森の中のフリードリヒ
← Handel 『Arminio』( Alan Curtis (指揮), Il Complesso Barocco (オーケストラ), Dominique Labelle (Vocals), Geraldine McGreevy (Vocals), その他 Virgin) (画像は、「Amazon.co.jp: Handel Arminio 音楽 George Frideric Handel,Alan Curtis,Il Complesso Barocco,Dominique Labelle,Geraldine McGreevy」より) 後出の転記文中に「アルミニウス」という名前が垣間見えるはず。その「アルミニウスという人物は、ドイツ民族にとっては極めて特別な意味を持つ人です。AC9年、オクタヴィアヌス帝(=アウグストゥス帝、カエサルの養子)の時代、強大な力をもったローマ帝国に対して、ゲルマン民族のうちの一部族でしかなかったケルスキ族の首長アルミニウスが、トイトブルクの森(ウェストファーレンの山地)で、ローマの総督クインテリウス・ヴァルスの率いるローマ軍を打ち破ったのです」。「1737 ARMINIO」参照。
カスパー・ダーヴィト・フリードリヒとは、「カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ - Wikipedia」によると:
カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ(ドイツ語:Caspar David Friedrich、1774年9月5日 - 1840年5月7日)はドイツの画家。グライフスヴァルト出身、ドレスデンで没する。フィリップ・オットー・ルンゲととともに、ドイツのロマン主義絵画を代表する。宗教的含意をふくむ風景画によって知られる。カスパル・ダーヴィト・フリードリヒとも。
→ カスパー・ダーフィット・フリードリッヒ『森の中の猟歩兵(The Chasseur in the Woods )』(1813) 残念ながら、ネットでは本文で話題にされているカスパー・ダーフィット・フリードリッヒの『森の中の猟歩兵』なる作品については、多少なりとも納得できる画像を見出すことができなかった。この画像は、少なくとも本書の中で観る写真とは雰囲気がまるで違う。なんだかとっても明るい彩色になっている。サイトが暖色系が好きだからか ? ! できれば本来はもっと闇が濃く、雰囲気的に暗いものと想像されたし。言えることは、フリードリッヒは1813年、ナポレオン軍と連合軍の戦いのため疎開し、1814年、「ナポレオンが退位。愛国的作品をドレスデン美術展に出品」していたということ。下記する転記文を参照のこと。
← カスパー・ダーフィット・フリードリッヒの『森の中の猟歩兵(The Chasseur in the Forest)』(1814 Oil on canvas, 66 x 47 cm Private collection) 諦めの悪い小生、しつこくネット検索したら本書に掲載されている写真にイメージ的に近い画像を発見した。 画像は、「Web Gallery of Art, image collection, virtual museum, searchable database of European fine arts (1100-1850)」より。冒頭の絵と同じなのか…。あるいは違う作品? 実は、もっと大きな画像も発見したが、コピーできない仕掛けになっている。→ 「Caspar David Friedrich Reproductions Paintings」を見よ!
以下、サイモン・シャーマ著『風景と記憶』(高山 宏・栂 正行【訳】 河出書房新社)よりフリードリッヒの風景画、特に『森の中の猟歩兵(The Chasseur in the Forest)』を中心にしての記述部分を転記する:
ケルスティングの作品は、自由のための闘い(Freiheitskrieg)の図像中最も息の長いカスパー・ダーフィット・フリードリッヒの『森の中の猟歩兵』(挿画)とともに、一八一四年、ドレスデンの愛国主義お絵画展に展示された。同時代の批評家たちは、フリードリッヒのこの絵がいかに愛国主義的シンボルに満ちたものかをすぐ理解できた。切り倒されたモミの切り株(死んでいった兵士たちの象徴)の上にとまり、一人孤立したフランス人猟歩兵に死の歌を歌う、ワタリガラスの図だからである。もっとも、フリードリッヒの絵は、このような霊感を呼び起す寓意象徴(エンブレム)の機械的な目録という以上のものであった。それはまた、アルトドルファーの『聖ゲオルク』のブックエンドたるべきものとも見なされた。この二枚のパネル画とも、その内部に歴史が読みとられる空間をきりきりと閉じこめる息苦しいまでの群葉の遮蔽幕によって、支配されている。森そのものがゲルマンの役を演ずる点でも双方同じだが、似ているのはそこまでである。アルトドルファーの「ヘルシニアの森」の葉叢は聖なる勝利の華光(けこう)に照らされているのに対し、フリードリッヒのモミの木の森では、葉は死の雪で縁取られている。キリスト教徒・ゲルマンの戦士ゲオルクは、英雄の姿をしている。これに対して、新たな皇帝、またその数々の征服の結果、イタリア国王でもあるナポレオンに仕えるこのフランス兵は、後ろ姿をして、その弱さが強調されているかのようだ。森の孤独が聖ゲオルクにとっては友であるかに見えるのに対し、この新たな「ラテンの」侵略者にとっては、はっきり敵である。フランス軍のそれをもとに正確に描かれた彼の兜は、あたかもウァルスの死んだ百卒長のひとりから借りてでもきたかのように、気色悪いほどにローマ的なものに見える。おそらくこの二人それぞれの武器にさえかつての武器を思い起こさせるよすががある。つまり古代ゲルマン人がゲオルクが龍を突き刺す槍とさほどちがわない槍や投げ槍を携えていたのに対して、ローマ人は剣を用いたのであって、これがフリードリッヒの絵では猟歩兵のケープの下から邪魔臭く垂れる武器に示されている。そして聖ゲオルクが森のつくる面と、平行に位置づけられていて、森とあたかも一体であるかのような感じであるに対し、あわれな猟歩兵の方は、森と真っ向正面に対(むか)い合わさせられ、行きつく所も定かでないのにこれしかないと有無を言わせぬ体(てい)の一本道が、彼を森の奥にむりやり連れこもうとしている。アルトドルファーの作品においては、光が植物を透過して向こうに空間を見させてくれるのに、フリードリッヒの作品では黒洞々(くろとうとう)の暗闇あるのみ。猟歩兵が再生ゲルマニアの密集軍団然と密生した常緑樹の樹列によって囲まれ見おろされているところは、かつてのウァルスの百卒長たちもかくやと感じさせるものがある。
→ C.D.フリードリヒ 『フッテンの墓』(1815-16)(画像は、「今月の1枚 2001年6月」より) 残念ながら、本書で言及されている『ウルリッヒ・フォン・フッテン』(1823)とは題名は似ているし、画題も近いのだが、この画像はちょっと明るすぎるようだ。
(中略=詩人ブレンターノの求めに応じグリム兄弟が中世の詩、伝説と寓話、逸話、笑話、俚諺、歌などの資料を集めていたが、ブレンターノは資料を紛失。が、グリム兄弟は用心深く写しを保管。そもそもブレンターノとグリム兄弟とでは、本に仕立てるにしても、基本的に思想がまるで違っていた。結果、グリム兄弟の意図するグリム童話が残った。(←略した部分の小生による概要))
ジャック・サイプスほか多くの人々が言っていることだが、グリム童話のことを考えながら同時に森というものを思い浮かべぬということはありえないのである。そしてその森は常に北ドイツの森であった。そこはモミとブナと怪物のように奇怪なオークが、コルベ描く人を呑む植物怪獣のようにふしくれだち、ねじ曲がっており、あるいはゲーテの身も凍る詩「魔王」で有名になった子供を喰らうハンノキの「妖精王」の世界であった。また、服屋だの兵士だのは言うに及ばず、ヘンゼルやリゼルやそしてフランツルたちが、ものを奪われ、殺され、食べられ、変身させられ、さらにはそのすべてを合わせた災厄に遭う場であった。しかし森は恐怖の場であると同時に、偉大なる審判者でもある。ここではローマ法はきかない。社会的地位だの慣習法の力だのは、曲がりくねった道を行くほどに消えていく。原始的、そして絶対的な矯正の力がそれに取ってかわるのである。雪の中から苺を採ってきてくれた小妖精たちを蹴とばす、感謝を知らぬ少女は厳しく罰せられる。彼女が口をきこうとすると、口から出てくるのは言葉ではなく、ヒキガエルである。花嫁から略奪し、彼女を引き裂き、塩漬けにしようとする森の盗人は婚礼の席で当然の報いを受ける。生れた時に十二人の兄弟と別れた王女は再会を果たす。試練のあとに蘇り、というわけなのだ。
← Caspar David Friedrich 『Monk by the Sea 海辺の僧侶』(1809) (画像は、上でも紹介した「フリードリヒ~ドイツ・ロマン派~」より) 本文とは関係ない。最も好きな作品とは言い難いが、最も凄みを感じさせる作品なので載せておく。
宗教と愛国主義、古代と未来、これらすべてがテュートンの森のロマンスの中でひとつになった。ゲルマニア自身ばかりでなく、何世紀も眠っていた人物たちが蘇る。一八二三年、ウルリッヒ・フッテンの「騎士たちの反逆」三百周年を記念して、カスパー・ダーフィット・フリードリッヒはこれらすべてのテーマをアンソロジーにした一幅を描いている。ウルリッヒ・フォン・フッテンを埋葬した森の墓の上に立つ人物は、十九世紀のズボンと古きドイツ(アルトドイチェ)の擬似ルネサンス風帽子と外套という奇妙な組み合わせの身なりである。彼は現代の人物でありながら、現代の人物ではない。この歴史がごっちゃになった服装は、ナポレオンからの解放の戦争に身を投じた市民志願兵の着た衣装であろう。意識的に古さを言うのは、ツェルティスやルターの時代の愛国主義的人文主義者の魂魄(たましい)を彼らの精神の子孫らが文字どおり心の錦にもせよということらしい。(おそらくフリードリッヒ自身を表している)巡礼の周りにあるのは、近代のドイツ解放戦争の英雄たちの墓なので、こうして最も最近のゲルマンの解放者と最も古代の者たるアルミニウス自身、そして歴史の中に選びだされたフォン・フッテンの生き霊(ドッペルゲンガー)がひとつになる。そしてこれでも古代のゲルマニアと近代のゲルマニアのつながりがなお十分に示されていないとでも言いたげに、血のように不気味に赤い夜明けの光が、墓から立ち上るゲルマンのオークの若木と、墓所の天蓋ともなる丈高いモミの木を照らしていて、これはおのがじし国家の再生と精神の再生を象徴するイメージであろう。(p.128-31)
→ Caspar David Friedrich 『Gräber gefallener Freiheitskrieger(昔の英雄たちの墓碑 Graves of Unknown Soldiers)』 ( 1812 49.5 × 70.5 cm, Öl auf Leinwand Hamburg, Kunsthalle )(画像は、「Caspar David Friedrich - Wikipedia」より) 本文とは関係ないが、目に飛び込んできたので載せる。ベックリンの「死の島」…。
フリードリッヒの絵画を一覧するには、下記がいい:
「フリードリヒ~ドイツ・ロマン派~」(ホームページ:「アクスコ倶楽部」)
「カスパル・ダーヴィッド・フリードリヒ (ロマン派)」(ホームページ:「アート at ドリアン」)
フリードリッヒに関しては、小生には、拙稿「フリードリッヒ…雲海の最中の旅を我は行く」などがある。
(07/12/28作 08/01/06CD情報など追記)
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コメント
先ず何よりもCDが良さそうですね。安売りしていたら買いたいです。
さて、このシリーズの中では結構溜飲が下がりました。ダーフィット・フリードリッヒのみならずグリム兄弟やブレンターノを通して、アルトドルファーをみていく事で、森といっても歴史的な視点が得られると思うのですね。
現在においてもそれは変わらないかも知れないという意味で。また、以前にはそこに住んでいたものはフランス人であるかも知れないので、原生林こそはやはり古の中央アジアや未開を象徴しているのでしょう。
いずれにしても神話の世界にあるのが森のようです。
投稿: pfaelzerwein | 2008/01/07 05:41
pfaelzerwein さん
CDについては、本文にもリンクを貼ってありますが…微妙かも:
http://www.h5.dion.ne.jp/~goten/handel1737.htm
参照しているサイモン・シャーマ著『風景と記憶』には随所に参考になる記述に遭遇します。
別に真に受ける必要はないのですが、下手な美術の専門書の記述よりはずっと背景が分かって、こうした論述を抜きにしての鑑賞は物足りないと思っています。
グリム兄弟らの童話も近年(80年代の終わりか90年頃?)見直されていますが、たかが風景画、されど風景画ってことをつくづく感じています。
神話は嘗てあったものというより、進化と同様、現在進行形で作られつつある、そうした神話(色眼鏡?)を抜きに我々には(純粋透明な形では)風景を眺めることなどできないのでしょうね。
いつになるか分からないけど、この風景画シリーズに取り掛かる切っ掛け、そして発端を呉れたルーク・ハワードの特集の際に、サイモン・シャーマ著の『風景と記憶』の要諦(?)というか、本書を象徴するような記述を転記してみたいと思っています。
投稿: やいっち | 2008/01/07 19:26