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2007/06/17

古都サルバドール・サンバの始原への旅

 16日の夜、NHKテレビで「探検ロマン世界遺産 「ブラジル・古都サルバドール」」と題された番組を見た。
 以下は、番組を見てのメモ書きと若干の感想。
 無論、番組を見ての正確なレポートではないことを予め断っておく。
 なんたって、我が家のテレビ(モバイル)は、ちょっと映りが悪く、字幕(テロップ)の文字が読みづらい(小生の日本語の読み書き能力の問題は別にして!)。この番組のように、外国人が語る場面が多いと、喋りは現地の言葉だが、親切にも翻訳が字幕(スーパー)の形で出る。
 それが読めないんだから、肝心の登場人物が何を言っているのか分からないのだよ。

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← 画像は「グスタフ・ブーランジェの描いた奴隷市場」 画家は必ずしも知られていないが、この絵は何故か折々に目にする。左端の子供に注目。(「奴隷 - Wikipedia」より)。

 この番組、副題が「情熱のリズム・サンバ誕生秘話▽熱狂カーニバル」で、下記のような謳い文句が番組表に:

探検ロマン世界遺産◇サンバカーニバルで知られるブラジルのサルバドールを訪ねる。大航海時代のポルトガル人が新天地として開拓したサルバドールは、サトウキビ産業で繁栄した。しかしその繁栄は、過酷な奴隷制の上に築かれたものだった。当時のサトウキビ農園主が暮らした邸宅の片隅には、反抗した労働者に水も食事も与えないという刑罰のために使われた木製の足かせが今も残っている。アフリカ人を奴隷として使っていたポルトガルは、19世紀まで奴隷制を強行した。サルバドールはその舞台となった"負の遺産"だが、一方でブラジル人は「魂のふるさと」として位置づけている。彼らはなぜ、サルバドールを心のよりどころとしているのか。人々の暮らしの中にあるその由来を探る。

 サルバドールというと、「サルバドール・ダリ」を思い起こす人もいるだろうが、ここでは、「ブラジル北東部、大西洋岸にある港湾都市。同国バイーア州の州都である」サルバドールを意味する。
サルヴァドール - Wikipedia」参照。

 また、「ブラジル人の“魂のふるさと” 古都・サルバドールを特集 TV エンタメ YOMIURI ONLINE(読売新聞)」でも、予告編的な番組紹介がされていた。上掲の紹介と情報的に重なることを承知の上で、一部、転記させてもらう:

 サルバドールは、かつてサトウキビ産業で潤った町。カラフルなコロニアル建築の豪邸やきらびやかな教会が往時をしのばせるが、それを支えたのは、アフリカから船で連れてこられた奴隷たちだった。
 そんな彼らが生み出したのが、サンバの原型にあたる音楽。番組では、アフリカ系ブラジル人が400年以上もの間、弾圧をかいくぐりながら続けてきた儀式を紹介。太鼓が奏でる神秘的なリズムの中に込められた彼らの思いを伝える。
            (2007年6月11日 読売新聞)

 詳しい歴史など知らなくとも、欧米人の手でアフリカの大地から数知れない黒人たちが南北アメリカ大陸に強制的に連れてこられ、奴隷として働かされ、多くが短い生涯を敢え無く終えていったことは知っている。
 短い生涯というのは、朝から晩までどころか寝る間をも惜しんで(惜しむのはポルトガル人である!)強制労働され、あまりに過酷な労働条件や環境だったため、労働できる年月が十年に足りなかったからである。
 こうした歴史は、大航海時代の昔から少なくとも19世紀まで続いた。
 今は、こうした歴史にこれ以上、言及はしない。
奴隷 - Wikipedia」など参照のこと。
 南米大陸へ黒人の奴隷を運んだのは、スペインでありポルトガルなどだった。
 ブラジルは、ポルトガルの使役により、原住民ではなく奴隷を使って開発された。
 この歴史も今は深入りしない。
ニッポ・ブラジル 3世紀に渡る奴隷制度」など参照。
 当然、船で黒人たちは運ばれたのだが、まさに荷物であり、丸太のように詰め込まれて運ばれたと番組では説明されていた。

 上掲のサイトにもあるように、「一方、ポルトガル人に仕えていた奴隷たちの生活は苦しかった。彼らは暗い小屋に住み、残飯を食べさせられていた。鎖で繋がれ、作物の収穫が思うようにいかなかったり、態度が悪かったりすれば暴行を受けた。労働は夜中まで休みなく続いた。そんな中、ほとんどの者は8年もたたないうちに死ぬか、もしくは病気になり働けなくなってしまった」のだった。
 さて、サルバドールは、ポルトガルによる黒人奴隷酷使の象徴たる町である。世界遺産となった町の表向きは瀟洒で美しくもある。
 けれど、一歩奥へ足を踏み入れると、スラム街化した旧市街地が広がっている。薬物依存の人々。路肩で寝転がる女。親の分からない子供たち。親に捨てられた子供たち。4人に1人は仕事がないという。そんな状態が何十年も続いている。

 そんな中、サンバのミュージシャン(パーカッショニスト)として若い時代を生きた初老の男(黒人? メスティーソ? ムラート?)に番組の焦点が合わせられている(60歳ほどの彼、風貌が実に味がある!)。
 彼は四十歳の頃、プロのミュージシャンをやめ、さまざまな仕事の手伝いをして生活を送りつつ、親のない子供たちを引き取って育てている。
 子供たちは、彼の庇護のもと、サンバの音楽で<家族>としての仲間意識を持つ。サンバはまさに心の糧(かて)であり、家族の絆の象徴なのである。
 子供たちを捨てた親の二の舞にさせるわけにはいかない…。彼自身、定職を持たない身なのだけれど。

 ブラジルでのサンバカーニバル参加の条件は厳しい。参加を希望するチームが多いしレベルが高い。
 その上、年々、カーニバルが観光志向となり華やかさを増していく。

 毎年、カーニバルに参加していた彼の子供たちのチーム(バテリアのみのようだ)は参加できるかどうか危なくなる。頑張っている子供たちだが、華やかさには欠けるのは目に見えている。
 彼はカーニバルの主催当局に直談判する。
 子供たちは参加できるか難しいという話に衝撃を受ける。子供たち同士の間で話し合いが持たれ、とにかくおカネを稼ごう。稼いで<父さん>に必要な衣装の類いを買ってもらう。
 そして、町に出て演奏を街頭で披露して、道行く人の喝采を浴び、おカネを貰ったりする。
 楽器も古びているのだが、稼いだおカネで白く塗りなおして化粧する。衣装も新調。打楽器の演奏だけじゃなく、彼は歌も披露することに決めた(あるいは、カーニバル主催当局の要求だったのかな)。マイク(拡声器)を使って歌を歌う。壊れたマイクの修理も自前だ。

 そうそう、ドラム缶を活用した(と外見では思える)スルドを叩くマレットはフラフープをちぎったもの。例のパーカニッショニストで子供たちの指導者(預かり手)となっている小父さんの発案。カメラの前で自慢げに(?)フラフープやマレットを見せていた。

 なんとか、カーニバルへの参加が叶う(といっても、綺麗な町での表立ったカーニバルではなく、スラム街(旧市街)をパレードするという形で。

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→ ドミニク・アングル『オダリスクと奴隷』 (1840) (画像は、「ドミニク・アングル とは」より)。小生の部屋には、何度かの引越しにも関わらず、アングルの「泉」の布地の複製ポスターが貼ってある。1981年のアングル展で購入したのだった。見飽きない(「オシアンの夢…目を閉じてこころ澄ませて聴くケルト」参照)! ところで、この画像で、奴隷はどれ? どの人が奴隷?

 やがて、カメラは、サンバの原点への旅をする。
 サルバドールのとある場所には特別な場所がある。
 アフリカから連れてこられた黒人たちは、それぞれに信じる神が違う。
 そこで、その特別な場では、さまざまな神への祭壇が随所に設置されている。
(露天の石か土製の神棚といった雰囲気の祭壇が個別の宗教毎に用意されている。)
 その場では、信仰上の背景の違う人たちが一緒になってアフリカへの、アフリカの大地への思いを致す場所なのである。
 その宗教(的儀式)の名は、「カンドンブレ」。

カンドンブレ(candomble)は、ブラジルの民間信仰のひとつ。主に低所得者層と中産階級から信仰されている。中心地はバイーア州」である。
カンドンブレという言葉は、プランテーションで働かされていた奴隷たちの宗教的舞踊「カンドンベ」と家を意味するヨルバ語「イレ」をつなげた造語」であり、「ハイチのブードゥー教やキューバのサンテリアなどはカンドンブレの仲間である」という。

 特殊なテンポの音楽が奏でられる。楽器は単純な作りの打楽器のみ。
 単調なリズム(4分の2拍子?)の音楽が延々と奏でられ、最初は静かな踊りの輪があるばかり。
 そのうち、踊りの輪の中の一人の女性が神がかり状態になる。憑き物が憑いたのだ。そんな女性は神が憑いたものと看做され特別な存在として扱われる。
 その女性は、不可思議な踊りを踊りだす。まさにサンバの原点とも言うべき踊り。
 その不思議な祭りが佳境に差し掛かったところで、カメラ撮影は禁止される。
 神聖な時であり場なのである。
 この祭りを通じて、アフリカがルーツである人々の魂の賛歌が奏でられ、遠いブラジルの地にあって、アフリカの大地と繋がる。空も風も木の葉も人も大地もアフリカになるのだ。先祖と一緒になるのだ。
 あるのは素朴な打楽器のみ。

「カンドンブレ」については、「カンドンブレ - Wikipedia」や「カンドンブレ」(ホームページは、「ブラジルの魔術と民間信仰」)

 そもそも黒人奴隷たちは、主人たるポルトガル人のカーニバルに飛び入り参加する形でカーニバルの味を覚えたのだ。異教(キリスト教=カトリック)の祭りたるカーニバルに黒人たちの輪が次第に色濃く加わっていく。
 ポルトガル人の祭りを楽しむ様子を見て、黒人たちも厳しい監視の目を盗んで、粗末な楽器(楽器とも呼べない楽器)だけを伴奏に歌い踊ることを覚えていく。
 そうしてやがてブラジル人の祭り、サンバカーニバルが誕生するわけだ。
(小生は「サンバ」の語源を知らない。「サンバ (アルゼンチン) - Wikipedia」によると、「サンバ(zamba) はアルゼンチン北西部の6/8拍子の民俗舞曲である。ペルーのサマクエカ(zamacueca、現在はマリネーラと称する)を起源とする踊りで、ボリビアとチリのクエッカと同一系統である。ブラジルのサンバ(Samba)とは、語源に関連性はあるかもしれないが、まったく異なった音楽である」というが、機会があったら、調べてみたい。ただ、「サンバ」とサンバの故郷の地である「サルヴァドール」と語感的に無縁ではないような気もするが、ま、気のせいだろう。)
 
 サンバの音楽の基本がバトゥカーダ(Batucada――打楽器のみの構成によるサンバ)なのも、ここにサンバの、黒人奴隷の音楽の原点があるからなのだろう。
 音とリズムと歌と踊りの狂想。

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← 「YIDFF(山形国際ドキュメンタリー映画際) カタログ YIDFF2001公式カタログ 主人の館と奴隷小屋」(監督:ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス/提供:ビデオフィルメス)

 番組を見ていて、何度となく胸にこみ上げるものがあった。
 かの焦点を合わせられていた黒人の男のせいだろうか、男に養われながら健気に生きる子供たちの姿のゆえだろうか、黒人奴隷の悲惨な歴史の故だろうか、今もスラム街であり、「貧困地域では公衆衛生が問題となっている。約三分の一の住民の家は下水道も浄化槽も整備されて」いない現実にだろうか、それとも、打楽器の音楽なのに何処か物悲しいサンバの音楽自体の呪力の故だろうか。
 サンバカーニバルのテーマのこと、いつかは俎上に載せたいと思いつつ果たせないでいる。日本でもサンバのシーズンが始まりつつある(助走期間としてのサンバシーズンは年中だが)。
 近いうちに序論的な試みくらいはやってみたいものだ。

 なお、この番組を見て感想を書かれているブログはほとんど見つけられなかった。
 それだけに、「Libro,Musica,Planta Ver2.1 サンバの源流」なるブログががとても参考になったし、情報の裏付けと支えを貰ったようで心強かった。

 ネット検索していて、「よろずブラジル関連情報をお伝えします」という「Radio Brisa Brasileira」なるブログを発見した。
YIDFF(山形国際ドキュメンタリー映画際) カタログ YIDFF2001公式カタログ 主人の館と奴隷小屋」(監督:ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス/提供:ビデオフィルメス)なるサイトを発見。


[関連記事に、拙稿「『アフリカの音の世界』は常識を超える!」(の末尾注目)があります。(8/8追記)]

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昨日のNHK世界遺産の旅は、ブラジルのサルバドール。 ごく個人的な印象だが、東京の街をいくら古地図と比べてみても 江戸の町はもはや現実味のない「異次元の世界」としか思えない。 いっぽう、サルバドールは大航海時代の面影を色濃く残し、 その魅力的な街並みを単純に羨ましく感じてしまう。 しかし、明るく華やかなカーニバルと対照的な裏通りの荒んだ光景は ブラジルという国の歴史をそのまま表しているようで興味深い。 番組では、奴隷船の到着地であり、サンバ発祥の地でもある サルバドールの歴史を丁寧に描いていた。 ... [続きを読む]

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