05エンコントロ(4)
5月29日に八景島シーパラダイス・野外広場にて催されたエンコントロ・ジ・アルモニアの画像集その4を提供する。画像提供にあたっての注意事項は、エンコントロ(1)の冒頭に記した内容に準じる。
例によって背景として書いてある文章は、一昨年、小生がサンバに夢中になった頃に書いたエッセイで、画像とは直接の関係はない。ま、画像だけでは白い余白が寂しいので、ちょっと埋めさせていただくものである。
その頃から以後、小生のサンバへの理解が深まったわけではないことに一抹の寂しさを覚える。
サンバに夢中になり始めた頃の文章で、当然ながら今の見解とは異なっている部分もある。また、サンバに当事者として関わっている方たちには、ちょっと理解が甘すぎるよ、とか、誤解が過ぎるぞ、とか、これじゃ偏見を振り撒くことになるぞ、などなどの印象を抱かれる方もいるに違いない。
それでも、恥を忍んで、当時のままの文章を掲げる。書くとは恥を掻くことなのだ(←ほとんど開き直り)。
ところで、ある方から我がチームに対し、我がチームの目指すものはという質問があった。その問い掛けへの返答を試みた方は一人だけだったのが残念な気がした。
無論、何を目指すかは各人の胸中に熱くあるのだろう。なにもそれを文章にする必要などないし、文章にしえないという考え方もあっていい。
でも、チームとしての理念とか目指すものは何かについての基本的見解はあっていいような。
まあ、面倒なことは言いっこなし。要は楽しめばいい。熱中できればいいのだし、ホームページを見ろよ、練習や日頃の浅草へ向けての準備など実際の活動を見ろよ、ということなのだろうか。
尚、画像は、この(4)以外も多少、残っているが、画像集としてのアップは今回限りとする。
サンバでのダンスに感じること(03/08/05)
別にサンバ論を展開しようというつもりはない。ましてブラジル論に踏み込むなど、小生の力量をはるかに凌駕するテーマで、齧るのも憚られる。
サンバパレードを観ての簡単なレポートは既に「サンバパレード観てきたぞ!」に書いたので、そちらを参照して欲しい。本稿では、あくまでパレードでのダンサーらの踊りなどを観ての単なる印象を語るのみである。
テレビで(それもニュースの一齣で)ブラジルのカーニバルを、そして浅草のカーニバルを観たことがある。小生のサンバやブラジルのダンスに関するイメージは、そうした断片的というのも恥ずかしいような映像を通して形成されたものに過ぎない。
今度、三度ほど、サンバパレードを観る機会を得て、少し、そこに実感が加わったとは言えるかもしれない。まだ、本場のものを観ていないではないかと言われるかもしれないが、とりあえずは今の段階で、ということで、簡単にでも印象をメモしておきたいのである。
サンバというと、男性の側からすると、あの派手な衣装がまず思い浮かぶ。特に女性の最小限の衣装しか纏っていないような、刺激的な衣装には、誰もが度肝を抜かれる。
下司な言い方をすると、裸同然の女性が男性の目の前で、卑猥な踊りを披露している、そんな受け取り方も出来ないわけではない。
小生はキャバレーには行ったことがないが、似たり寄ったりの衣装を着たような女性が、男性陣の前でこれでもかという激しい踊りを披露しているらしい。
なんだ、キャバレーでやっているようなことを、男性・女性、大人・子供を問わない観客の前で披露している。ある意味、キャバレーは観客(?)が限定されている分だけ、良識的だ…という理解の仕方だってありえないわけではない。
そう、カーニバルもパレードも、老若男女を問わない観客の前で、多くは若い男女が煌びやかな衣装を着て踊りまくり、楽器を鳴らしまくるのである。それだけはない。とにかくにこやかに、陽気に、心からの歓びを発散して、体の芯からのエネルギーを周囲に放射しているのだ。
決して絶やさない笑顔。老人だろうと子どもだろうと、目が合い、手が振られれば、近づいていって、握手したり、彼らの前でノペという一際激しいダンスを踊ってみせる。
[その後、握手などは禁止されているようである。]
そうした彼女ら・彼らを見て感じるのは、生きる喜びの心底からの発露であり、自分が生きているという喜びだけではなく、一緒に時間・空間を共有して生きていることの喜びの端的な表現なのだ。
ブラジルに限らないが、南米大陸は数百年に及ぶスペインやポルトガルなどの支配の歴史がある。また、黒人奴隷が移住させられ強制的に働かされた負の歴史の堆積がある。また、長く部族間の対立があったり、血生臭い歴史にも事欠かない。
そんな中で、サンバがいつしか、ブラジルの大衆の精神的統合の象徴のようにして生まれ育った面があるようである。
[一層、詳しいサンバの話は下記のサイトを参照のこと:
http://www.cruzados.info/caminhos/music/sanbanohanashi.html
悲しいかな、このサイトは既にアクセス不能となっている。 (05/06/10 補記)]
ブラジルは、白人に黒人に先住民族にと、いろんな背景と歴史を負った人々が混在している国なのである。奴隷としての辛い労働の日々の中で、唯一、祭りの時にのみ、全てを忘れて踊り歌い演奏し、生きる喜びを表現することができたのだ。
だからこそ、ともすると混沌とした要素が傍目には感じられて、しかも、そこには下層階級のあられもないような欲望や願望や激情などの発散がみられ、洗練と形式を踏み躙られるような感覚があって、一定以上の階級の連中の神経を逆撫でするようにも感じられることがあるわけだ。
そして、ボサノバなどに比べ、下等な音楽、下等な生の表現のように見なされたりすることに繋がるのだろう。
が、そもそも、誰もが参加しえるイベントである以上、着衣に気を払う余地など、もともとあるはずもなかったのではないか。というより、着衣は肉体の輝きを強調するためにこそあるのだという発想があるのではないかと思われたりする。
生きているとは、肉体が生きていること、脳味噌の出来とか、社会の中での役割に見合った程度の断片化された身体などに制約されるのではなく、そんな逆立ちした後ろ向きの人間性に縛られるのではなく、まさに丸ごとの人間。頭も胸も腰も腕も脚も、とにかくあるがままの肉体の全てをそのままに、今、生きている地上において神や天や愛する人や知り合った全ての人に曝け出すこと、それがサンバなのではないか。
為政者の思惑、カーニバルやパレードをイベントとして、何かの呼び物として利用しようというマスコミや商店街の思惑、観客として女性の裸体に近い体を眺めて楽しみたいという観客の欲望、踊る男性の弾む肉体を堪能したいという欲望、そうした一切の思惑をはるかに超えて、ひたすら生きる喜び、共に今を共有する歓びを確かめ合いたい、そういう肉体の根源からの歓喜の念こそが、何ものにも優るという発想、それがサンバなのだと感じる。
踊れる者も、踊れない者も、観る者も、観られる者も、支配したいと思うものも、支配の桎梏を脱したいと思うものも、すべてが肉体の歓喜に蕩け去ってしまう。
しかし、そうはいっても、サンバもブラジルも奥が深い、深すぎる。小生の感想も、追々に変わって行くものと予感している。
本稿は、とりあえずのメモなのである。
路上アーティスト(03/09/29)
東京都がヘブンアーティストという名称で、まさに路上でのパフォーマンスを志す面々の支援ないし応援をしているというのは、すでにテレビなどを通じて知られている。
過日、「富山といえば…チンドン屋」なる雑文を書いた関係で、ちょっと路上パフォーマー(ストリートアーティスト)のことを調べてみようと思い、ネットで検索して初めて、「東京都生活文化局」による「ヘブンアーティスト」のホームページがあることを知った。
そのホムペの説明によると、「ヘブンアーティスト」とは、「審査により選定したアーティストにライセンスを発行して、公園や地下鉄の駅など、公共施設の一部を活動の場として提供することによって、 「街のなかにある劇場」として都民が気軽に芸術に親しむことができ、アーティストと観客との交流をとおして芸術文化を育む場としていくものです。」とのこと。
チンドン屋さんがストリートパフォーマー扱いされているかどうか、また、東京都の「ヘブンアーティスト」の審査を受けているかどうかは、小生は知らない。
チンドン屋さんの場合、何処かの地域(商店街、大概はパチンコ店の開店)の求めに応じて、その仕事を披露するのだろう。
小生は、車での移動中、東京都は田町近くの商店街で彼らの営業する姿を見かけたことがある。渋谷で見かけたという話も聞いたことがある。もっといろんなところで営業されているのだろうが。
そういえば、タクシーで田町駅に向った時、その駅の構内で夜、ジャズの演奏をする若者たちの姿を見かけたことが何回となく、ある。
それはジャズのトリオで、クラシックもジャズも好きでタクシーの営業をする小生には車中でラジオから流れる音楽が何よりの楽しみなのだが、まさか仕事中に路上でのジャズの生演奏に出会えるとは思いも寄らなかった。
サックスとドラムとベースのトリオだったと思う。好きとはいえ、ジャズに詳しくない小生には、彼らの演奏がどれほどの技量のものかは分からない。また、演奏している曲目も、仕事中ということもあり、しっかり聞き込めるわけもなく、よく分からない。
漏れ聞くところによると、60年代風のオーネット・コールマンの『ピース・フォー・オーネット』などを演奏しているとか。
恐らくは、若いアマチュアのジャズミュージシャンによるストリートライブということなのだろう。
たまに、田町駅のロータリーで長い空車のタクシーの列に付きながら、その演奏する姿を眺めていることがある。慌しい通勤客の中から、それでもポツポツと演奏する彼らの周りに集まるのを見る。
ライブが始まるのは、7時を回っていると思われる。さすがに6時から7時までは、最近頓に増えたサラリーマンやOLなどの通勤客が多すぎて、邪魔になるということなのか。あるいは、彼らはそれぞれに仕事を持っていて、仕事を終えてからメンバーが集まり、活動を始められるのは7時を回ってからということなのか。演奏が終わるのは10時を回っているようだ。
気の小さい小生は、正式な許可を得ての活動なのだろうけれど、その強烈なドラムのリズムや響きなど、通行人から苦情が来るのではと、余計な心配をしたりする。
[杞憂ではなかった。演奏の途中、近くの警察署からお巡りさんがやってきて、中止させていたのを二度ほど見たことがあった…。 (05/06/10 補記)]
ただ、とにかく、彼らがロータリーで演奏することで、町の雰囲気が一変していることは、明らかだと感じる。楽しげに、それとも神妙に聞き入る通行人たち。演奏が終わると、拍手されたりする。
ニューポートや何処か、というわけにはいかないが、ビジネス街の駅、田町駅のロータリーが、急に文化的に奥行きのあるもの、あるいは、人間味のあるものに変化したような気になったりするのだ。
彼らの活動が東京都のヘブンアーティストの一環なのかは知らない。
そんなことより、ストリートでのパフォーマーがいろんな形で増えていることを感じるのである。
あるいは、そうした路上のパフォーマーを見る眼が、以前に比べて違ってきているようにも感じるのだ。
チンドン屋にしても、一時は激減したのではなかろうか。それはチンドン屋をするメンバーの数が減ったということだし、彼らへの仕事(ニーズ)も減ったことも意味する。それがチンドンコンクールに参加するメンバーが最近、また、増えてると聞く。なにかが近年、変わっているのだ。
やや遠い昔、チンドン屋に限らず、町中で営業する人の姿をよく見かけたものだ。紙芝居が楽しみだった記憶も小生にはある。
そうしたストリートのパフォーマンスに関心を持っているところに、この数ヶ月はサンバパレードにやたらと関心を奪われた。普段はタクシーの徹夜仕事を終えると自宅では何もする気力がなく、寝たきりの生活になる小生を都内の各所でのパレードに引っ張り出すのだから、何かがストリートにはあるのだと思う。
これが、サンバのダンスや演奏がたとえライブであれ、何処かの洒落た店などで行われていたら、小生は恐らくは重い腰を決して上げなかったろう。今は、サンバの魅力を感じているし、やや病膏肓(こうこう)に入るの感があり、機会があったら屋内でのパフォーマンスを体験しに行くかもしれないが。
青空の下、人が演奏したり、ダンスしたり、愛想を振り撒いたり、自分の世界を自分の体を使って表現すること自体に夢中になっている姿に感動するのだ。普段の余所行きの顔がその活動の最中にあっては、一変して、生身の人間の情熱が迸る。その熱気に当てられるのだ。
また、これは誤解される余地が大いにあるので、あまり書きたくはないが、ストリートライブの特徴には、生身ということと同時に芸の未熟さの持つ魅力があると思う。
この未熟さには、意味があって、過剰には芸が洗練されていないということだ。芸が洗練されているということは、つまりはそうした芸が披露されている場というのは、既に何処かの(屋内の)舞台など、決まりきった場所での営業になり、とてもじゃないが、せいぜい路上で気持ちばかりの木戸銭で、通りすがりの人間が楽しむというわけにはいかないことを実質上、意味する。少なくとも数千円の入場料などが要求されるのだろう。また、芸もその対価に値するのでもあるのだろう。
が、サンバのパレードの熱気に煽られながら見物していると、今、その場で彼ら彼女等が懸命に踊りの技術を習得しようとする意欲を感じることができる。拾得した技術を見てもらいたい一心でいるのだと感じる。その意欲で周りを熱気の渦に巻き込みたいと心底願っているのだと感じる。
さらに言うと、サンバの音楽の持つ、いい意味での原始性が魅力なのだと思う。誰もがすぐに入れるかのような雰囲気がある。奥行きは深くて、究めるなど、サンバについても安易に望めるはずもないが、その魅力の世界に誰もが気楽に入れる、参加できる、リズムやビートを理解しているとかしていないということに関係なく、とにかく感じることができるという敷居の低さがある。
それが例えば音楽的に洗練されればボサノバなどになり、とてもストリートでの喧騒の中では聞き入るのが勿体無いというか、ワインかウイスキーグラスを片手に、小奇麗な格好で、洒落た店の雰囲気の中で聞くことになる。
それはそれで魅力なのだが、しかし、既に高い敷居を越える必要が生じている。路上で、通りすがりにというわけには到底、いかない。
洗練はどんな芸にも必要だろう。また、演奏にしろ踊りにしろ、芸を究めようとすると、そこに単なる情熱を越えた円熟だったり、洗練された様式だったり、鑑賞する側にも理解する上での少なからぬ素養が求められたりする。それはそれでいい。
が、落語にしろ歌舞伎にしろ、能にしろ、楽器の演奏にしろ、全てとはいはないが、多くは大道での芸だったのではないのか。それがいつか様式化されて、教養のない人間、素養のない人間にはやや遠い世界のものに、つまり<至芸>の世界のものに成り果ててしまったのだ。
もっと泥臭くて、汗っぽくて、等身大で、視線が低くて、同じ大地に立つ者同士であることの共感を、一切構えることなく、気軽に味わえる、その素朴さにこそ、サンバに限らずストリートのライブにはあるのだと思う。
その素朴さが失われた時、芸人にとっては芸の完成・熟成ということになるのだろうし、芸人・アーティストとして大成したということになるのだろうが、同時に、一歩、凡人の気軽に立ち寄れる素朴さの喪失をも意味する。
まあ、大仰な話はこれくらいにしておこう。ストリートでのサンバの季節も終わりに近づいている。ジャズの路上でのライブは冬は行うのだろうか。とにかく、残り少ないストリートでのパフォーマンスを楽しむ機会を大切にしたいと思うばかりである。
[閑話休題]:
小生がこれまで書いて公表したサンバ関連のエッセイを幾つか示しておく(大概は画像集です):
「冬籠(ふゆごもり)」(January 12, 2005)
「冴ゆる」(January 13, 2005)
「裸足のダンス」(2005年05月17日)
「地上の星々(1)」(2005年01月17日)
「地上の星々(2)」(2005年01月17日)
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コメント
「ヘブンアーティスト IN 丸の内」
開催のお知らせ
2007年5月27日(日) 12:30~16:30
http://www.seikatubunka.metro.tokyo.jp/bunka/heavenartist/inmarunouchi.pdf
投稿: やいっち | 2007/05/25 21:53