« 06花小金井パレードへ(3) | トップページ | 花小金井パレード番外編:地上の熱帯魚たち »

2006/11/13

06花小金井パレードへ(4)

 表題は「花小金井パレードへ(4)」と銘打ったが、時間の流れからすると、本稿で掲載する画像群のほうが、「花小金井パレードへ(1)」よりも早い時間帯に撮ったものである。
 では、何故、以下に示す画像群を「花小金井パレードへ(1)」にしなかったかというと、この「花小金井パレードへ(4)」に載せる画像群は、小生が昨年から使い始めているデジカメの一代前のデジカメで、しかも、メーカーも違う。2006_07230607230024_1

→ これがパレード会場で一番、最初に撮ったもの。パレードが来るぞ!

 パソコンに画像をアップさせるためのソフト(CD)を見つけるのに手間取って(パソコンも、昨年秋、代替わりさせた。その際、データの置換に失敗し、データ…、特に肝心のパスワード・IDナンバーなどの情報を紛失してしまって、パニック状態が今も続いている。どうやったらいいのか、自分では分からん!)、とうとう後回しになってしまったのである。

 どうせ、誰もそんな事情など知らないことだし、このまま、旧のデジカメの中に(メモリースティックの中に)データを残しておこうか、手元にあるDVDプレーヤーで折々に見て一人、楽しめばいいじゃないかと、一時は気の短い弥一のこと、自棄になってしまいそうだった。
 が、幸い、土曜日からの部屋のゴミ類の片付け作業の途中で、旧デジカメの箱が見つかり、画像処理ソフト(CD)も発見と相成ったのである。
2006_07230607230028

← 最初の近影は、やはり、ポルタ・バンデイラとメストリ・サラ①だね。

 目出度し、目出度し。
 懸命になって旧デジカメの画像をパソコンに取り込もうと思ったのは、実は、こちらのカメラにしか雄姿の収まっていない人が何人かいるから、という事情もあった。
(部屋の中のゴミ類の片付け作業というのは、事情があってのことだが、天井まで積み重ねていたダンボール類や今では訳の分からない紙くず類を廃棄する作業だった。風邪(?)で仕事を休んだこともあって、時間があったので、不意に思い立ったのである。やっと、部屋の中の壁と数年ぶりに再会・再見することができた。これまた、目出度し、目出度し。)
2006_07230607230043

→ 以下、パシスタ群像がしばらく続く。

 さて、以下、少なからぬ追加の画像を載せるが、例によって画像と本文とは直接の関係はない。いつもこうしたレポートを書く場合に断るのだが、画像を載せるための壁紙であり、その壁紙にたまたま何かしら文字らしきものが綴られているようだ、ということに過ぎない。

2006_07230607230045
 ま、ちょっと変わった、記号風の壁紙だと適当に流してもらいたい。考えようによっては活字と画像との不思議な組み合わせという趣向の、現代アートも斯くや! と思えるような先進性に満ちていると言えなくもない(ことはない)。
 冒頭に載せた画像が、小生が花小金井駅に降り、パレードの先頭へ急ぎ足で向って(後から来た小母さんに軽く追い越されていったので、ムカッと来たが、平然さを装って)、最初に撮ったパレードの模様なのである。
 ビデオではないし、テープで録音しているわけではないので、駅に降り立つと最初に出会うのは、パレードの光景ではなく、音だ。2006_07230607230046

 だから、どのチームも音響には神経を払う。
 そこにはいろんな意味合いがあって、音こそがパレードに背を向けていても、あるいは観客が多くて、なかなか肉眼で直に見ることが叶わなくても、とにかくパレードコースの周辺に居る限りは聞こえてくるものだし、ダンスなどのパフォーマンスでサンバを示すあり方もあれば、音(音楽=楽器、あるいは歌)でサンバの世界を示したり表現したりするやり方もある。
2006_07230607230049
 音に神経を払うというのは、特に浅草サンバカーニバルともなれば、尚更である。なんといっても、通常よりパレードの人員は多い。よってパレードの列も長い。場合によっては複数の音響装置を使うこともあるのかどうか、小生は知らないが、とにかく、楽器の音や歌声をパレードの隅々まで行き渡らせる必要がある。
 これはもう、絶対条件のようである。音割れは論外。事前のチェックに相当、時間を費やしているようだ。
2006_07230607230051

 ところで、サンバに何を期待しているのだろう。サンバ(のチーム)に関わりを持った経緯については、以前、大体のことは書いた。
 ここでは、サンバに何を期待しているのか、何を感じているのかを、改めて、少し、触れておきたい。
 ある旧稿の中で、小生は、以下のようなことを書いている。前後の脈絡を欠いているが、大意は分かるだろう:

 青い空に浮かぶ入道雲。晴れ渡った空に浮かぶ月。澄明な清流の音。葉裏を伝う滴。山々の緑や高山の頂の雪。頬を撫ぜていく心地いい風。そして、そして人の肌。そうした一切が遠い。穢れの彼方。
 小生がこの頃、サンバに夢中になるのも、大地との交情なのだと思う。涸れ果てた自分の心の大地に水を引くための営みなのだ。サンバの強烈なリズムと響き。
 生命を揺さぶって欲しいのだ。というより、揺さぶられるだけの命の滴が自分にもあることを確かめたいのだ。穢れを何処までも感じてしまうほどに萎縮した心の芽を少しは芽吹かせたいのだ。

2006_07230607230053

 あるいは、別のサンバエッセイから、一部を抜き出してみる(サンバのチームは、学生らのチームもあるが、社会人で構成するチームもある。女性だと、結婚し子供を生んでからも活動を続ける方もいる。そうした人たちを意識して書いたものである):

 地上の星。天の星々が無数にあるように、地上の星たちも、無数にあるのだと思う。無名とはいえ、仲間がいて、あるいは幸運にも記録に残されて、濃密はあれ、語られる星たちもいるだろうけれど、語られることのない星たちも、その幾層倍も、いるに違いない。
2006_07230607230057

 小生は、仕事柄、終日、町中を車で移動する。時には駅で空車の列に連なって、いつ来るか知れないお客さんを待つことがある。
 すると、ロータリーでは、いろんな人間風景に出会う。例えば、先日、双子の男の子を連れたお母さんを駅で見かけた。
 男の子たちは、幼稚園にはあと1、2年かなという感じ。でも、生意気盛り、元気一杯の男の子達。駅でお母さんは自転車に男の子達を乗せようとする。
 でも、自立していることを見せ付けたい、歩けることが誇らしくてならない男の子たちは、それぞれ勝手な方へ行こうとする。見ている小生は、他人事ながら、ハラハラしながら見守っている。
 それでも、一人は、比較的素直で、わりとすぐにお母さんに掴まり、自転車の前の籠に。小生はちょっと安心。
2006_07230607230061_1

← ポルタ・バンデイラとメストリ・サラ②の舞い。

 が、もう一人は、あちこち動き回り、生意気にも近くの本屋を覗いたりする。お母さんは、その男の子を捕まえようと懸命。見ている小生が冷や汗掻いたりして。
 それでも、やがて二人目の元気な男の子も、お母さんの手に引かれ、自転車の後ろの籠に。
 あと、ほんのしばらくしたら、そう、一年とは言わない半年もしたら、二人とも、お母さんには掴まらなくなるだろうな。そしたら、お母さんは、泣きべそを掻くのだろうか。途方に暮れるのかな。それとも、そんな程度のことにめげては、母親はやっていられないのかな。
 ホント、お母さんは、大変だ。2006_07230607230063

→ ヂレトール・ダ・バテリア率いるバテリア軍団。

 そう、そんな苦労など、苦労のうちに入らないのかもしれない。夜中に風邪か何かで熱を出す子ども。お父さんは、仕事で今日も帰らない。一人で懸命に看病したり、それとも救急車を呼ぶべきかと迷ったり。
 朝方にでも子どもに熱を出されたら、自分だって仕事を抱えているのに、どうしたらいいのか、途方に暮れてしまう。一体、首を覚悟で子どもを優先すべき? それとも後ろ髪を引かれる思いで仕事へ行くべき?
 あるいは近所付きあいに亭主との諍いに、姑などとの遣り取り。自分の体調、ありとあらゆる問題が、次から次へと降りかかってくる。子育てを終えた頃には、容色も衰えて、若い頃のようにはちやほやされなくなってしまう。子育てしている間に、みんなに置いてきぼりを食らってしまう、という無闇な迷い。
2006_07230607230064

← と…、撮っちゃいました!

 でも、そうした一切は、当たり前すぎて、やって当たり前、やり遂げて当然、逆に失敗したら責任を何処までも追及されるだけ。
 地上には数知れない星々がいる、というより、星々に満ち溢れているのだ。しかも、その輝きが人には見えない、窺い知れない、雲か霞のうちに蔽われていて、時には誰も相手にされない煌きだったりする。下手すると、末期の、白鳥の歌のような耀きなのかもしれなかったり。2006_07230607230065

 そう、中島みゆきの「地上の星」にもあるように、「風の中のすばる 砂の中の銀河 みんな何処へ行った 見送られることもなく」であり、「草原のペガサス 街角のヴィーナス みんな何処へ行った 見守られることもなく」なのであり、みんな、「地上にある星を誰も覚えていない 人は空ばかり見てる」なのである。
 だから、「つばめよ高い空から教えてよ 地上の星を つばめよ地上の星は今 何処にあるのだろう」という歌詞には、繋がらないのだと思う。
 というか、地上には星屑に満ちているのだ。何処も彼処もスターダストだらけなのである。
2006_07230607230075

← エンヘードを歌う歌手と、背後にはポルタ・バンデイラとメストリ・サラ③が。ダンサーらは、エンヘードの曲に合わせて踊っている。

 そんな地上の星たち、星の欠片たちの輝きに一旦、気が付いたら、この世は眩しすぎるのに違いない。銀河の砂で世界が一杯なのだとしても。みんな自分のことに手一杯で、懸命で、神経が周囲に及ばないのだとしても。あるいは、眩しすぎることに気が付いて、神経が麻痺してしまったのかもしれないのだとしても。
 それほどに、実は、地上の世界は、人間に限らず、生きとし生ける全ての存在の放つ耀きに溢れている。
 そんなことをぼんやり思っていたら、ちょいと休憩のし過ぎになってしまった。さあ、仕事だ!

2006_07230607230079_1

→ ポルタ・バンデイラ(とメストリ・サラ)③だよ。

 以下の抜き書きは、サンバパレードの様子をデジカメで撮り始めたころの熱気に浮かされて書いたあるエッセイの一部である。小生は所詮は追っかけに過ぎない。サンバのファンといいながら、サンバのことは何も知らない。あくまで一人のファンが、カメラ小僧ならぬカメラ中年になってまで頑張る、その弁解の弁である:
2006_07230607230080_1

 ただ、感じるのは、ある種の夢幻の感覚である。汗まみれになり、時には炎天下で熱中症に脅かされながらも踊るダンサーたち。
 日頃、体調の維持や管理に神経を払い、ただでさえ忙しい家庭のこと、家族のこと、仕事のこと、あれこれを乗り越え、遣り繰りして、数十分という短い、しかし当人達にとっては濃すぎるほどに濃密な時間を生き、そして、踊りまくった、自分がやりたいことをやり通した、観客と悦楽の時を共に過ごした、サンバチームのメンバーが息を合わせて、一つのステージをやり遂げたという満足感に、浸る。
 その当人たちにしても、当日は興奮醒めやらないままに過ごすとして、一夜明けた朝には、前日の興奮は夢だったのか、という感覚を持つことがあるという。2006_07230607230082_1

 燃えた時は、夢だったのか、まさか幻ではなかったのか。そんな感覚にしばし襲われることがあると言うのだ。だからこそ、みんなの前で踊る喜び、楽器を鳴らす喜び、最高の音楽に目一杯浸る快感を、もう一度味わいたいと思うのだろう。
 そのもう一度楽しみたいという欲求は、観たいというギャラリーの欲求などの比ではないはずだろう。

2006_07230607230086_1

← 他のチームは撮影しない主義だが、女性は撮る主義を優先しました。

 その上で、写真などを、改めて見ると、一体、写真に何が残っているのかと思う。何かが残っている。過去に実際にあった何かが残っている。当事者としてか、ギャラリーとして、カメラ小僧として立ち会ったに過ぎないかはともかく、その写された瞬間の何かが残っている。
 何が残っているかは、写真を見る人が何を感じるかで大きく左右されるのだろう。だから、誰が見ても同じ一定の何かが残っているわけではない。写真を観る人の過去の現実との関わりの深さ、思い入れの深さによって感じるものは多様でありえるような、そんな何かが残っていることは、確かなのだろう。2006_07230607230087_1

→ と、彼女の背後から、何処かで見たような人が…。

 でも、小生などが感じることは、ちょっと大袈裟に言えば、ある種の無常の感覚のようなものだ。その確かに現実にあったことなのだが、しかし、手の中にあるわけもなく、映像や画像や音声を除けば、実際には現物の欠片さえも、そこにあるわけもない、その現実の影、幻、夢だけが虚構の空間にあるに過ぎない。

2006_07230607230088

← やっぱりだ。先頭の二人は、社会人チームの…。しかも、一人はリベルダージの???

 虚構の空間とは、言い換えると、脳裏の一番奥の心の髄にこそ可能な舞台である。虚構とは、現実からその骨も皮も血さえも抜き去ったエキスのみが漉し残された夢幻の真実しか登場することを許されない空間のことである。
 虚構とは、あまりに真実であり、心に突き刺さった棘であるが故に、時に忘れ去られ、遺棄された心の真実の仮初の現在の場、夢の舞台のことなのだ。2006_07230607230090

→ チームを間違えたわけじゃないよね。ま、細かいことは気にしないのがサンバ。とにかく、撮っとかなくっちゃ!

 全ては過ぎ去る。だからこそ、人は、生きて、新たな手応えを求める。過去の充実は、熱い。その熱さに感懐深く浸るのも時には構わないのだろう。しかし、自分に多少でも新たな舞台への挑戦の意欲があるのならば、一層、痛切な過ぎ去り行く時間の残酷を予感しながらも、現実のステージで新たに何かを成し遂げたいという欲求を呼び覚ます。
 恐らくは、ダンサーに限らず、何かを成し遂げたいと思う人は、誰よりも栄光の時の充実の素晴らしさと共に、ある種の空しさを覚えるのではなかろうか。過去は過去。求めるのは、今であり、今に続く近い将来の感激と興奮なのだ。
2006_07230607230092

← ああ、なんとか笑顔で決めるポーズを真正面で撮りたい!

 生きることを欲し、今以上に生きることに渇望する人は、写真を見れば見るほどに、次へ先へという欲求に駆られるのではないか。
 その意味で、写真とは、生きることに堕したくないと思う人ほどに、残酷なほどに生きることの無常を人に突きつける匕首のようなものなのだろう。そしてその無常感は、一層、深く熱く生きることを渇望させる。
 無常の観念は、焼けたトタン屋根のように、人を躍らせる。そして、踊る阿呆を選んだ人は、誰よりも無常感に焼け焦がれている人でもあるのだ。
 サンバで踊る阿呆たちの生き生きした表情を写真で見ながら、小生は、そんなことを感じたのである。
 つまり…、もう一度、サンバパレード観たい!

|

« 06花小金井パレードへ(3) | トップページ | 花小金井パレード番外編:地上の熱帯魚たち »

花小金井パレード」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 06花小金井パレードへ(4):

« 06花小金井パレードへ(3) | トップページ | 花小金井パレード番外編:地上の熱帯魚たち »