ビエスタッド(後篇:センス・オブ・ワンダー)
→ ビエスタッド 『日光と影』(ニューアーク美術館蔵) (画像は以下全て、「肉筆複製画・美術品・絵画販売 ハドソンリバー派絵画」より)
上記に関連するかと思うが、必ずしもアルバート・ビエスタッドの名は出てこないのだが、前にも参照した「理想か自然か―ハドソン・リヴァー派のジレンマ― 生田ゆき」という記事は逸したくない。
ここでは最後の一節のみ転記する:
チャーチの《ナイアガラ》はハドソン・リヴァー派の最も成功した例としてあまりにも有名である。垂直にえぐりとられた大地。絶え間なく落下する滝の一群。絵を見る者は思わず轟音に耳をふさぎ、水しぶきに体をよけそうになるだろう。画家は若き大国の象徴に相応しいスケールと活力とを兼ね備えた対象を探し当て、細部と整合性に流れることなく、崇高さを表出することのできる描写を完成させた。海を越えてイギリスからもあふれんばかりの賞賛を勝ち得たこの絵にも一抹の不安が脳裏をかすめぬわけではない。ヒルの例をひくまでもなく、このような大胆な構成は追随者を量産する危険性がある。さらにより致命的なものとして、一国のイコンたるモティーフは大量消費される運命を免れず、栄光ある国民的絵画が単なる名所絵葉書へと堕する転落は誰にも止めようがないであろう。言うまでもないが、この潮流はチャーチ一人に降りかかるものではなく、ハドソン・リヴァー流すべてが呑み込まれる危険性をはらんでいた。
← ビエスタッド 『古い粉引き小屋』(個人所蔵) (画像は以下全て、「肉筆複製画・美術品・絵画販売 ハドソンリバー派絵画」より)
「栄光ある国民的絵画が単なる名所絵葉書へと堕する」危険性は当初からあったのだろう。特に宗教的感情を共感しえなくなったならば、ただの綺麗な風景画、それこそ、絵のように綺麗な風景という、あの俗っぽさだろう。
どんな風景もそして風景画さえも、描き手の姿勢や技術、感性もあるが、見る人の目次第という側面がある。
ちょっとした部屋の壁に飾ると品がいい、そんな装飾品の一種。
遠い日に、宗教的縛りや伝統などとの葛藤、宇宙観・世界観の変貌と相俟って獲得した、人の肉眼で見たもの、感じたものを描く喜びや、生の目で対峙したればこそ感じる自然の驚異。
ヨーロッパからは早くから自然の驚異の念は言葉だけのものになり、アメリカも西部の開拓の進捗と野蛮の掃討の完了と併行して、森も山も川も書き割りの絵となってしまった。飼い馴らされた、調理された自然となってしまった。
尤も、それが誤解か人間の思いあがりに過ぎないことに遅かれ早かれ気づかされるのだが。
→ ビエスタッド 『ウィンドリバー郷』(エドワードTウイルソンコレクション) (画像は以下全て、「肉筆複製画・美術品・絵画販売 ハドソンリバー派絵画」より)
芸術作品としての風景画の創造というのは、案外と、というより、本来は相当に困難な営為なのだろう。
鳥や蝶や昆虫や魚や狐や狸や熊さんなどは棲んでも、得体の知れない野獣や魔物、未知の微生物は棲まない、楽に中腹以上まで導く車道、分け入るべき歩道の整備された森、それは森とは呼べず、飼い馴らされた犬のようなクマのプーさんが遊び相手になってくれそうな森。
が、ほんの少し考えれば分かるだろうが、何も森や山でなくても、自然は至るところにある。牙を剥き出しにする瞬間を虎視眈々と待っている。自然の定義次第だろうが、メビウスの反面は、人の手によって綺麗に磨かれ人が肌も露わに滑っても傷など負わない。が、そのまさに反面、背中合わせとなっている裏面は、きっと永遠に裏面のままであり、ちょっとした穴から魔の手が伸びる、伸びて人を奈落の底に引っ張り込む、そんな瞬間はいつだってありえるのだろうと思う。
← ビエスタッド 『ナイアガラ』(個人所蔵) (画像は以下全て、「肉筆複製画・美術品・絵画販売 ハドソンリバー派絵画」より)
また、写真さらにはビデオの登場。魔術的な写実性を誇っても、写真の画素数の増大に適うはずもない。風景への愛着だって、カメラマンが風景画家らに負けるはずもない。
それとも、普通の人には分け入ることのできない場所を描く。それだって、画家だろうと写真家だろうと、事情は変わらない。その人次第。
観ること。人が肉眼で、あるいはカメラを通じて観ること。
人が見て描くこと。
現代にあって風景画が成り立つとしたら、意地でも現実に目を背け徹底して綺麗な光景を描くか、勇気を以て敢えて裏面に手を頭を突っこむか、そのどちらかしかないものと思う。
→ ビエスタッド 『ターコイズ海岸』(マヌーギアン・コレクション) (画像は以下全て、「肉筆複製画・美術品・絵画販売 ハドソンリバー派絵画」より)
いずれにしても、自然はいつもあるとは言うものの、人が観るという限りにおいて、どんな風景も光景も場面も情景も一回性というリアルな現実に変わりはない。その一期一会の時の光景を目で観る、カメラで観て撮る、絵筆を握って描く、あるいは目を閉じて耳で聞き、鼻で匂いを嗅ぐ、足を踏み入れて感触を覚える、そんな多種多様な切り取り方・受けとめ方、脳裏へ刻む遣り方があるわけで、何も今更、絵画が写真やビデオなどに対抗したり、そもそも意識すること自体が、ピントがずれているという考え方も十分にありえる。
その絵筆のほんのちょっとしたゆらぎに、その作品を観た誰かが、どんな素晴らしい写真よりその人の感性にぴったりと合ったなら、そんな幸いなことはない。
それで、十分なのかもしれない。
(07/12/10作)
← ビエスタッド 『カリフォルニアの巨樹』(バークッシャー美術館蔵) (画像は以下全て、「肉筆複製画・美術品・絵画販売 ハドソンリバー派絵画」より) この作品は、「ビエスタッド:風景は一期一会(前篇)」にて既に掲げているが、サイモン・シャーマ著『風景と記憶』(高山 宏・栂 正行【訳】 河出書房新社)の中に、この絵に付いての記述があったので、再度、掲げる。
以下、サイモン・シャーマ著『風景と記憶』(高山 宏・栂 正行【訳】 河出書房新社)からの転記:
ビアスタットは、彼自身の『カリフォルニアのアメリカスギ』の中で、原始の森を教会とみるこの解釈をセコイアの森に向ける(直上の挿画)。実際、描かれている木々は、ビッグ・ツリーというよりむしろ、沿岸地域の森の Sequoia sempervirens に似ているように見えるし、樹皮に反射する赤い光は、メンドシノ郡やハンボルト郡のさらに密生した、いっそう暗いセコイアの鈍い輝きに近いものがある。ともかくここには、古さ、威厳、そして大きさというセコイア図像の標準的モティーフのすべてが反復されている。そしてビアスタットは、消え去ったセコイアの赤い樹皮に対する感傷的で、何も動くものがない哀歌の代りに、三人のインディアンを描きこんだ。池のそばに座る息子と一緒にいる勇士、そして背中にバスケットを抱えて戻る女。これではまるで田園牧歌劇のアメリカ・インディアンである。さらに重要な点だが、手前の木にあいた三角テント型の空洞は、明らかにインディアンの住居である。これは(自身、ヨセミテで一種の聖顕(テオファニー)体験をした)ジョン・ミュアーがアメリカの森への回帰をそう呼んだ「帰郷(ゴーイング・ホーム)」をそっくり絵にしてみせているのである。ビアスタットの絵画の描くものは森の家(sylvandomestic)であり、最も土着のアメリカ人たちのいにしえの住居を描いたものである。 (p.236-7)
以下は、「セコイア - Wikipedia」からの転記:
世界一の樹高を誇り、カリフォルニア州レッドウッド国立公園のセコイアは樹高世界1位から3位までを独占する。平均的な大きさは樹高80メートル、胸高直径5メートル、樹齢は400年から1300年ほどで、2200年のものが現在知られる最高齢である。厚さ30センチに及ぶ樹皮や心材の色からレッドウッドとも呼ばれる。
セコイアなる樹木の画像そのほかについては、下記が非常に参考になる:
「セコイア国立公園の巨樹古木」(ホームページ:「巨樹・古木に魅せられて」)
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