愛のルビコン
愛というのは、薄闇の中に灯る蝋燭の焔という命の揺らめきをじっと息を殺して眺め入るようなものだ。溺れ浸って、思わず知らず興奮し、息を弾ませた果てだろうと、蝋燭の焔を吹き消してはならないのだろう。
そう、じっと、焔の燃える様を眺め、蝋燭の燃え尽きていくのを看取る。
それは、まるで自分の命が静謐なる闇の中で密やかに滾っているようでもある。熱く静かに、静かに熱く、命は燃え、息が弾む。白き肌というメビウスの輪のある面に沿って指をそっと滑らせていく、付かず離れず。
すると、いつしかまるで違う世界にいる自分に気が付く。見慣れないはずの、初めての世界。なのに慕わしく懐かしい世界。愛撫という沈黙の営みを通じて、人は自分の世界を広げ深めていくのだろう。何も殊更に声を上げる必要などないのだ。
気が付けば蝋燭の火も落ちている。命を燃やし尽くして、無様な姿を晒している。けれど、冷たい闇の海の底にあって、己の涸れた心に真珠にも似た小さな命が生まれていることに気付く。蝋燭の焔の生まれ変わり?
愛とは蝋燭のようなもの。我が身を燃やし灰になってでも誰かのために生きること。
……でも、叶うなら煌きのままで生きつづけたい。
そんなことはどうでもいい。大切なのは、愛するとは、何時か何処かで生まれた魂の命の焔を静かに何処の誰とも知らない何者かに譲り渡していく営みだということに気付くことだ。
愛とは、自分がその絆そのものであることの証明なのではなかろうか。
宇宙の永遠の沈黙。それはつまりは、神の慈愛に満ちた無関心の裏返しなのである。
神の目からは、この私も貴方も、この身体を構成する数十兆の細胞群も、あるいはバッサリと断ち切られた髪も爪も、拭い去られたフケや脂も、排泄され流された汚泥の中の死にきれない細胞たちも、卵子に辿り着けなかった精子も、精子を待ちきれずに無為に流された卵子も、すべてが熱く、あるいは冷たい眼差しの先に厳然とあるに違いないのだ。
私は風に吹き消された蝋燭の焔。生きる重圧に押し潰された心のゆがみ。この世に芽吹くことの叶わなかった命。ひずんでしまった心。蹂躙されて土に顔を埋めて血の涙を流す命の欠片。そう、そうした一切さえもが神の眼差しの向こうに鮮烈に蠢いている。
蛆や虱の犇く肥溜めの中に漂う悲しみと醜さ。その悲しみも醜ささえも、分け隔ての無い神には美しいのだろう。
私は融け去っていく。内側から崩壊していく。崩れ去って原形を忘れ、この宇宙の肺に浸潤していく。私は偏在するのだ。遠い時の彼方の孔子やキリストの吸い、吐いた息の分子を、今、生きて空気を吸うごとに必ず幾許かを吸い込むように、私はどこにも存在するようになる。私の孤独は、宇宙に満遍なく分かち与えられる。宇宙の素粒子の一つ一つに悲しみの傷が刻まれる。
私は偏在する。そのことに目覚めさせてくれたのは、貴方だ!
蝋燭の焔は真っ暗闇の中で何を浮かび上がらせるのだろうか。そもそも闇の中でポツンと立つ蝋燭が何かを照らし出したとして、それが何か意味を持つのだろうか。誰もいない森の中で朽ち果てた木の倒れる音というイメージと同じく、誰も見ていない闇夜の地蔵堂に立てられた蝋燭の焔の影も、ある種、夢幻な世界を映し出していると、ほとんど意味もないレトリックを弄して糊塗し去るしかないのか。
真夜中の病室。隣り合う人たちも、ようやく眠りに就いている。看護の人も先ほど見て回って行ったばかりである。そんな中にあって、夜の深みに直面して、何を思うだろうか。過ぎ越した遠い昔のこと、それともあるかないか分からない行末のこと、もしかしたら信じている振りを装ってきた来世のこと。消え行く魂の象徴としての、吹きもしない風に揺れる小さな焔なのかもしれない。
焔とは魂の象徴。だとして、それは一体、誰の魂なのか。自分の魂! と叫んでみたいような気がする。不安に慄き、眩暈のするような孤独に打ちのめされ、誰一人をも抱きえず、誰にも抱かれない幼児(おさなご)の自分の魂なのだ! と誰彼なく叫びまわりたい気がする。
許されるなら、体の自由が利くのなら、今すぐにもベッドから飛び出して、非常灯からの緑色や橙色の薄明かりに沈む長い長い廊下を駆けて行きたいと思ったりもする。
あああ!
叫べるものなら!
できはしないのに。そんなことができるくらいだったら、とっくの昔にやっていることなのだ。胸の内の情熱の焔(ほむら)は誰にも負けないほどに燃え盛っている。なのに、誰に気遣い彼に気兼ねし、気がついたら焔は燻ったままに、肉体の闇からあの世の闇へと流されていく。水子のように。
一体、何のための人生かと思い惑う。ヘーゲルが言うように、「ミネルヴァの梟は、黄昏がやってきてはじめて飛び立つ」なのか。賢人でさえ、かのように言うのだ。凡愚の徒なら、末期の闇を見詰めるこの期に及んでやっと哲学する重さを感じるのも無理はないのだろう。
何があるのか。何がないのか。何かがあるとかないとかなどという問い掛けそのものが病的なのか。
闇の中、懸命に蝋燭の焔を思い浮かべる。そう、魂に命を帯びさせるように。それとも、誰のものでもない、命のそこはかとない揺らめきを、せめて自分だけは見詰めてやりたい、看取ってやりたいという切なる願いだけが確かな思いなのだろうか。
きっと、魂を見詰め、見守る意志にこそ己の存在の自覚がありえるのかもしれない。風に揺れ、吹きかける息に身を捩り、心の闇の世界の数えるほどの光の微粒子を掻き集める。けれど、手にしたはずの光の粒は、握る手の平から零れ落ち、銀河宇宙の五線譜の水晶のオタマジャクシになって、輝いてくれる。星の煌きは溢れる涙の海に浮かぶ熱い切望の念。
蝋燭の焔もいつしか燃え尽きる。漆黒の闇に還る。僅かなばかりの名残の微熱も、闇の宇宙に拡散していく。それでも、きっと尽き果てた命の焔の余波は、望むと望まざるとに関わらず、姿を変えてでも生き続けるのだろう。一度、この世に生まれたものは決して消え去ることがない。あったものは、燃え尽きても、掻き消されても、踏み躙られても、押し潰されても、粉微塵に引き千切られても、輪廻し続ける。
輪廻とは、光の粒子自身には時間がないように、この世自身にも実は時間のないことの何よりの証明なのではなかろうか。だからこそ、来世では誰も彼もが再会すると信じられてきたのだろう。
閉じ込められている? それはお前の勘違いだよ。お前を薔薇の園に招待してやっただけじゃないか。その証拠に青褪めたお前の肌が、無数の薔薇の花弁の色に変幻しているじゃないか。
その変わりっぷりこそが、もう、お前がこの世界に馴染み切ってしまっている、何よりの証拠。
そう、とりこになっているのは、オレのほうなのさ。
猿轡のような、それとも末期の時を恵むに違いない、首を絞めるに格好の白いシルクの布を外してやる。絶え絶えの息。喘ぎ。幾分、脹れ上がったようなその唇を静かに開いてやる。白い歯が零れる。
洩れる吐息が冷たい空気を溶かすようだ。
ああ、その頬。紅潮した肌のような花弁の輝き。
オレは慌てない。決して逃げない薔薇の園に咲き誇る花たちではないか。
柱に縛り付けられている? そんなことはない。お前は大地に根付いているのだよ。この世の滋養分を誰より貪欲に吸い上げているじゃないか。オレはただ、そのエキスをほんの一滴、舐めさせてもらえればそれでいいのだよ。
オレは、薔薇の花を覆っていたベールを剥いだ。すると、砂糖菓子のように甘く淡いピンクの花弁が、あるいは白くふっくらとした絹のような花弁が目に飛び込んでくるのだった。
オレは、指先でふっと息を吹きかけるように花弁に触れてみた。そう、蝶の羽で擦るように。すると、蝶の燐粉にも似た小刻みな震えでお前は応えてくれる。こんなにかすかなタッチだけでお前はそんなに悦んでくれる。この先は、一体、どうなってしまうのか。
オレは、指先を花弁から花芯へと滑らせていった。そのためには幾重もの花弁を押し分けていく必要があった。鍔を押しのけ、のけぞる茎を押さえつけ、撓る茎を撫で回し、無数の花弁の園を分け入った。
初めのやや白っぽい花弁が、興奮に上気したかのように淡いピンクになり、やがては大地の亀裂を思わせる底知れない深紅へとグラデーションを描く。
オレの指先は蜜を追い求める蜂の口先。それとも燐粉を払う羽箒。透明な黄金色の蜜がじんわりと、そしてやがては止めどなく満ち溢れてくる。もう、飲み尽くせないほどだ。オレの口元から蜜が垂れ零れる。お前の白い肌がねっとりと濡れそぼつ。
オレの切っ先が花芯を何処までも抉っていく。湧き上がる熱い泉の精がオレを真っ赤に染め上げる。
ああ、花芯の色は、お前の心臓の色だったんだね。だからこんなにも懐かしいのだ。涙より熱い真っ赤な液体が噴き上げる。ああ、薔薇の酒だ。血の味のする蜜の酒だ。オレの切っ先がさらにお前を切り刻む。すると出来上がるのは、肉厚の花弁を浮かべた醍醐の酒だ。蜜と血とオレの情熱とが捏ねられて、この世のものとは思えない濃密な苺ジャムになる。身がタップリだ。
末期の喘ぎは至上の音楽だ。断末魔の叫びほどに神への祈りに近い音楽がありえようか。そう、この肉の奥の白鳥の歌にも似た妙なる震えにこそ、静寂を破る資格があろうというものだ。
オレの饗宴は終わった。たっぷりと残った今はゼリーと化した薔薇の花弁どもは、薔薇の園に埋めた。
そう、またの日の饗宴の豪奢な寝床となるために。
けれど、埋められたのは一体、誰なのか。
風に舞う木の葉と比べてさえ、私は見るべき何物でもない。
それほどに神様の目は、地上を、世界をとことん平等に見つめている。私が私である必要など、何もないのだ。土や埃や風に成り果てたって、気付かないに違いない。
ああ、私は触れたい。何か、生きるモノに。触れて欲しい、血汐の滾る何物かに。
人間に触れたい、触れて欲しいなどと贅沢は言わないから。
そうじゃない。私は触れて欲しいのだ。あの人の腕に抱き締められたいのだ。息が出来ないほどに…。快感に痺れて気を失うほどに…。喉の奥の奥まであの人で満ちて息絶えたい…。
でも、気が遠くなるほどに脳髄は動いてくれない。心が朽ち果てて、まるでそよとも風の吹かない夏の日の昼下がりのようだ。
寂しさの果ての眩暈のする白い一日。
気が狂わないでいるためには、悲しさを粉微塵に砕いてしまうしかない。それが叶わないなら、せめて凍てついた心を終日、爪で引っ掻いていよう。
私が生きている実感とは、ガリガリというその感覚のこと。
あの人が通り過ぎていった私。
私とは、透明すぎる闇なんだ。
いつしか勝手な妄想が湧いてくるのだった。彼女はこちらの存在に気が付いている。こちらを意識して、敢えて描くポーズを取っている。闇の海の底にあっては、目の不自由な人のほうが、はるかに自由に自在に泳ぎまわることができる。
むしろ、足取りも覚束なくなるのは、なまじっか肉眼に頼るこちらのほうなのだ。彼女はひたすらに闇の世界に沈潜し、闇に対面し、胸のうちから命の結晶、それとも魂の囁きだけが放つことのできるこの世ならぬ煌きを愛でている。
それは遠い天空からの透明な紙に、葉裏を伝う朝露の雫というプリズム越しにこそ焦点の合う文字で綴られた手紙。彼女だけが読むことの叶う闇の銀河宇宙の星の連なりの織り成す、不可思議の造形。
星屑とは、魂の奏でる妙なる音色の結晶なのだ、という直感があった。遠いはるかな世界において行き倒れた誰かの末期の吐息が、絶対零度の宇宙においてその吐かれた息の形のままに凍て付き、時に無数の吐息の塊同士がぶつかり合って、火花を散らし流れ星となり、心の闇の片隅を一閃していくのだ。
彼女に出会うには、こちらも目を閉じなければならない。肉眼を諦め、魂の熾火(おきび)の囁きにひたすらに耳を傾けなければならない。何もかもを捨て去り、見栄を捨て、真っ裸になって、恥も外聞も忘れ果て喚き散らさないと会うことは叶わないのだ。
孤閨を託つ彼女。が、何も見えなければ、誰にも見えなくなっているのは、実は自分なのだ。なのに、肉眼の世界で右往左往して日々を糊塗している。
(何も見えないんだよ)
そう、心から訴えかけたいと思った。彼女は、そんな裸の姿を見抜いているのだ。寒々しく貧相な姿を哀れんでいるのだ。そんな姿を見透さんがために、彼女は自ら肉の目を失ったのだ。
蝋燭の焔がゆらゆら揺れていた。風があるのだろうか。それとも蝋燭が燃え尽きようとしている? 命が風前の灯火となっている? 彼女の? それとも、消え去りつつあるのはオレの命のほうなのか。
そんなことはどっちでもいいのだ。オレと彼女とは一心同体なのだ。彼女が立ち去ったなら、オレの命など、何ほどのものなのだ。
蝋燭の焔はますます揺らぎが激しくなってきた。彼女の横顔が暗闇に時に鮮烈に時に曖昧に浮かび上がっていた。せめて一度でいいから、こちらを向いて欲しい。オレを描いてくれているというのなら、こちらを向かないでどうするというのだ。
それともやはり描いているのはオレではないというのだろうか。
あるいは、オレは彼女の描く絵の中に辛うじて生きている?!
そんな!
焔はついには燃え尽きようとしていた。蝋も芯も彼女の気持ちさえもが萎え切ってしまいそうだった。オレは、(助けてくれ!)と声を張り上げた。
いや、張り上げたつもりに過ぎなかった。
その瞬間、オレは目が覚めた。そこは闇の海のはるかな奥底だった。
寂しさをトコトン味わうことなしに愛など分かるはずもない。
横溢する愛。
そんな世界など信じられない。あるはずがないと思っていた。
思っていたのに。
それでいいのだと思い、透明な闇の海で静かに暮らせていたのに。
そんな自分に貴方は愛という嵐をもたらした。
それは世界が燃え上がるような劇薬だった。
← ベリーダンスグループ『F.E.BABYLON』の皆さん <出演> ありがとう!
自分の殻が身から引き千切られるような痛み。胸の焦がれるような苦しみ。
その痛みにも引き合うような愛?
慣れ親しんだ甲羅を取っ払って、遮るもののない日の光に身を晒して、それで生きていける?
こんな自分に愛を信じさせることが出来るだろうか?
違う!
賽(さい)は投げられたのだ!
愛というルビコン川を渡るのは自分のほうなのだ!
[画像は、Kaw Charlieさんの「2007 Feb. "F. E. BABYLON" at Like It, Shibuya」からのものです。同氏のホームページは、「Charlie K's Photo & Text」です。<出演>してくださったのは、ベリーダンスグループ『F.E.BABYLON』の皆さんです。例によって、画像と本文とは、一切、関係ありません。]
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