『レオナルド・ ダ・ヴィンチの手記』をめぐって
十数年も前に買って、初めて読んだのは数年前だったろうか。本書、『レオナルド・ ダ・ヴィンチの手記 上』(杉浦明平訳、岩波文庫刊)は、読むのに難しいわけではないはずなのだが、実際には、読みきるのはとても難しかった。
数年前に読んだ時も、無理矢理読み通した記憶がある。中身はほとんど頭に入らなかった。しかも、読んだのは上巻だけ。
← 『レオナルド・ ダ・ヴィンチの手記 上』(杉浦明平訳、岩波文庫刊)
上巻は、序に加えて、人生論、文学、「絵の本」からを、下巻は、科学論、技術、手紙とメモを収める。
例によって出版社の謳い文句を:
「ルネサンスの偉大な芸術家,科学者であったレオナルドの手記.上巻には『人生論』『文学論』『絵画論』を,下巻には『科学論』を収める.そこには人生に対する箴言あり,寓話笑話文学に対する批評あり,「モナ・リザ」の絵を生みだした陰影と遠近法の研究や『解剖学』などの科学記録もある.彼の偉大さはすべて本書の中に圧縮される.」
但し、小生の所有する本は、1985年の印刷となっていて、謳い文句も、「芸術家、科学者としてのレオナルドの偉大さは総て圧縮されて本書の中にある。上巻はそのうちの人生論、文学論、絵画論を収める。」とある。簡潔である。
確かにその通りなのだ。また、文章が難解というわけではない。しかし、例えば、上巻の人生論を読んでいて、こんな命題が延々と続くとなると、読むほうはうんざりする:
真理こそ時のひとり娘であった。
最高の幸福は不幸の総元締、智慧の完成は愚鈍のもと。
経験のうちに存しないものを経験から期待するのは道理にはずれている。
同じ眼でながめた対象があるときは大きく、あるときは小さく見える。
ささやかなことから重大な破滅が生れる。
確かにそれぞれに、半面の真理は言い当てているだろうけれど、でも、時と場合によるんじゃないの、と、身の程知らずかもしれないけれど、つい、突込みを入れたくなる。
ただ、そんな中でも、
十分に終りのことを考えよ。
まず最初に終りを考慮せよ。
こんな命題を目にすると、何か意味深に思えて、この命題について何かしら敷衍したくなる。例によって、松岡正剛氏が、千夜千冊の中で、本書を扱っている。
さすがの松岡氏も本書には苦労したようで、あまり語ることもないのか、比較的記述が淡白で通り一遍なような気がする(実際、記述も短い)。
その中に、「十分に終りのことを考えよ。まず最初に終りを考慮せよ。」という言葉に言及されているのである。詳しくは上掲のサイトをどうぞ。
あるいは、これまた人口に膾炙した表現だが、「経験は決して誤らない」というテーゼ。
これはいろんなところでいろんな形で援用されている。弁の立つ人なら、このテーゼに則って、相当程度にあれこれ論を練ることが可能だろう。
小生が本書を買った頃は、小生の美術熱が再発した頃だった。美術館通いもピークに達しようとしていた。だから、ダ・ヴィンチの絵画論を著した手記ということで、すぐに購入した。そして読もうとして挫折してしまった。
今度、三度目のトライで、人生論は相変わらずきついものを感じたが(それでも懲りずに丁寧に読んだ)、絵画論はじっくり読めた。ダ・ヴィンチの観察家ぶり、そして自らが絵画に科学的な研究を踏まえて描いた、その雰囲気を少しは味わえた気がする。
それは、ネットを通じて、実際に絵を描いている人と知り合いになったので、まるで自分が画家にでもなった気分=当事者の気持ちを汲むことができたからかもしれない。
ところで、これは有名な話、けれど、その話を何かの記事で読んだだけで、気になりつつもニュースソースも確かめないでいた話がある。
それは、かの「モナリザの微笑」について、そのモデルは誰かという問題に関連する話である。昔からモデルについてはいろいろと忖度されてきたが、その中で、<モナリザは、ダビンチが女装して鏡に映した自分自身>という説が唱えられたことは知る人も多いだろう。
下に示すサイトでは、「或る女性シャンソン歌手による『レオナルド・ダ・ビンチ研究』という論評考察」に由来する説となっている:
「私なりの『レオナルド・ダ・ビンチ研究』・・・モナリザ」:梅原保夫氏
が、小生の記憶では、欧米のある方がコンピューターを駆使した画像解析から、この「モナリザ」は、レオナルド自身なのだと結論付けたという話だったように記憶する。
それはともかく、この説に限らず、こと、ダ・ヴィンチ(の「モナリザ」論)に限っては、上掲のサイトのほうが読み応えがある。
本書(上巻)の末尾に、ダ・ヴィンチが自然、特に嵐や洪水を描くという部分がある。他の記述に比べてかなりセンテンスも節も長い。上掲のサイトにもあるように、レオナルドには、「静かな自然を描くという気持ちは無く」て、何故か、洪水などを執拗丁寧に描こうとする。
それは、梅原保夫氏の言うように、「「風雨の痕跡」を残した大地の、ほんの短い穏やかな時間を、彼の「人間の自然との関わりと自然現象の追求」‘画家は自然を相手に論争し喧嘩する’〈嵐の風景素描〉(右)を同様に重ねながら、遠い未来の人類の存在をも予言しているように描いている」からなのだろうか。
ところで、同じく上掲のサイトにも画像が載っているが、「聖アンナと聖母子」像については、フロイトによる詳細な分析があることは有名だ。「レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期の記憶」である。
「聖アンナと聖母子」像を眺めると、手前の赤ちゃんを抱き上げる女性のグレーっぽい衣服が、なんとなく画面から浮いているように感じられる人もいるだろう。フロイトの分析はそこに着眼しているのだ。
この点について、小生は下手な案内はしたくない。是非、フロイトの分析を読んで欲しいと思うだけである。
[ 03/09/25付けメルマガにて公表済み。旧稿であり、「肉体なる自然を解剖しての絵画教室!」なる記事を書く過程で関連記事を探している中で偶然、未アップの本稿を見つけたもの。今更、「無精庵徒然草」に載せるのも気が引けるので、元々は書評エッセイの館であったこの館に収蔵することにした。 (07/03/29 アップ時記)]
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