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2008/01/05

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(前篇)

 ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーという画家の絵は、結構、好き嫌いがハッキリしているようだ。
 小生は二十年ほど前、展覧会で実物を観る機会に恵まれ、迫力に圧倒され、いい悪いは分からず、ただ魅入られてしまった。

Seamonsters

← Turner, Joseph Mallord William 『Sunrise with Sea Monsters』 (c. 1845; Oil on canvas, 91.5 x 122 cm; Tate Gallery, London) (画像は、「WebMuseum Turner, Joseph Mallord William」より) 是非、クリックして拡大して観るべし。凄みを感じないだろうか。「波の力強さ、風のエネルギー、大気中の光のゆらめきといった写実では表現しきれない自然美を表現しようと、写実性を離れて事物の輪郭をあいまいにし、印象派に通じる画風を追求した画家」とよく言われたりするが、印象派さえもとっくに凌駕しているように思える。ある種の象徴主義? それとも抽象表現主義? きっともっと突き抜けている。これがターナー!

 ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William Turner, 1775年4月23日 - 1851年12月19日)は、「ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー - Wikipedia」によると、「18世紀末~19世紀のイギリスのロマン主義の画家。イギリスを代表する国民的画家であるとともに、西洋絵画史における最初の本格的な風景画家の一人である」という。

 これまで若干なりとも西洋絵画における風景画を見てきた小生には、「西洋絵画史における最初の本格的な風景画家の一人である」という文言には幾分の留保か注釈が必要に思える。

 ただ、イギリスにおける風景画の最高峰に立つ画家なのは間違いないだろう。ロマン主義なのかどうかは分からない。
 1840年代の作品を観ると、ロマンが引き千切れてしまっているようにも感じる。
 ある意味、コンスタブルより、現実の社会の自分のロマンなどあっさり置き去りにしてしまう趨勢に敏感だったのではと思えるのだが。

 それはそれとして、今日は、下記のサイトを参照して、年代を追う形でウィリアム・ターナーの世界を作品を通じて見ていきたい:

ウィリアム・ターナーの経歴と作品
1775 ロンドン、コヴェント・ガーデンの理髪業の家庭に生まれる。クロード・ロランの模倣などを行う。ロイヤル・アカデミー付属学校に入学

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→ J.M.W. Turner 『Fishermen at Sea.』 (1796. Oil on canvas. Tate Gallery, London, UK) (画像は、「William Turner - Olga's Gallery」より。ホームページ:「Olga's Gallery - Online Art Museum」) 「母親は精神疾患をもち、息子の世話を十分にすることができなかった。ターナーは学校教育もほとんど受けず、特異な環境で少年時代を過ごしたようである」という。

1793 風景素描が王立芸術協会の「グレート・シルヴァー・パレット賞」を受賞

1794 ウェールズ北部、イングランド中部の旅行。旅行中に描いた水彩画が最初の版画として「銅版画マガジン」に掲載される

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← J.M.W. Turner 『Warkworth Castle, Northumberland - Thunder Storm Approaching at Sun-Set』 (1799. Watercolour on paper. Victoria and Albert Museum, London, UK.) (画像は、「William Turner - Olga's Gallery」より) 「13歳の時、風景画家トーマス・マートンに弟子入りし、絵画の基礎を学んだ。当時の「風景画家」の仕事は、特定の場所の風景を念入りに再現した「名所絵」のような作品を制作することであった。マートンの元で1年ほど修業したターナーはロイヤル・アカデミー附属美術学校に入学。1797年にはロイヤル・アカデミーに油彩画を初出品し、1799年には24歳の若さでロイヤル・アカデミー準会員となり、1802年、27歳の時には同・正会員となっている」。

1795 銅版画が著名となり、ソールズベリーを主題にした一連の水彩注文を受ける。この後、注文制作のため、国内各地を旅行し、制作。

1802 ロイヤル・アカデミーの会員に選ばれる。当時流行の大陸旅行者の一人としてフランスとスイスに旅行。アルプスなど山岳風景のスケッチを数多く行う

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→ 『カルタゴを建設するディド Dido building Carthage; or the Rise of the Carthaginian Empire』 (1815 Oil on canvas 132.5 x 203 cm National Gallery, London) (画像は、「ターナー (ロマン主義) アート at ドリアン」より) 写実的な描写。伝統に則った題材。

1803 フランスとイギリス間での戦争。翌年、スペインがイギリスに宣戦布告。この時代、ターナーは歴史的風景画を制作し、その地位を確立する。

1806 自分自身の作品の銅版画集「研鑚の書」を思いつき制作

1807 ロイヤル・アカデミーの遠近法教授に選出

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← J.M.W. Turner 『Snow Storm: Hannibal and His Army Crossing the Alps(吹雪-アルプスを越えるハンニバルとその軍隊)』 ( 1812. Oil on canvas. Tate Gallery, London, UK.) (画像は、「William Turner - Olga's Gallery」より。ホームページ:「Olga's Gallery - Online Art Museum」) 「歴史的風景画のターナーのひとつの到達点に」というし、「カデミー準会員となって以降、約20年間は有力なパトロンに恵まれ、批評家のラスキンからも好意的に評価されるなど、画家として順調な歩みを続けた」というが、前景の写実的な描写と裏腹に、背景は既に将来のターナーを予見させるに十分な描写になっている。

1812 「吹雪-アルプスを越えるハンニバルとその軍隊」歴史的風景画のターナーのひとつの到達点に。

1819 最初のイタリア旅行に。相当数のスケッチと若干の水彩画を制作。帰国翌年、ローマを集約した「ヴァチカンからのローマの眺望-ラ・フォルナリーナを連れて回廊の装飾を準備するラファエロ」を描き、ロイヤル・アカデミーに出品

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→ J.M.W. Turner 『Rome, from the Vatican, Raffaelle, Accompanied by La Fornarina, Preparing His Pictures for the Decoration of the Loggia(ヴァチカンからのローマの眺望-ラ・フォルナリーナを連れて回廊の装飾を準備するラファエロ)』 (1820. Oil on canvas. Tate Gallery, London, UK.) (画像は、「William Turner - Olga's Gallery」より)

その後1835年までを中心として、「リッチモンドシャーの歴史」の挿絵、「イタリアのピクチャレスクな旅行」のために描かれていた絵を水彩での描き直し、「イングランドとウェールズのピクチャレスクな景観」のための水彩、「イングランドの港」のメゾチント、ロジャースの長編詩「イタリア」のための挿絵、ターナーの年次旅行シリーズなどの油彩以外の活動も続ける。

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←  J.M.W. Turner 『Cowes, Isle of Wight』. (c.1827. Watercolour on paper. Private collection, UK.) (画像は、「William Turner - Olga's Gallery」より) こういう絵を描き続ければアカデミー受けも大衆受けもしていたのだろうか。

 本稿の続篇では、いよいよターナーがターナーとなっていく。本領を発揮する。が、それは悲劇でもあるようだ。

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