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2006/11/13

花小金井パレード番外編:地上の熱帯魚たち

 以下の素晴らしい画像群は、お馴染み「Charlie K's Photo & Text」サイトの、「HANAKOGANEI SANBA FEASTA 2006.7.23」及び「HANAKOGANEI SANBA FEASTA 2006.7.23」から借りさせていただきました。
 地の文は拙文です。画像と文とのコラボ…と言いたいところですが、モデルさんたちの圧倒的な存在感と熱気を捉えた画像には敵いません。

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 モデルのパシスタさんたちは、ほとんどが我がサンバチーム・リベルダージG.R.E.S.LIBERDADE)のメンバーです。
 本文の中で写っている誰かは、足に怪我をしていたのだとか。
 でも、パレードでも画像からも、そんなことは全く分かりません。
 根性と情熱と踊る喜びの為せるわざなのか。

 花小金井パレード番外編:地上の熱帯魚たち


 笑顔とは、現実の断固たる肯定、生きてあることそれ自体の賛歌、生きているそれだけで湧き上がってくる期待、あなたはあなたであるだけで素晴らしいのだ、受け入れられているのだ、という心の抱擁、目に見えない陽光の集約、自由の賛歌、そういったことのすべてである。

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 サンバというと、笑顔に尽きる、それも極上の笑顔こそが御馳走なのだと思う。しかも、相手を選ばないこと。老若男女を選ばない、体の不自由などが相手にあっても、心の翳りをどこか宿しているような人が目の前にいても、心の底からの笑顔で持て成す。
 生きていること、そう、ただ、そのことだけが、そのことだけでもって祝祭でありえること。
 そのことを、満面の笑顔が、躍動する肉体が示す。
 踊りも歌も演奏も、そのすべてが生きていることの、無条件の肯定という一点に向かって奏でられ歌いこまれ捧げられる。

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 他の音楽ジャンルの世界だって土俗性に満ちていたりとか、大地と接する感覚、土を裸足で踏み締め、ありあわせの、まさに間に合わせの楽器とも呼べない木の棒や杖などで木の幹や鍋やバケツや空き缶を叩く、擦る、撫でる、道端の砂利をギュッギュッと鳴らすような、そんな原始的な要素がプンプンしている音楽もあるのだろう。
 が、音楽性や演奏の技術の洗練度は、これは上限がないのは、他のジャンルもサンバも同じで、演奏や歌や踊りに携わる方の努力や才能に依るのだろうが、どこまで高い技術を獲得したとしても、土の感覚を忘れないのがサンバなのではないかと、小生は勝手に思い入れしているのである。
 大地を踏む、大地と戯れる、大地に寝そべる、大地に抱かれる、大地の上で目一杯の演技をする、大地の上で飛び跳ねる、男女が交歓する、音と踊りの交響を演じる、人と人との、日常においては余儀なくされている分け隔てを、束の間の一時(ひととき)であっても、取っ払ってしまう。誰もが一つの時間と空間と歓喜を共有し享受し合う。

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 人は、一人で居る限り、対話など要らない。二人が絡み合って一つの肉体となったならば、どんな賛美の言葉も歓びを現す明確な表現も不要。そもそも言葉などなくたって、ここに閉じ篭っている限り、単に生きている限り、互いの息遣いを重ね合わせている限り、困ることもない。
 心のうちに浮かぶ哀切なる情念も、その人の波と潮の満ち干きに身を任せていればいい…。その人の白いお腹の起伏は、まるで潮の起伏はそのものようだ。裸のお腹が薄さ寒い蛍光灯の光に震えている。そっと撫でてみる。びくっと動く。目覚めたの?
 緑なす木々の放つ、心に染み入る生命感。他人のいない世界での、二人だけの心安らぐ世界。たとえ、今、感じている感激を世界の誰と分かち合うことが出来ないとしても、そんなことの何が問題なのか。

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 遠い世界にいるはずの誰か。その人以外の誰とも、悲しみも歓びも伝え合うことも、慰めあうことも出来ないとして、もう、そんなことはいいではないか。ここに一個の世界がある。ちょっと孤独ではあるけれど、甘い孤独、蜜の孤独。お前の蜜が、真率な思いが募って溢れ出しそうだとしても、今は情の流れ出すに任しておくのがいいのだ。
 カモメだろうか、海鳥の鳴く声がする。気のせいだとは分かっているけれど、二人の空を白いカモメが舞い戯れている。ギャーという喚き声。なんてあられもない。それでいて、悲しいような、それとも歓喜に咽んでいるような。
 鳥達は決して一羽では空で戯れない。鳥達は宵闇に何処からか現れて、ブーメランの形に、あるいは幾重もの山の形にと変幻を繰り返し、やがて何処へともなく飛び去っていく。あいつらは、何羽もが集まって一塊になっている。もしかしたら、奴等は集団になることで、一個の生き物なのかもしれない。

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 生きているとは、肉体が生きていること、脳味噌の出来とか、社会の中での役割に見合った程度の断片化された身体などに制約されるのではなく、そんな逆立ちした後ろ向きの人間性に縛られるのではなく、まさに丸ごとの人間。頭も胸も腰も腕も脚も、とにかくあるがままの肉体の全てをそのままに、今、生きている地上において神や天や愛する人や知り合った全ての人に曝け出すこと、それがサンバなのではないか。

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 全ては過ぎ去る。だからこそ、人は、生きて、新たな手応えを求める。過去の充実は、熱い。その熱さに感懐深く浸るのも時には構わないのだろう。しかし、自分に多少でも新たな舞台への挑戦の意欲があるのならば、一層、痛切な過ぎ去り行く時間の残酷を予感しながらも、現実のステージで新たに何かを成し遂げたいという欲求を呼び覚ます。

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 為政者の思惑、カーニバルやパレードをイベントとして、何かの呼び物として利用しようというマスコミや商店街の思惑、観客として女性の裸体に近い体を眺めて楽しみたいという観客の欲望、踊る男性の弾む肉体を堪能したいという欲望、そうした一切の思惑をはるかに超えて、ひたすら生きる喜び、共に今を共有する歓びを確かめ合いたい、そういう肉体の根源からの歓喜の念こそが、何ものにも優るという発想、それがサンバなのだと感じる。
 踊れる者も、踊れない者も、観る者も、観られる者も、支配したいと思うものも、支配の桎梏を脱したいと思うものも、すべてが肉体の歓喜に蕩け去ってしまう。

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 ダンサーの方が、裸足で踊っている最中、どんなことをイメージしているのか、小生には分からない。アフリカの大地なのか、あるいはブラジルの大地なのかもしれないし、いや、日本の何処かの土の色の見える大地なのかもしれない。
 あるいは、そんなことの一切は、まるで見当違いであって、大地というより、この世界、この宇宙そのものをイメージしているのかもしれない。それとも、大地から宇宙へ至るエネルギーの通路としての自らの体を意識しているのであって、踊るとは、そのエネルギーの充溢と発散のことなのかもしれない。つまりは、自在に動く体への喜びなのかもしれないし、自らの肉体と大地や世界や宇宙との交歓そのものを実現させているのかもしれない。

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 むしろ、時に体をしなやかにくねらせるダンスを眺めながら、アフリカの乾いた草原を豹かライオンのような猫族の猛獣が、特に獲物を狙うでもなく、ただ足音も立てずにのし歩く、その様を想ってみたりしただけだ。白っぽい土煙。吹き抜ける熱い風。何処か血生臭かったりする大気。容赦なく照り付ける太陽。影と日向との輪郭が、匕首よりも鋭い大地。
 肉体。人間は、どうしても、モノを想う。思わざるを得ない。言葉にしたくてならない。言葉にならないことは、言葉に縋りつくようにして表現する奴ほど、痛く骨身に感じている。でも、分かりたい、明晰にこうだ! と思いたい、過ぎ行く時を束の間でもいい、我が手に握りたい、零れ落ちる砂よりつれない時という奴に一瞬でもいいから自分が生きた証しを刻み付けたい、そんな儚い衝動に駆られてしまう。

 
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 でも、肉体は、肉体なのだ。肉体は、我が大地なのである。未開のジャングルより遥かに深いジャングルであり、遥かに見晴るかす草原なのであり、どんなに歩き回り駆け回っても、そのほんの一部を掠めることしか出来ないだろう宇宙なのである。
 肉体は闇なのだと思う。その闇に恐怖するから人は言葉を発しつづけるのかもしれない。闇から逃れようと、光明を求め、灯りが見出せないなら我が身を抉っても、脳髄を宇宙と摩擦させても一瞬の閃光を放とうとする。
 踊るとは、そんな悪足掻きをする小生のような人間への、ある種の救いのメッセージのようにも思える。肉体は闇でもなければ、ただの枷でもなく、生ける宇宙の喜びの表現が、まさに我が身において、我が肉体において、我が肉体そのもので以って可能なのだということの、無言の、しかし雄弁で且つ美しくエロチックでもあるメッセージなのだ。

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 言葉は単に言葉に終わるものではないのだ。人間にとって言葉はナイフが心臓を抉りえるように、心を抉りえる可能性に満ちた手段であり、まさに武器であり、こころの現実に実際に存在する物質なのである。
 しかし、その物質は、手に触れないで遠くから見守る限りはそこに厳然としてある。にもかかわらず言葉で、その浮遊する時空間から抽出しようとすると、本来持っている命も形さえも崩れ去り失われてしまう。
 …… ……
 何とか顔に、魂の上に圧し掛かる岩を跳ね除けようとする試みのエネルギーが物質的想像力と小生は勝手に思っている。魂は心有るものには、間違いなく現実にあるものと映る。木や石や机のように、人間にとって魂は、心は現実にある。物質(と称されるもの)以上に切なく、しみじみと(目にはさやかに見えねども)そこに厳然としてあるものなのだ。

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 月の光が、胸の奥底をも照らし出す。体一杯に光のシャワーを浴びる。青く透明な光の洪水が地上世界を満たす。決して溺れることはない。光は溢れ返ることなどないのだ、瞳の奥の湖以外では。月の光は、世界の万物の姿形を露わにしたなら、あとは深く静かに時が流れるだけである。光と時との不思議な饗宴。
 こんな時、物質的恍惚という言葉を思い出す。この世にあるのは、物質だけであり、そしてそれだけで十分過ぎるほど、豊かなのだという感覚。この世に人がいる。動物もいる。植物も、人間の目には見えない微生物も。その全てが生まれ育ち戦い繁茂し形を変えていく。地上世界には生命が溢れている。それこそ溢れかえっているのだ。
 …… ……
 自分が消え去った後には、きっと自分などには想像も付かない豊かな世界が生まれるのだろう。いや、もしかしたら既にこの世界があるということそのことの中に可能性の限りが胚胎している、ただ、自分の想像力では追いつけないだけのことなのだ。
 そんな瞬間、虚構でもいいから世界の可能性のほんの一端でもいいから我が手で実現させてみたいと思ってしまう。虚構とは物質的恍惚世界に至る一つの道なのだろうと感じるから。音のない音楽、色のない絵画、紙面のない詩文、肉体のないダンス、形のない彫刻、酒のない酒宴、ドラッグに依らない夢、その全てが虚構の世界では可能のはずなのだ。

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 お前は愛するという言葉が欲しいがゆえに肉体を投げ出した。
 誰がお前などに言葉をやるものか!
 そんな時、人間の言葉って何なんだろうと不思議に思う。それは生まれた時の、オギャーという泣き声の延長なのに違いない。息をすることそのものなのに違いない。幼児の話す言葉は、まるで息を吐くようにして吐き出される。むしろ、歓びの叫び、悲しみの吐息、喋れる快感の誇示、離れている誰彼への愛憎に満ちた呼びかけなのだ。
 笑い顔は泣き顔に似ている。泣くように笑う。笑うように泣く。下を向いていると、泣いているのか笑っているのか、見分けがつかない。笑うって、泣き叫ぶことの極まりなのだ。泣きじゃくるお前を見て初めて、そんなことに気がついた。
 そして言葉を発するというのは、生きていることの証し、息していること、息しえることの証しなのだ。

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 というより、もう、音声を伴う伴わないを別にして、話す言葉は生きていることの表現そのものなのだ。お前に愛を与えても、愛の言葉を与えないのは、そのせいなのだ。お前を抱くのは原始の命の響きを聴きたいからじゃないか。海の響きを懐かしむだめじゃないか。
 そう、だから言葉は肉体表現そのものなのである。言葉は肉体なのだ。身体そのものなのだ。仲間の肉体への呼びかけ、それが言葉なのだ。言葉が変容するのは、言葉が姿かたちを変えるのは、他人を意識している証拠なのだ。言葉の原風景としての吐息は、母への、仲間へ、世界への挨拶なのだ。
 受肉された吐息、それが言葉なのだ。二人には、原初の言葉としての喘ぎ声と獣の叫び、それがあれば十分じゃないか。
 さあ、もう一度、お前の弾むような肉体と息遣いを楽しませてくれ!

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