カーニヴァルテーマ「太陽」(1)
「カーニヴァルテーマのこと」にて、「我がチームの今年の浅草サンバカーニヴァルに向けてのテーマである「太陽」を、そのアーラ群を手掛かりに、その物語を描写してみようと思う。」と書いている。
書いたはいい。また、画像群のアップを期待していたサイト「Charlie K's Photo & Text」の「DAYS of Samba & Asakusa Samba Carnaval 」なる頁にて、「Asakusa 2006.8.26 G.R.E.S Liberdade vol.1」から「Asakusa 2006.8.26 G.R.E.S Liberdade vol.4」などがアップされていて、一応は材料は揃ったようなものだし、これまた結構である。
が、画像が多いってのも逆に困った。選ぶのに目移りする。あれもこれもとなる。
また、人様が撮った画像だから、小生が書こうとする小文に相応しい画像が必ずあるとも限らない(特にポルメスについては)。
今日は、午後から全ての画像を幾度となく見て過ごすことになった。
が、その前に、情けないことに、今日が自転車通勤二日目ということで、肉体疲労でグロッキー状態になっていた。
火曜日の朝に自転車で会社に辿り着いた時点で既に疲労困憊である。楽な道を選ぼうとは思っているが、それでも、何処かしらで坂道を上り下りしないといけない。短いが急な坂を二つか、緩やかだが長い坂をやはり二つほど越えないといけない。
恐らく、あと数回は自転車通勤して、体が慣れてしまわないことには、帰宅しても(普段だってタクシー業務に精力の大半を費やしているのに)ロッキングチェアーから体を引き離してパソコンに向う気力など湧きようがない。
と、言い訳というか愚痴を洩らしたところで、さて、肝心の課題に向いたい。画像群は、何時間も選択に迷った挙句、とうとう切れてしまって、最後はもう、エイヤ! という感じで選んでしまった。
一旦はアップしても、文章もだが、画像に関しても、追々訂正・差し替え・削除・追加などなどを施していくことにする。
そういった方針でないと、いつまで経っても書き始めることができん!
念のために再度、断っておくが、特に明記しない限り、画像は全て、いつも画像の使用を快諾してくれている「Charlie K's Photo & Text」からのものである。
また、「我がチームの今年の浅草サンバカーニヴァルに向けてのテーマである「太陽」を、そのアーラ群を手掛かりに、その物語を描写してみようと思う。」と書いたように、基本的に物語的であり、もっと言うと空想、あられもなく言うと妄想的な叙述もありえる。可能なら終始、徹底して妄想的でありたいのだが、そうもいかない。
仮に思ったほど、妄想的足りえなかったとしたら、小生の想像力が貧しいからに過ぎない。
叙述の事実関係を逐一、信憑性を含め、裏付けを求めたりしないでもらいたい。
ひたすらその場の思いつきで書いているだけなのだし、文章に脈絡がないからと、舌打ちなどしないで欲しい。
敢えてでたらめは書くつもりはないが、敢えてサンバについて用語も含め専門的なこだわりもしない(できない!)。
願わくは、画像に見合うような何かを書けたらいいのだが。
用語は、「サンバチーム「ブロコ・アハスタォン」サンバ用語集」参照のこと。
太陽コミサン
太陽。古代においては、太陽は天にあるものだった。月も含め他の星々とは別格の存在だったとしても、天蓋において一定の座を占める存在だった。
一方、古代ギリシャにおいては、既に地球こそが太陽の周りを回っていると考える人もいたし、地球が丸いことに気付いた人もいる。それどころか、地球の大きさをほぼ正確に計算した人もいる。
いずれにしても、太陽が地球の上を回っていようが、逆に地球が太陽を周回しようが、その存在の巨大さには古今を通じて変わらない。
太陽は生命の源だと看做されてきたことを知っていようがいまいが、太陽の光に命を感じ、生を感じ、希望と時には怒りを覚えたりもする、そんな人間の感情にも変わりがない。
太陽は、照る日もあれば曇る日もあっていいけれど、毎日、天に向かって駆け上がり、天頂で輝き、やがて天蓋の裏へ陰へと沈んでいくものでなければならなかった。
万が一、日中において太陽がその姿を消したなら!
現代においては、それは日食という一種の天体現象であり、むしろ天体ショーでさえもある。
が、古代において、太陽が真昼間に姿を掻き消されてしまったなら。地にあるものは皆、パニックだった。何か悪いことの前兆であり、その咎(とが)の一切は祭祀をも担う支配者が負うしかなかった。死を以て贖うしかないほどの大事だった。
政変が起きてもおかしくない事態だった。懸命に天に祈りを捧げ、時に犠牲を供した。
太陽に性別があるのかどうか知らないが、仮に女性か男性かと問われたなら、断固、女性だろう。
元始女性は太陽であった。そのように喝破された方もいるくらいだ。
もっとも、しかるに今では女性は太陽であり地球でもある。大地を闊歩されている。女性は欲張りなのである。そこが可愛いところでもあるのだが。
見よ、この隊列を、この勇壮なる行進を。まるで、空に太陽がなくなったら、私たちが代わりに太陽になってやると主張しているようではないか。
…でも、隅っこでいいから、男だって、居てもいいんだよね?!
ポルタ・バンデイラとメストリ・サラ
「チームの旗を持って踊る女性」であるポルタ・バンデイラと、「ポルタ・バンデイラのエスコート役の男性」であるメストリ・サラ。略して「ポルメス」とも。
サンバパレードを見慣れない人は、パシスタ(ダンサー)の姿に象徴されると思いがちである。印象としてはその通りだろう。小生だって、初めて生で見たときは圧倒されたものだった(テレビでチラッと見たときは、もっともっとと思ったものだった)。
が、二度三度とパレードを見ると、ポルメスの果たしている役割の大きさに気付いてくる。仮にどういった役割を担っているかが分からなくとも、その豪華な衣装に驚かされる。
でも、もっと驚くべきは、その豪華さより、恐らくは決して軽くはないだろう衣装を身に纏っても、バンデイラ(旗)を掲げつつも軽々とステップを踏み、終始、笑顔を絶やさない、その凄みなのだ。
旗はチームの象徴である。
彼らの踊りを見ていたなら、踊るというよりも、旗を引き立て目立たせるために観客の注意を集め、集まったところで、ポーズを決める。その際、主役はポルメスの衣装でもなく、笑顔でもなく、あくまでバンデイラ(旗)なのだということに気付かされるはずだ。
小生は、パレードに行くと、何はさておいても、ポルメスだけは目にし、画像に収める。
彼らを見る小生の目は、尊敬の眼なのだ。
アプリアーラ・ギリシャ神殿
古代ギリシャに限らないが、古代において石への感情は格別なものがあった。石は変わらざるものの象徴だった。石には不思議な力が宿ると看做されていた。
人も動物も、そして緑の木々などの植物を含め生き物の命は短い。しかるに石の命は永遠に比せられた。宝石という言葉に注目して欲しい。石という言葉が含まれている。その輝き、その永遠の変わらざる命。宝石とは摩訶不思議な美しさと共に永遠の美と命の象徴だったのである。
古代ギリシャの草創の頃は、ギリシャの地もその丘は緑豊かな地だった。
が、土地を切り開き火を得るために木々を切り払ってしまった。あっという間に砂漠のような地に変貌してしまった。
残ったものと言えば、青い空と青い海。そして幾許かの人。
が、忘れてはならない。石は残った。
石灰岩があった。石灰岩を切り出し、神殿を作った。勇壮な建築物を作った。石を素材に彫刻をした。
石を刻むこと。それは永遠を石の中に見出すことだったのだ。
メソポタミアを見るがいい。古代エジプト文明を見るがいい(ピラミッド!)。
ミケランジェロの遥かに昔から石のかたまりの中に形を探り出そうとしてきたのである。
パルテノン神殿にしても、営々として築き上げ磨き抜かれてきた石の技術の粋なのである。古代ギリシャ人の英知の結晶なのだ。
神殿の奥に神が鎮座しているというより、まさに神殿であり、構築された石組みの形そのモノが神の象徴であり神の座なのである。この場合、神とは極めて人間的で、ドラマチックな存在である。傷つき怒り悩み歓喜する、それがギリシャの神なのだ。
太陽にさえ挑戦する人間という神がかりな存在。
神託の下される地として有名なデルポイはパルナッソス山のふもと、岩山の一角にあった。そこにはアポロン神殿と都市とがあった。財産さえデルポイの地に蓄えられた。
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