帝国、ヴァイマル共和国、ナチス・ドイツという揺れ動く時代を生きた、20世紀前半のドイツを代表する芸術家の一人である。
← コルヴィッツの『ピエタ』、ベルリンのノイエ・ヴァッヘに設置 (画像は、「ケーテ・コルヴィッツ - Wikipedia」より)
以下、結構、詳しく記述されている。日本でも結構、人気があるのか、この数年も何度となく展覧会が組まれている。
ひと目見て誰しも感じ、連想する言葉は、骨太、地に足の付いた画風、勤労(労働)、魂、大地、血と汗と涙、良心、生活の匂い、プロレタリア、反戦、愛、悲しみ…。
文学で言えばゴーリキー。いや、「労働階級の境遇を分かち合おうと工場や農場で働」き、やがて政治活動に身を投じたシモーヌ・ヴェイユか。
でもコルヴィッツは夭逝していない。長く生きた分だけ悲しみも骨身に沁みている。
コルヴィッツの世界って、鬱陶しく思えて、辟易する人も案外と多いのでは?
今風に言えば、ウザイ ? !
ゴーリキーつながりというわけではないが、作家の宮本百合子に「ケーテ・コルヴィッツの画業」(ホームページ:「青空文庫 Aozora Bunko」)という一文がある。
ある意味、いかにも同氏が共感しそうな画風であり、美や透明感、洗練、細密とは違う世界がある。
手で形を成し、手で彫り、手で、そう生活実感で描いたということをこれでもかと思い知らさせる。
宮本百合子の「ケーテ・コルヴィッツの画業」は、一読するのに数分も要しない。
天才と呼ばれた同氏。さすがと思わせる一文でもある。
→ 清 真人・高坂 純子【著】『ケーテ・コルヴィッツ―死・愛・共苦』(御茶の水書房)
是非、リンク先の頁を読んでもらいたい。ここでは(決してハイライト部分ではないのだが)一部だけ転記させてもらう:
「医者のもとで」という題のこのスケッチには不思議に心に迫る力がこもっている。名もない、一人の貧しい、身重の女が全身から滲み出しているものは、生活に苦しんでいる人間の無限の訴えと、その苦悩の偽りなさと、そのような苦しみは軽蔑することが不可能であるという強い感銘とである。そしてさらに感じることは、ケーテ・コルヴィッツはここにたった一人の、医者のドアをノックする女を描きだしているだけではないということである。ケーテはモデルへつきない同感を、リアリスティックなつよい線と明暗とで、確(しっか)り感傷なく描き出して、忘れ難い人生の場面は到るところに在るということを示しているのである。
(中略)
貧困、失業、働く妻、母子などの生活のさまざまな瞬間をとらえて描いているケーテの作品を一枚一枚と見てゆくと、この婦人画家がどんなに自分を偽ることができない心をもっていたかを痛感する。何か感動させる光景に出会った時、または心をとらえる人の表情に目がとまった時、ケーテはヨーロッパの婦人にありがちな仰々しい感歎の声ひとつ発せず、自分のすべての感覚を開放し、そこに在る人間の情緒の奔流と、その流れを物語っている肉体の強い表情とを感じとり受け入れたにちがいない。さもなくて、どうして「音楽に聴き入る囚人たち」のこのような内心のむき出されている恍惚の顔つき肩つき、「歎願者」の老婆の、あの哀訴にみちた瞳の光りが描けたろう。
ケーテ・コルヴィッツのような、ある意味、不器用なまでの真摯な存在は、決して持て囃されることはないだろう。
が、決して忘れ去られることもありえない。
← 『ケーテ・コルヴィッツの肖像』(志真斗美恵著・績文堂) (画像は、「『ケーテ・コルヴィッツの肖像』まえがき」より)
ケーテ・コルヴィッツの生きた時代とは随分と遠ざかったはずだが、現代の日本において、改めて彼女の画業を生活実感を以て見入ってしまうのはどうしたことだろう。
嘗ての日本にもこうした生活があったなとか、そういう回顧の、追懐の念ではないのは確かだ。
日々のニュース(三面記事)を読むと老々介護で共倒れとか、そんな暗い事件が想像以上に多いことを思い知らされる。
ケーテ・コルヴィッツの作品を見ていると、描かれている人物が異国の人、時代が違うというだけで、今の日本の日の当らない生活がそのままに描かれているのではと錯覚しそうになる。
それとも、錯覚などではないのか。
無骨に不器用に実直に誠実に生活を描く。世の美術界の流れなど一切頓着せず、ひたすら等身大の生活を見る。
技法の探求、テーマの探求など、洗練の極を行く現代美術にあって、最後まで一貫して自分の画業を貫く。
→ ケーテ・コルヴィッツ/[著]『ケーテ・コルヴィッツの日記 種子を粉にひくな』(鈴木東民/訳 アートダイジェスト)
最後に、本稿の途中でも参照させてもらったが、「『ケーテ・コルヴィッツの肖像』まえがき 志真斗美恵著」から一部、転記させてもらう:
ケーテ・コルヴィッツが没して六〇年。いまなお世界各地で戦禍は絶えない。 戦争による死者はなくならない。飢えもなくならない。世界六〇億の人びとの うち、八億人以上の人びとが飢餓状態にある。彼女が版画や彫刻で描いた現実 は変わっていない。イラクで戦死したアメリカ兵の母親の悲しみは、九十数年 前のケーテのそれと同じである。戦場でわが子をさがす母親も、戦争のために 寡婦となった妊婦も数知れない。「平和主義」――それは彼女が死を前にした ときの言葉である。ケーテ・コルヴィッツの作品は、いまも平和を考えるため の手がかりになるとわたしは確信している。
(08/01/09作)
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コメント
コルヴィッツの展覧会は町田の版画美術館で観ました。
母親として子供を守るということに全生命をかけた人という気持ちがします。
確か初期はロダンの影響もあったのですよね。
それがバルラッハと出会ってー。
シモーヌ・ヴェイユと重ね合わせるところは弥一さんらしいな。
投稿: oki | 2008/02/10 12:51
okiさん
町田の版画美術館はいい企画展示をする好きな美術館です。
ここで初めてヴォルスの素描を見たっけ。
コルヴィッツの作品は未だ現物を見たことがないのです。
コルヴィッツを採り上げたら、エルンスト・バルラッハも採り上げておかないと片手落ちですね(片手落ちって禁止用語かな?)。
いつかまた機会を設けてバルラッハの特集してみたいです。
バルラッハについては、もう二十年以上以前、友人宅の書棚で偶然、彼に付いての本を見つけ、気に入り、本を借りていったものでした(返却するのに半年以上の時間を経過)。
いい意味での無骨さと素朴さ、力強さを感じます。
シモーヌ・ヴェイユの名はたまたま浮んできたもの。ボーヴァワールでもないし、誰かこんな思想家がいなかったかなと。
投稿: やいっち | 2008/02/10 18:25
7月1日に私はケルンのケーテ・コールヴィッツ美術館を訪れ、その素晴らしい版画や彫刻を堪能し、感動しました。そして宮本百合子さんのやはり素晴らしい文章に接しこれまた圧倒されました。ドイツにもし行かれることがあれば、ケルンのケーテの美術館、そしてハンブルグのバルラッハハウスに是非一度お出かけ下さい。
投稿: せいちゃん | 2012/07/04 11:29