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2008/01/25

反骨の浮世絵師 英一蝶

[「鳥総松(とぶさまつ)」(2005/01/06)から英一蝶(はなぶさいっちょう)についての記述部分を抜粋する(但し、一部改稿の上、画像と追記を付した)。本稿に飽き足らない方は、「美の巨人たち 英一蝶『布晒舞図』」を読むとよかろう。(08/01/25 アップに際し付記)]

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← 英一蝶・画『雷神』 (画像は、「英一蝶 - Wikipedia」より)

 榊原悟著『日本絵画の見方』(角川選書)の中で、日本の伝統的な絵画作品を見る上で、様式や画題、描かれる素材(紙か板か、それとも絹などか)などと共に、描く素材を見極めるのも大事だという話の流れで、英一蝶(はなぶさ・いっちょう、承応元年(1652年) - 享保9年1月13日(1724年2月7日))のことが話題の俎上に登っていたのである。

 彼の名前くらいは小生も知っていたが、必ずしもじっくり眺めたことがあったわけではない。それが証拠に、彼が島流しの憂き目に遭い、しかも12年の長きに渡っての島流しだったことなど、初耳状態で本書を読んでいたのである。

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→ 英一蝶筆『梅月山鵲』(紙本墨画 109.9 x 30.1cm<個人蔵>) (画像は、「京都国立博物館」より)

 本書では、その島流しの期間があまりに長かったため、当初持っていった絵具の材料が底を尽き、乏しいありあわせの素材で、水墨に淡彩、時には草の汁を使ったことさえもあるらしいこと、紙の表装を自前で(小刀で削ったりして)行っていたことなど、英一蝶の島での苦労ぶりが書かれている。

 その前に、水墨画が古来、好まれたのは、その描かれる世界の古雅ぶりもさることながら、そもそも、旅先などで絵を描く必要や欲求に駆られても、旅先に都合よく絵具などがあるはずもなく、一番、簡便な素材は墨だったことが、大きな要因だったことに改めて注意を喚起させられたのだった。当たり前といえば当たり前の話であり、旅というと、腰に筆で文章を書くための最低限の道具類を下げているのは、たしなみのある人士ならば当然の用意だったわけであるが。

 ところで、英一蝶が何ゆえ島流しの刑に処せられたのかは、あまりハッキリしないようである。英一蝶については、例えば、「絵画のおはなし  英一蝶のこと」(ホームページ:「京都国立博物館」)という、「世紀の終わりのころから18世紀の第一・四半世紀まで活躍した画家」などと、子供向きというか、小生にも分かりやすく説明してくれるサイトがあるので、覗いてみるのがいいかもしれない。

 ここではさらに、「どうして一蝶はそんなにも人気があったのでしょうか。もちろん、その絵は描く力が人並すぐれていたこともありますが、理由はそれだけではありません。それは、かれの人生がふつうの画家では考えられないほど、波瀾万丈のものであったからなのです」などとも説明してある。

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← 英一蝶筆『蓮鷺図』(紙本墨画 82.3 x 26.3cm<個人蔵>) (画像は、「京都国立博物館」より) 東京都港区高輪二丁目、承教寺に英一蝶の墓所があるという。昔は、この承教寺の近所に暮らしていたのだが、全く知らなかった。情けない。

 どう、波乱万丈だったか。
 その詳細はこのサイトにも書いてあるが、別に、「英一蝶島流し」(ホームページ:「風柳祐生子の 硬派er 歴史 館  本館」)という、そのものズバリの表題の頁を覗くのがいいかもしれない。彼には誤伝が多いが、それは「多分に、本人のせいである。まず、使った呼称が多すぎる。」という。

 また、「本名、画号、俳号、書号。芸名、偽名、合せていくつになるのやら。」として、有名な画狂人葛飾北斎(画狂人も自称である)にも匹敵しそうな何十個にも及ぶ名前の数々その例の数々を挙げている。興味のある方は覗いてみて欲しい。

 一方、彼についての評判記も凄い。ちなみに、「評判記に「男より豪快にして女より優雅、男より繊細にして女より強い。美女も美男もどちらも愛し、貴人より高貴にして賤民より卑しく、僧より僧で、武士より武士。金と湯水の区別をつけぬ富豪にして他人{ひと}の財布で生きる貧乏人。神仏のごとく尊ばれ、蛇蠍のごとくきらわれ、生きて生を超え殺して死なず、鋼鉄{はがね}より重く、空気より軽{かろ}き者、云々」だとか。

 それでも、やはり、「一蝶が遠島になった理由となると、これがまたよくわからない」という(末尾に付した註を参照のこと)。

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→ 英 一蝶『一休和尚酔臥図(いっきゅうおしょうすいがず)』(紙本墨絵淡彩、31.1cm×42.1cm) (画像は、「板橋区立美術館 ねっとび 英 一蝶『一休和尚酔臥図』」より) 「頓知(とんち)や奇行で知られる大徳寺の一休和尚が酒ばやし(杉の葉を束ねて作り、酒のできたことを知らせる印)を掲げた酒店の店先で酔い臥(ふ)しています」。

 思うに、こんなケッタイナ人間は、何処か遠くに追いやりたい気持ちも分からないでもない。
 小生が当局者で権力があったりしたら、煙たくなって、見えないところに左遷させるかもしれない。半ば、嫉妬の念に駆られて。
 彼は生前、島流しの刑に処せられる前は、暁雲(ぎょううん)の名の「俳諧師としての名声の方が高かったようです」という。芭蕉や大名などとの交流もあったらしい。

「罪が何であったのか、これも実は完全にはわかっていないの」だが、とにかく、「1709年、将軍の綱吉(つなよし)が死に、将軍が代(だい)がわりになったことを記念した大赦(たいしゃ)を受けて、一蝶は江戸に還(かえ)ってくることになります。このとき、一蝶はすでに58歳になっていました。」という。

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← 英一蝶『布晒舞図』 (この作品については、「美の巨人たち 英一蝶『布晒舞図』」や「いづつやの文化記号 英一蝶の布晒舞図」を参照のこと)

 ところで、「英一蝶」という名には、面白い逸話がある。つまり、「帰還(きかん)する船のなかで、かれは一匹の蝶を見つけ、それまでの朝湖の名を捨てて一蝶と名のるようになったということです。英(はなぶさ)は母の姓の花房からとられました」というのである。

 その一蝶には涙ぐましいエピソードがある。「頗ル勇猛の手也。性胆勇あれども母に仕へて至孝なり。一旦故ありて遠島に流されし間も、画を母に贈りて衣食の料に充」というのだ(「時代統合情報システム」による)。

 帰還後には芭蕉も親友の其角もいなくなっていたとか。

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→ 一蝶筆『芭蕉と柳図』 (画像は、「江東区芭蕉記念館所蔵 松尾芭蕉の肖像画 一蝶筆」より)

 まあ、そんな紹介より、「絵画のおはなし  英一蝶のこと」などに紹介されている「梅月山鵲」や「蓮鷺図」などの紙本墨画を是非、見て欲しい。
 小生が、敢えてこじつけてまで英一蝶のことを紹介しようと思ったのも、それらの作品を見て、すげえーと感動したからなのである。

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← 榊原悟著『日本絵画の見方』(角川選書) 「江戸時代の絵画では、代筆や共同制作は当たりまえのことで、「似せ物」は「ニセモノ」ではなかった…。


[ 以下はアップに際し追記 (08/01/25)]:
 本稿において、「英一蝶が何ゆえ島流しの刑に処せられたのかは、あまりハッキリしないようである」としているが、「美の巨人たち 英一蝶『布晒舞図』」がその事情についても詳しい。
「将軍・綱吉の命により、幕府が打ち出した「生類憐れみの令」。人よりも犬の方が尊ばれる元禄社会は、まさに不条理な世界でした」とした上で以下のように記してある:

 一蝶もこの混迷した時代を生き、そしてその不条理の犠牲者となります。一蝶は当時流行した流説「馬のもの言う」を広めた罪で島流しの憂き目に遭います。この流説は馬や犬、鳥がこんな良い社会はないと言い合うという話。すぐに真犯人は捕まったが、一蝶が解放されることはありませんでした。一蝶は太鼓持ちとしてあまりにもてなし上手だったため、大名に浪費を重ねさせ、なかには吉原の遊女を身請けしてしまった大名もいたといいます。幕府はそんな一蝶にあらぬ罪を被せたのでした。1698年、一蝶46歳の時、三宅島へと島流しになります。

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→ 英一蝶『雨宿り図屏風』(画像は、「いづつやの文化記号 英一蝶」より) 本作については、「いづつやの文化記号 英一蝶」や「東人雑記地下室のメロディ  24 英一蝶の遠島」を参照すべし!

 さらに、島流しの刑の理由には異説もある。一部しか転記しないが、以下の文に続くエピソードが実に面白い!!
魚河岸野郎 魚河岸四百年 洒落者、寶井其角の一生」:

 其角の俳句の弟子であり、同時に絵の師匠であった英一蝶は、「朝妻船」という絵で、時の権力に追随して立身した柳沢吉保が、自分の娘を将軍綱吉の側室にしたことを風刺的に描き、お上の怒りにふれ、三宅島に遠島となりました。

 尚、ここでは参照しないが、下記の頁がさらにさらに面白い:
東人雑記地下室のメロディ  24 英一蝶の遠島

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