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2008/01/02

宮沢賢治から昇亭北寿へ飛びます!

宮沢賢治の童話と詩 森羅情報サービス」をベースに配信している「宮沢賢治 「Kenji Review」」というメールマガジンを愛読している。
(メルマガ配信と同時に(相前後して)、ホームページにもメルマガと同じ文面が載るようだ。)
 このメルマガ(記事)の内容は、今回は特に小生にはタイムリーだった。好きな宮沢賢治の話題であり、且つ我がブログでも時折採り上げている、これまた小生の好きな(浮世絵)版画と賢治との関わりを話題の俎上に乗せてくれているのである。

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→ 昇亭北寿『江之嶋七里ヶ濱』(1818~29) (画像は、「江の島の浮世絵 昇亭 北寿」より。HP:「江の島(江ノ島)マニアック」) 以下に続くどの作品(一枚は除く)についても言えることだろうと思うのだが、現代の刷師らの手で改めて刷り直してもらったなら、さぞかし見栄えがまるで違うことだろうにと思う。画像で目にするものとは、多分、江戸の世に刷って売りに出された色合いとは随分、違うのではなかろうか。

2007.12.22 第461号(「松の針」) 」では、まず同人誌仲間である保阪嘉内宛ての手紙が紹介されている。
 この手紙の文面がまた興味深いが、ここでは勿体無いが素通りする。

宮沢賢治 - Wikipedia」にも載っているが、下記のようなある意味、童話が宮沢賢治を証する一つの仕事であるとしたら、童話が作られ始めた重要な時期を証左する手紙なのである:

大正7年(1918年)、3月、得業論文『腐植質中ノ無機成分ノ植物ニ対スル価値』を提出し卒業。4月、研究生となる。徴兵検査の結果、第ニ乙種で兵役免除となる。この間、『アザリア』同人の保阪嘉内が同誌に掲載した文章が原因で退学となり、以後数年間に渡って保阪との親交を深める。家族の証言等からこの年から童話の創作が始まったと推定される。

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← 昇亭北寿『江之嶋七里ヶ濱』(1818~29) (画像は、「江の島の浮世絵 昇亭 北寿」より。HP:「江の島(江ノ島)マニアック」) 82年に東京でのライダー生活を始めた。当初は、房総半島、伊豆半島を駆け巡ったが、やはり近場の三浦半島周辺へのツーリングが多かった。雨だろうと、日曜日になるとオートバイを駆って、海へ!

 1919年というのは、兵役免除となり(屈辱だったろう)、退学となったり、「妹トシが病気となり母とともに東京で看病」したりと、そんなことのあった18年の翌年。メルマガにもあるように、賢治には暗い年であったのか。
 その数年に重なるようにして童話が生まれつつあった…。童話はどのようにして生れるのか、何か沈思に誘われるような気がする。

 さてそんな時期、「賢治が熱中していたことに、浮世絵の蒐集があ」るという。小生、初耳。
 メルマガには、「「便利瓦」というものを東京で見つけて仕入れ、店で売っていました。『年譜』によると、防水布で、瓦の下に敷くものだそうです」とある。
「便利瓦」のことも含め、この辺りのことはメルマガの文章を読んでもらいたい。

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→ 昇亭北寿『新版浮絵 江之嶌正面の図』(1818~29) (画像は、「江の島の浮世絵 昇亭 北寿」より。HP:「江の島(江ノ島)マニアック」) 三浦半島というと、江ノ島や観音崎辺りがツーリング時の休憩場所となる。雨に合羽もびしょ濡れで、空腹なのに、店に入れず、店の庇で雨宿りしつつ、自動販売機で買った缶コーヒーなどで誤魔化していた。

「便利瓦」を売った「儲けは自由に使ってよいということになってい」た、何故なら、「実家にいて食べるのには困」らないから。
 なので儲けは、「全部賢治の小遣いになり、浮世絵に化け」ということのようだ(但し、本物の版画を買ったわけではなさそうだ)。
「凝り性の賢治のことですから、浮世絵についての知識もなかなか素人離れし」ていて、賢治には「浮世絵版画の話」という作品が残されてい」るという:
浮世絵版画の話

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← 昇亭北寿『武州千住大橋之景』(1818~30) (画像は、「神奈川県立歴史博物館」より。画像の存在は、「雲を描いた浮世絵師:昇亭北寿 - ヨネザアドの学びの杜・遊びの海(米澤誠の公式ブログ)」で知った。)

 一読、さすが賢治だと感じ入ってしまった。
 尤も、小生が版画についてもド素人だから感服しているだけで、絵画や美術、まして版画(技術)に精通している人には、あるいは取り留めのないメモに過ぎないのかどうか、小生には判断が付きかねる。
 でも、小生には面白い、参考になる着眼点があって、是非ともメモしておきたくなったのである。
浮世絵版画の話」は決して長くはない文章なので、賢治ファンあるいは版画好きの方はリンク先へ飛んで行ってもらって、通読することをお勧めするものである。

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→ 昇亭北寿『東都芝愛宕山遠望品川海』 (画像は、「名古屋テレビ 浮世絵美術館」より) この近辺も車で週に数回、年にすると百回以上、十数年だとすると、計算できないほど、通りかかった。最初の頃は愛宕山って言われても、何処が山なの? だったものだ。風景は百年で随分、様変わりしている。

 ここには要点だけ転記して示す(太字は小生の手になる)。

一般に「版画は肉筆の旧屈な模写」といふ考が行はれてゐるが、さういふ場合も相当ある。(中略)若し版画が名画の安価な模写のみを職能とするならば、畢竟、版画は芸術とは称し得ない。ところが版画には版画の特種な機能がある。(中略)木版ならば版下を書く際からこれを木に彫んだ際に最木のいゝ味を出すやうな線を選び、あらん限りの効果をその刷の度数に対して期するやうに色彩をとる。これが創作版画である。

 と前置きした上で、本論に入る。
これを浮世絵木版画を中心にして考へるにその第一は純潔である。これは製作の技法から形態色彩共に極度に単純化されこの際単なる省略ではなしに題材の心理的昇華が行はれるためであらうと思ふ。従って作品の価値は版画家の題材昇華の能力に依て大半を決せられるとも云へやう。

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← 昇亭北寿『武州千住大橋之景』 (画像は、「名古屋テレビ 浮世絵美術館」より) (「武州千住大橋之景」の画像や解説、「雲を描いた浮世絵師:昇亭北寿 - ヨネザアドの学びの杜・遊びの海(米澤誠の公式ブログ)」を参照のこと。(08/10/22 追記))

 いきなり「純潔」ときて、いくら賢治でも…と思ったら、「製作の技法から形態色彩共に極度に単純化されこの際単なる省略ではなしに題材の心理的昇華が行はれるためであらう」と続く。制約があるからこそ、反って作家の力量が作品の出来を大きく左右するということか。

第二は諧律性である。版画には詩や音楽に於ける韻律の感じが高度に含有される。これは一つはその木彫といふ約束から線に非常に特異な一定の個性があってその個性の中でのいろいろな変化である為にそこに一つのリズムに近いものができる。(以下略=この略した部分は「歌麿の版画の曲線の海外でsinging lineと称せられる如くである」とあったりして重要な指摘だと思う。是非、当該頁へ。)

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→ 昇亭北寿『東都日本橋風景』(江戸東京博物館所蔵) (画像は、「TOKYO DIGITAL MUSEUM」より)

第三は神秘性である。(中略)版といふ特種な制約からと、できるだけ表現が約されて居り或る部分は全く観賞者のその時々の心境による想像によって補ふやうに残されてゐるのに基くらしい。(中略)進んだ芸術観賞者に対してはたゞその材料を作家の如何としても抜くべからざる意図に於て暗示的に構造するを以て必要にして十分なりとする。(中略)その結果仮面劇殊に神楽や能楽に於けるやうなあらゆるしぐさに対して常に表情の変らない同一の仮面といふことが何かそのものを超人的なものに想像させるといふ仮面劇の原理によるものである。
 いかにも日本画の特徴である余白や人物画の無表情とさえも思われかねない表情の乏しさ。その神秘性を能楽などの仮面劇の原理だという辺りは溜め息が出る話の筋立てだ。
第四はその工芸的美性であってこれはその材料と性質及製作の過程から当然起こってくる。(中略)それが若し歌麿の女の腕でありうなじであればそこに微かな半肉彫のやうな膨らみが出来上がる。純白な紙の色は直ちに肌膚の色であり気温湿気による微妙な紙面の増減は直ちに肌膚の呼吸である。敢て人物に限らず墨線に限らない。北斎の赤富士に於る雪と巻雲、広重の雨、春信の衣服、北寿の積雲等に於る無色刷みなこの性質を利用して非常な効果をあげている。

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← 昇亭北寿『東都日本橋風景』(江戸東京博物館所蔵) (画像は、「TOKYO DIGITAL MUSEUM」より)

「材料と性質及製作の過程から当然起こってくる」効果が、「歌麿の女の腕でありうなじであればそこに微かな半肉彫のやうな膨らみが出来上がる」…。以下の指摘は熟読しておいて、浮世絵版画を見る際に改めて思い出してみるのもいいかも。

第四にそれがぜい沢品であるといふ感じのないこと。(中略)誰も持ち誰も持ち得るといふ(中略)点が版画がプロレタリア芸術の花形である所以でもある。

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→ 昇亭北寿『東都日本橋風景』(江戸東京博物館所蔵) (画像は、「TOKYO DIGITAL MUSEUM」より)

 最後の項は、順番からすると第五のはずだが、賢治の勘違いなのか、それとも、版画という複製作品の歴然たる特徴ではあるが、第一から第四とは同列に並べかねるという躊躇いが賢治にあったのかどうか。
 繰り返しになるが、「浮世絵版画の話」は賢治ファン版画ファンなら一読を薦める。小生が略した部分に旨みが隠れているはず ! !

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← 昇亭北寿『東都佃島之景』  (画像は、「六華庵」より) 

 さて、先に出た第四の工芸的美性なる項で、転記文中に「北寿の積雲等に於る無色刷みなこの性質を利用して非常な効果をあげている」というくだりが出てくる。
 北寿は、小生、初耳同然。昇亭北寿(しょうてい ほくじゅ)のことであろう。
北斎の門人として、師の洋風風景画を更に発展させた北寿」とのことだが、残念ながらネットでは北寿についての情報は余り見つからなかった。
 その代わり(?)、「奈良 美智「In the Floating World No Nukes!」を買う」なる頁を発見。
 奈良 美智ファンは少なからずいるのでは。
 エピソードが面白い:

子どもの頃、お茶漬けの付録に付いていた小さな浮世絵カードを見て、それが誰の何の絵かわからなくても「いい絵だなあ」と思っていたと言う奈良美智。この作品は、1999年、浮世絵版画を借景に見立てて描いたシリーズ《In the Floating World》からの一枚です。江戸時代の木版画を現代の日常的なメディアに置き換えてゼロックスコピーで表現しています。もとになった絵は、昇亭北寿(しょうていほくじゅ)が描いた「東海道富士河真写之図」。北寿は葛飾北斎の弟子で、江ノ島や品川などをモチーフに洋風風景画を発展させた一人。(以下略)

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→ 昇亭北寿『東都品川宿高輪大木戸』[寛政末期-文政期(1800-30)頃] (画像は、「港区ゆかりの人物データベースサイト 高輪大木戸」より) 小生、仕事柄、画像で示される辺りは営業の日には何度かは通ったものである。あの「高輪大木戸跡」という表示を見たことがあるが、どれが跡なのか分からなかったが、国道沿いにある、すぐに目にすることのできる、あの石垣のことだったのだと、たった今、気づいた次第。

 奈良 美智は1959年12月生まれなので、小生より5つほど年下だが、世代的には近い。「子どもの頃、お茶漬けの付録に付いていた小さな浮世絵カードを見て」という一文で、ああ、そうだったと小生も思い出した。ガキの頃(今もだが)、振りかけのお茶漬けの袋の中に、名刺大ほどの浮世絵カードが入っていて、ついつい集めてしまったものだった。
 小生の家では襖や壁に浮世絵が貼ってあったことなどは、以前、書いたことがある。小生の浮世絵原体験になる。でも、このお茶漬けの話は、思い出させてくれて、ありがとう! だった。

 同じ頁に載っている奈良 美智作の「In the Floating World No Nukes!」って絵も見て楽しい!

                            (07/12/22作)

雲を描いた浮世絵師:昇亭北寿 - ヨネザアドの学びの杜・遊びの海(米澤誠の公式ブログ)」という記事を発見。(08/10/22 追記)。

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コメント

あけましておめでとうございます。

今来て見てびっくりしたのですが、
一枚目の浮世絵、ちょうどそこで昨日写真を
撮ってきました。
稲村ガ崎からの光景ですね。

ブログの趣旨とずれてしまいました。

なにはともあれ
今年もよろしくお願いします^^

投稿: スナフキン | 2008/01/03 22:27

スナフキンさん

あけましておめでとうございます。

もう活動開始ですね。
小生は昨日は初詣、今日はチラッと箱根駅伝見物。
まだ、活動開始にはエンジンが湿っているようです。

今年も素晴らしい写真、期待しています。
宜しくね!


投稿: やいっち | 2008/01/03 23:21

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