アッシャー・B・デュランド
以前拙稿で、「理想か自然か―ハドソン・リヴァー派のジレンマ― 生田ゆき」(ホームページ:「ひる・ういんど(HILL WIND)」)からの引用文を使い、ハドソンリバー派は、トーマス・コール(Thomas Cole)や「当時のアメリカでコールと双璧をなすとされた風景画家アッシャー・B・デュランド(1796-1886)」らに源流にあるようだ」というくだりで名前だけ挙げていた、アッシャー・B・デュランドを簡単にだが、採り上げてみる。
← アッシャー・B・デュランド Durand,Asher(アメリカ1796-1886)『ドーバー平野 ダッチ郡、ニューヨーク』(アメリカ美術国立美術館) (画像は、「肉筆複製画・美術品・絵画販売 ハドソンリバー派絵画」より)
と言いつつ、アッシャー・B・デュランドについては、(少なくとも日本語での)ネットで得られる情報は限られている(ご存知の方にはサイト情報の提供をお願いします)。
下記するサイトがほとんど唯一の頼りである。
「理想か自然か―ハドソン・リヴァー派のジレンマ― 生田ゆき」によると、以下の通りである:
当時のアメリカでコールと双璧をなすとされた風景画家アッシャー・B・デュランド(1796-1886)の残した言葉は示唆に富む。デュランドはニュージャージー州出身、版画、肖像画、風俗画を手がけた後、コールの芸術に感銘を受け、風景画専門へと転向した。しかしながら、コールが心酔したクロードに対してデュランドの評は手厳しい。(中略)、さらに、イタリアヘの道中、ジュネーブからの妻宛の、よりプライベートな書簡には、「これまでは絵を勉強してきたが今は自然を勉強するという望ましい変化が起こっている。自然もまた最高に荘厳で美しくすばらしい」と、プラグマティックな心情を吐露している。
アメリカ芸術批評では最初の定期刊行物『クレヨン(The Crayon)』誌上にて、デュランドは帰国後1855年1月から5月にかけて、風景画についての持論を書簡の体裁を用いて発表した。→ アッシャー・B・デュランド Durand,Asher 『遊び心』(個人所蔵) (画像は、「肉筆複製画・美術品・絵画販売 ハドソンリバー派絵画」より) このサイトでは、『遊び心』といった題名が付されているが、これでは誤解を与えそう。下で、『風景と記憶』からの転記文を示すが、その中では『精神の同族』と題されている。転記文を熟読すべし。
「パレットや筆ではなく、鉛筆と紙を手にしなさい。そして真の風景を感覚にのみうったえる新奇な絵からは沸きださない、感情や表現として認識されるあの名状し難い性格をもって、細密に、忠実に描きなさい」。
← アッシャー・B・デュランド Durand,Asher 『森の中』(個人所蔵) (画像は、「肉筆複製画・美術品・絵画販売 ハドソンリバー派絵画」より) このサイトでは、『森の中』と題されているが、下で示す『風景と記憶』からの転記文中では、『森にて』という題名である。転記文を参照のこと。
コールが選択模倣による現実の理想化を主張したのに対して、デュランドは写実主義の充実を強調した。彼の成果は《川の情景》(fig.6)によく現れている。穏やかな午後の光に包まれ、牛たちはゆっくりと歩みを進める。壮大な構想は影を潜め、画家はただ自然の奏でる調和に静かに耳をすませるのみである。デュランドのこのような作例からは、ジョン・コンスタブルやさらにはバルビゾン派へと続く道が見える。
デュランドの論者は広く普及し、多くの画家たちの道しるべとなった。自らの技量を誇示するもっとも効果的なモティーフを探し求めて彼らは進んだ。まだ誰も見たことのない場所へ。ある時は西部開拓最前線に。ある時は南米ペルーの奥地に。主題に自らのアイデンティティーをかけたのである。理想主義と写実主義。この両者を和解させ、かつアメリカ固有の美術を生み出すことが画家たちに等しく与えられた課題であった。
→ アッシャー・B・デュランド Durand,Asher 『ぶなの木』(個人所蔵) (画像は、「肉筆複製画・美術品・絵画販売 ハドソンリバー派絵画」より)
サイモン・シャーマ著『風景と記憶』(高山 宏・栂 正行【訳】 河出書房新社)からデュランド・アッシャーに関係する箇所を転記する(転記文中の斜体部分は、サイモン・シャーマがアッシャー・ブラウン・デュランド筆の「風景画論」から引用した文を示す):
ビアスタットの絵もホイトリッジの絵も、すべてのアメリカの森林内部風景の父であるアッシャー・ブラウン・デュランドに敬意を払っている。ニューヨークのナショナル・アカデミー・オブ・デザインの学長デュランドは、実際に、ハドソン・リヴァー画派第二世代の神学者と言って良い存在であった。その華光(けこう)の下、風景画がはっきり宗教画になるのである。彼は、一八四〇年のイングランド旅行の時、教会の牧師にはならないという決意について語り、「天の高い天蓋のもとで何束縛されることなく思索にふけるほうがはるかにすばらしい」と言っている。『クレヨン』発表の彼の有名な論文「風景画論」は、彼が『森にて』を出展したのと同じ年に世に出た。この作品でもカバの木はゴシック風に傾(かし)いでいる。彼がいろいろなエッセーの中で説いているうすめられた超絶主義と言うべきものをまさに絵に描いたものである。アメリカの自然は神に導くアーチ道として形づくられているのだ。これのわれらの住処の外観は、われわれの福祉に寄与するその驚くべき構造と諸機能はさておいて、ただ「啓示」の光によってのみ凌駕されるところの崇高にして神聖なる意味を持つ教訓を数々具えている。これらの神さびた絵画の「大いなる制作者」が神のさまざまな属性の型としてそれらをわれわれの目の前においているのだという確信を持たないでは[そうした教訓について]思いをめぐらすことなど不可能である。
デュランドの最も有名な絵――ハドソン・リヴァー派崇高表現の実質的綱領(マニフェスト)――は、一八四八年に亡くなっていたこの画派創設の父トマス・コールを記念するものとして構想された『精神の同族』という一幅である。コールの好んだ場所ふたつ――輝ける黄金の光にたゆたうガータースキル・フォールズとキャッツキル・クロヴァー――を架空界裡に結びつけたものだが、それはまたこの画派お得意のシンボルとエンブレムの総決算でもあった。前景の折れた木はコールの早世を、常緑樹は彼の不死を、突きだした岩は生の危うさを、地平線に向って飛ぶ鷲は肉体からの魂の解放を、河は人生という旅を意味した。この人生という川旅は、コール自身彼の最も野心的な寓意画連作のひとつの主題としていたものだ。見る者の視線をぐんぐん円環状に引っぱっていくこの絵の構図それ自体、どこかブリューゲルを思わせなくもないが、永遠の循環(サイクル)というものを形にすればこうなるという感じである。岩だなに立っているのは、パレットとモールスティックを持つコール自身、そしてウィリアム・カレン・ブライアントという詩人である。ブライアントはニューヨークのメサイア教会で亡き芸術家のために弔辞を読んだ人物で、彼自身の作品も、精神の同族同士の間の親しさを証明するばかりでなく、アメリカン・アイデンティティの本質が自然にこそあるのだと証してやまぬものだった。 (p.237-8)
← 『ハドソン・リヴァー派画集』(トレヴィル ピナコテーカ・トレヴィル・シリーズ) 「西欧では失われた原始の自然が息づく19世紀アメリカ。画家たちは壮大な風景に神の意志を見出し、超越的存在を描きこんだ。ハドソン川流域からグランド・キャニオン、果ては南米、極寒地まで。スペクタクル感溢れる作品群を揃えた日本初の本格画集」。(画像は、「Amazon.co.jp」より) 「ピナコテーカ・トレヴィル・シリーズ」については、「カイエ ピナコテーカ・トレヴィル」参照。
(07/12/31作)
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