山水画…中国絵画の頂点か
ブログでのマイブームテーマである「水」「海」「霧」「川」「雲」「空」などの延長で、長々と西欧の風景画を観てきた。多分、もうしばらくはこうした風景画という脇道・寄り道は続くものと思う。
主に欧米の風景画を、無論、ほんの一瞥程度にしかならないが、それでもそこそこには見てきたが、日本の風景画も見ておきたいし、なんといって中国の風景画…山水画を見ておきたい。いや、観たい。
93年だったか会社の慰安旅行で台湾へ行き、故宮博物院で中国の至宝の幾許かを観たが、小生の一番の関心事は水墨画であり山水画だった。
← 郭熙『早春図』(画像は、「経典芸術書画」より)
台湾(台北だったか高雄だったか忘れた)の何処かの旅行客相手の土産物店でも、物色したのは水墨画だった。無名か、それとも有名な誰かの複製品だったか、水墨画の掛け軸を一品、柄にもなく買い求めたものだった。
しかしながら、そのとき、どれを買うかで迷ったのも事実。狭いとは言えないショップには何十点という掛け軸が吊り下げられている。その中からどれを選ぶかで迷ったわけではなかった。
実は、直感でほとんど迷わず、これ、という作品に目が行ったのである。惹き付けられたというべきか。
が、手元不如意で、やや予算オーバー。
他に一点、まあまあ気に入ったのがあり、それは予算内に収まる。
要は、予算内の山水画を求めるか、小遣いでは足りないが(一緒に買物に来ていた同僚におカネを借りて)思い切って、一目惚れした作品を買うか、その二者択一で迷ったのである。
→ 范寛(はんかん)画 『谿山行旅圖(けいざんこうりょず 渓山行旅図)』(北宋) (画像は、「山水画 - Wikipedia」より) この山水画については、例えば、「実践女子大学美学美術史学科 WEB美術館 絹本墨画着色 206.3×103.3cm 台北国立故宮博物院」参照。この画の高精細度の画像は、「國立故宮博物院 National Palace Museum 宋 范寛 谿山行旅」なる頁を覗くといい。
…そして後悔するはめになる。やはり、妥協して買った作品は帰国して眺めているうちに、すぐに飽きてしまった。妥協したという思いが付いて回ったせいもあったのかもしれない。
同時に、脳裏には買わずに通り過ぎてしまった作品、売店のおばちゃんもこれにすればいいのに…という顔をしていた、あの作品の図柄が浮んでくるのだった。
自分の中途半端な、そしてけちな性分を思い知らされる場面だった。
水墨画や山水画には、尽きせぬ魅力を感じてきた。魅力の由来は何処にあるのか自分でもわからない。
それこそ、水墨の暈しなどの曖昧な表現に思い入れし幽玄の境を勝手に感じ取っているだけなのかもしれない。
が、水墨画をじっと眺めたら、その暈しがただの暈しではなく、徹底して計算され尽くしていることを感じざるを得ない。
水に溶かした墨を含ませた筆の切っ先を磨きぬいた腕で細心の神経を払って画布の隅々まで描き挙げていく。
← 梁楷(りょうかい)筆 『雪景山水図 (せっけいさんすいず)』 (画像は、「東京国立博物館 館蔵品詳細」より) 「梁楷は南宋の嘉泰年間(1201-04)頃の画院画家。本図は梁楷の山水画家としての力量を示す代表作。足利将軍家伝来の東山御物として,出山釈迦図を中幅とする三幅対として鑑賞された」という。詳しくは当該頁へ。
画布と書いたが、媒体は紙である。紙。詰まるところは木の繊維と思っていいのか、この点は今は探らないでおく。
今日は水墨画というより山水画に焦点を合わせる。
しかし、その山水画も歴史があり、要点を書き連ねるだけでも相当な紙数を要しそうだ。
北宋辺りに焦点を絞っておこうと思う。
「山水画 - Wikipedia」から、関連する記述だけ転記する:
山水画(さんすいが)は中国で発達した絵画のジャンルである。現実の風景の再現を意図した作品もあるが、写実による山岳樹木岩石河川などの風景要素を、再構成した「創造された風景」「心象風景」が多い。神仙や霊獣の住処としての山水表現は秦漢時代から盛んであった。泰山での封禅をはじめとする山岳信仰は、現在まで中国人の精神にひそみ、山水画が成立した原因の一つになっている。

→ 荊浩『匡盧図』 (画像は、「匡盧圖 ---荊浩(五代 )」より)
五代~北宋時代には、荊浩、董源、巨然、李成、范寛、郭熙など、その後千年間古典とされた山水画専門または山水画で有名な巨匠達が輩出し、従来、絵画の本流だった人物画をしのぐ状況となった。文人官僚が鑑賞する絵画として山水画が賞揚され、当時の指導的文化人たちが批評を書き、画家の社会的地位が上昇し、名画は高価で売買されていた。宮廷でエリートが集まる翰林院の壁画が山水画であったのは象徴的である。(中略)作品としては、范寛『渓山行旅図』(台北 国立故宮博物院)、郭熙『早春図』(台北 国立故宮博物院)、巨然『渓山蘭若図』(Cleveland Museum of Arts)がある。
「水墨画 - Wikipedia」からも必要最小限、転記する:
水墨画(すいぼくが)とは、「墨」一色で表現される絵画で、墨線だけでなく、墨を面的に使用し、暈かしで濃淡・明暗を表す。墨絵(すみえ)とも言う。中国で唐代後半に山水画の技法として成立し、宋代には、文人官僚の余技としての、四君子(松竹梅菊)の水墨画が行われた。
転記文末尾に、水墨画は「中国で唐代後半に山水画の技法として成立し」とある。山水画にも名前が筆頭に挙がっているが、范寛の師でもある荊浩こそが水墨画法を成立させたのである(范寛は李成の弟子でもある。李成の水墨画については、「宮本武蔵・美術篇 104 武蔵美術論 4」を参照のこと)。
← 千住 博【著】 『美は時を超える―千住博の美術の授業〈2〉』(光文社新書 光文社) 平易な文章で綴られているが、内容は濃く深い。実作を手がけているからこその言葉は説得力がある。本書の中の「第3章 水墨で描かれた神―中国絵画の宇宙を旅して」という章は、山水画(水墨画)について千住氏ならではの体験と見解が記されていて、(本書全体の)一読を薦めたい。
「宮本武蔵」というサイトがある。
「播磨武蔵研究会[宮本武蔵]は、宮本武蔵に関する総合的研究を目的とするサイトである。この研究プロジェクトでは、宮本武蔵について、その思想・芸術・伝記・歴史状況等々にわたり、多方面からの諸研究が実施されている」というサイトだ。
→ 宮本武蔵作 『枯木鳴鵙図』 (画像は、「宮本武蔵『枯木鳴鵙図』を特別価格で販売【アート静美洞】」より)
このサイトの全貌どころか、その端っこにも触れるのは骨が折れる。小生にはちょっと手が出ないサイトである。
かの宮本武蔵が剣の達人であったと同時に水墨画など書画にも非凡な腕前だったことは知られている。
そんなこともあってか、水墨画に限らず、「武 蔵 美 術 論」での探求は詳細を極めている。
なんといっても、「兵法の理にまかせて諸藝諸能の道を學べば、萬事に於て我に師匠なし」(五輪書・地之巻)という武蔵が相手だから、一筋縄で行くはずがないのだろう。
水墨画についての論及も類を見ない。
思うに、小生が水墨画に惹かれた切っ掛けは、いつかの展覧会で宮本武蔵の水墨画を観たからではなかったか(但し、数年前、「剣豪宮本武蔵の代表作「枯木鳴鵙図」は別人の作」ではという説が話題を呼んだことがある。この説の真偽の程は小生には分からない)。
水墨画や、特に北宋などの山水画から感じるものは、枯淡とか明鏡止水とか清澄とか静謐とか、侘び寂びとか、そんな涸れた世界ではなく、また神仙思想の気味に囚われているといったものではなく、画面から受けるものは技術は勿論のこととして、雄大であり天上天下であり宇宙であり卑近な生活であり、そうした一切を写し取らんとする気迫でもある。
そう、漲る気力と迫力。これである!
千住 博氏が『美は時を超える―千住博の美術の授業〈2〉』の中でも言っているように、北宋、南宋という「時代の中国絵画は世界でも比類ないレベルとして、まさに人類史上の絵画の頂点を極めたといってもよいのです」。
当然ながら、風景画(と呼称していいのかどうかは、これまた問題だろうが、そうした一切を超えて)としても頂点を極めていたと小生は生意気ながら思っている。
(07/12/26作)
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コメント
>雄大であり天上天下であり宇宙であり卑近な生活であり、そうした一切を写し取らんとする気迫でもある。
まさにそうですね!
北京に滞在していた頃、けっこう買いあさりました。時間があるので、たっぷりと吟味して購入したので、今でもお気に入りです。
観光など、急かされた状態で買うと確かにあとで後悔するようなものも買ってしまいがちですね。
うちの母が水墨画を描いてます。今日も仕事から帰ってきて玄関開けたら、部屋中が墨くさくなってました(笑)
投稿: サラス | 2008/02/05 00:09
サラスさん
この頃の山水画は、象徴性をおも帯びていて、絵画表現の一つの頂点を極めてしまったように思えます。
それはともかく、本場で買い漁っただなんて、小生には夢のような話です。
さすがです。
焦って買うと、ろくなことがない。小生は、安物買いのゼニ失いの典型でした。
御母堂が水墨画を。チラッとでも観せてもらいたいものです。
我が父は篆刻をやっていて、郷里の家の玄関に自慢げに飾っております。読売書法展の篆刻の部門で上位入賞を何度か。
郷里の新聞では顔写真も出てました。
投稿: やいっち | 2008/02/05 03:15