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2007/06/13

「裸足のダンス」再び

 小生には、あるボーカリストであり且つダンサーでもある方(末広サラさん)のライブを見て書いた「裸足のダンス」という小文がある。
 以下、この3年半も以前の旧稿を転記の形(但し抜粋)で持ち出すのは、12日の夜、二人のタイプの異なるベリーダンサーによるライブショーを見てきたからである。
 見てきたのは、ベリーダンスバーである「sheherazade(シェヘラザード)」というお店。
 ライブをこうした店で楽しむのは03年以来かもしれない。
 今も印象が生々しい。素晴らしい踊りだった。
 踊っている方たちが踊っている最中にどんなことを思っているのか、あるいは何を表現しようとしているのか、実際に踊っている方に話を伺うことができて感激もした。
 すぐにも感想を書くべきかとも思ったが、言葉にならない。
 後日、改めて自分なりの言葉で感想を書くことに挑戦したい。
 言葉になるかどうか分からないけれど。

 もとより、末広サラさんのダンスと今日見てきたベリーダンサーの方の踊りとはジャンルが違うことを抜きにしても、スタイルがまるで違う。同列に論じられないのは言うまでもない。
 ただ、今年の我がサンバコスコーラ・リベルダージの新年会でベリーダンスショーを見ての衝撃が大きく(「「2007年リベルダージ New Year Party (4)」や「愛のファンタジア(リベルダージ新年会番外編)」など参照)、ようやくベリーダンスのライブを楽しむ機会を持ち、その真髄の一旦を目前で垣間見ることが出来た感激を銘記しておきたいだけなのである。

裸足のダンス」(03/11/30)

 サンバショーということから予想されるような踊りではなかった。もっと、独自の踊りの世界を追及している。それはどういうものかは、本人に聞かないと分かるはずもない。いや、小生のような鈍感な人間だと、お話を直接伺っても理解などできないのかもしれない。
 あるいは、理解とか何とかではなく、踊りの世界はまさに踊りの世界として自らの目と肌と体で受け止めるしかないのだろう。それは音楽に感激し、メロディーラインに乗り、リズムに体が揺さぶられる、ただ、そのことを堪能するようなものだろう。曲を聴いて、それなりの分析や薀蓄などを傾けられるのかもしれないが、まずは、聴いて(あるいは歌っているところを見て)楽しめるかどうか、なのである。

 踊りもそうなのだろう。
 サンバの衣装で踊るダンサーの方たちは、踵の高いブーツを履いている。頭の上から爪先や踵までが踊りを引き立てる小道具なのであり、印象付ける武器なのであり、その前に自らを飾る楽しみの対象なのだろう。

 一方、ダンサーの方は、衣装も至ってシンプルである。羽根飾りなどあるはずもない。足元を見ても、平底に近いような靴だったり、時には裸足だったりする。体を使っての踊りそのものが武器であり表現なのである。
 フロアーで裸足ということに、不思議な感動、素朴な感動を覚えていた。それはどんな感動なのだろう。理屈はいろいろ付けることができる。サンバの踊りは、音楽のリズムも含め、ルーツがアフリカにあると言われている。それは常識なのかもしれない。

 ただ、ダンサーの方が、裸足で踊っている最中、どんなことをイメージしているのか、小生には分からない。アフリカの大地なのか、あるいはブラジルの大地なのかもしれないし、いや、日本の何処かの土の色の見える大地なのかもしれない。
 あるいは、そんなことの一切は、まるで見当違いであって、大地というより、この世界、この宇宙そのものをイメージしているのかもしれない。それとも、大地から宇宙へ至るエネルギーの通路としての自らの体を意識しているのであって、踊るとは、そのエネルギーの充溢と発散のことなのかもしれない。つまりは、自在に動く体への喜びなのかもしれないし、自らの肉体と大地や世界や宇宙との交歓そのものを実現させているのかもしれない。
 裸足ということ。

 最後に裸足で土の上を歩いたのは、一体、いつ頃のことだったろうか。
(中略)

 無論、こんな無粋なことをダンサーの方が脳裏に思い浮かべていたとは、さすがに小生も主張する気はない。
 むしろ、時に体をしなやかにくねらせるダンスを眺めながら、アフリカの乾いた草原を豹かライオンのような猫族の猛獣が、特に獲物を狙うでもなく、ただ足音も立てずにのし歩く、その様を想ってみたりしただけだ。白っぽい土煙。吹き抜ける熱い風。何処か血生臭かったりする大気。容赦なく照り付ける太陽。影と日向との輪郭が、匕首よりも鋭い大地。
 肉体。人間は、どうしても、モノを想う。思わざるを得ない。言葉にしたくてならない。
 言葉にならないことは、言葉に縋りつくようにして表現する奴ほど、痛く骨身に感じている。

 それでも、分かりたい、明晰にこうだ! と思いたい、過ぎ行く時を束の間でもいい、我が手に握りたい、零れ落ちる砂よりつれない時という奴に一瞬でもいいから自分が生きた証しを刻み付けたい、そんな儚い衝動に駆られてしまう。

 しかし、肉体は、肉体なのだ。肉体は、我が大地なのである。未開のジャングルより遥かに深いジャングルであり、遥かに見晴るかす草原なのであり、どんなに歩き回り駆け回っても、そのほんの一部を掠めることしか出来ないだろう宇宙なのである。
 肉体は闇なのだと思う。その闇に恐怖するから人は言葉を発しつづけるのかもしれない。闇から逃れようと、光明を求め、灯りが見出せないなら我が身を抉っても、脳髄を宇宙と摩擦させても一瞬の閃光を放とうとする。

 踊るとは、そんな悪足掻きをする小生のような人間への、ある種の救いのメッセージのようにも思える。肉体は闇でもなければ、ただの枷でもなく、生ける宇宙の喜びの表現が、まさに我が身において、我が肉体において、我が肉体そのもので以って可能なのだということの、無言の、しかし雄弁で且つ美しくエロチックでもあるメッセージなのだ。
 そんなことを思わせてくれた裸足のダンスなのだった。
                     (転記終わり)


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