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2006/11/13

第28回 薬王寺・柳町 七夕まつり(3 太鼓篇)

[以下、あれこれ駄文を綴りますが、あくまで画像を貼り付ける壁紙(の紙魚)だと思って読み飛ばしてください。本文と画像とは直接、関係はありません。
 その他、注意事項は従前通り。]

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→ 「ポルタ・バンデイラ」と「メストリ・サラ」はチームのシンボル!

 さて、とりあえず、後半のパレードも一通り、見て愉しんだ。バツカーダタイムがあるが、人が一杯で覗ききれないのは分かっている。
 小生は、遠ざかり行くチームの後を追いたい気持ちを堪え、アナウンスで聞いていた和太鼓の演技を見ることにした。なんといっても、「第28回 薬王寺・柳町 七夕まつり」なのだから。
 というか、実は、睡眠不足もあって、既に疲労困憊の極にあったのだ。パレードの後を追えないのも、それゆえに他ならない。

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← 若手だ。そのにこやかな表情!

 なので、踵を返し、ゆっくり地下鉄の駅へ向ったのだった。

 が、パレードコースの末端の区画(つまり、後半のパレードの出発点)で太鼓が並べられ、年輩の婦人たちが演技の準備に入っている。黙って通り過ぎることはできない。
(和太鼓の演奏については、下のほうで詳しく書く)

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→ 愛称さえ知らない君だけど、相性も叶わない君だけど。

 太鼓。
 思えば、サンバの音楽も多くは打楽器であり、ある意味、好対照でもある。何処か遠いところで繋がっているということはないのだろうか。
 サンバの音楽は、南米へつれてこられたアフリカ人などが自然発生的に生み出したものだという。少なくとも一部のふるさとはアフリカにあるわけだ。

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← 新人らしいのだが、その存在感にはただならぬものがある。

 せっかくなので、お馴染み「サンバ (ブラジル) - Wikipedia」でサンバ音楽の大よそを摑んでおく(もっといいサイトは無数にあるのだろうが)。

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→ そのにこやかで朗らかな表情は何処から生まれるの?

「サンバ (samba) はブラジルのアフリカ系民衆音楽。ブラジル音楽。」と示された上で、冒頭には、「8分の3拍子のダンス音楽で、19世紀の終わりごろ、リオ・デ・ジャネイロにおいて、ブラジル北東部のバイーア地方から移住したアフリカ系黒人の奴隷労働者たちが持ち込んだ、バトゥカーダ(Batucada)――打楽器のみの構成によるサンバ――などの音楽をもとに、元来ブラジルからあったショーロやルンドゥーなどの要素がとりこまれ成立し、ブラジルを代表する音楽ジャンルとなった。結果として、黒人たちの持ち込んだアフリカの宗教的民俗舞曲と、ポルカやマズルカといったヨーロッパの舞曲の要素が混ざり合ったものと言える。」とある。

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← 今日のベストショット、ベストスマイル(と小生は感じた。ショットのタイミングが良かった!)。

 そのアフリカの音楽の全貌は、案外と、というより、実際にはほとんど未知のようである。図書館でアフリカの音楽を研究している人の本をパラパラ捲ったことがあるが、その多彩な楽器類に驚いた。
 楽器というが、アフリカの自然に生まれた文物をうまく工夫して生み出したという、土の香りがプンプンする。
 現世の人類のルーツがアフリカにあるように、もっとも原始的な、つまりは根源的で基本的な音楽や楽器のルーツも、実のところ、想像上にアフリカに淵源しているようにも思われるのだが。

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→ やっと撮ることができた。嬉しい!

和太鼓 - Wikipedia」なる頁を覗いてみる。
 その頁の冒頭には、「出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」として、「和太鼓(わだいこ)は、打楽器のひとつ。日本の太鼓の総称。 祭礼、歌舞伎、能、神社仏閣における儀式等に用いられ、木でできた胴に皮を張り、それを振動させて音を出すものである。
 撥で叩くものを太鼓と呼び、手で叩くものは鼓(つづみ)と呼ばれる。」とある。

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← 手を振ったら、気づいてくれて、ポーズを決めてくれた。ホントは軽快なステップのダンスを映像で見てもらいたいんだけど。

 また、歴史の概論でも、「和太鼓は、縄文時代には既に、情報伝達の手段として利用されていたといわれており、日本における太鼓の歴史は非常に古く、日本神話の天岩戸の場面でも桶を伏せて音を鳴らしたと伝えられている」とある。

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→ 「ポルタ・バンデイラ」と「メストリ・サラ」はチームのシンボル! 踊りつつも、旗を終始、手放さない。
 
 今風の和太鼓は、「昭和にはいって、小口大八は、胴の長さや直径等の違いで音が違ってくることを利用し、これを組み合わせることによって太鼓をひとつの音楽に仕立て上げた」という。

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← チームのプ シャドーラ (女性のボーカル)。歌姫だ。わっ、気付いてくれた!

太鼓の歴史と音の発生」という頁が太鼓に関して詳しい。
 どの頁を開いても興味深い記述に出会えるが、「太鼓の歴史と音の発生」なる頁を覗くと、冒頭に「エピソード ヒョウタン」という項があって、「ヒョウタンはアフリカ原産であるが、日本には食べ物、器として縄文晩期に入ってきた。これは、雅楽の笙とむすびついている」とあるではないか。
 やっぱり、古く遠いところでアフリカの風物と中国や日本(雅楽の源泉として)とは繋がっていたのだ!

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→ 手を振って合図したら、ポーズを決めてくれる。後は、小生のショットが決まっているかどうか。

太鼓の歴史」なる頁も興味深い。
太鼓はいつからある?」の項には、「楽器というものは一人または数人が作り上げてひとつの形に完成していった。しかし、太鼓(ドラム)は、人間の一番始めの時代から存在しており、これは散らばっている部族のメンバーを呼び集めるのに使われたらしい」とある。
 さらに、「最も古い記録は紀元前2500年ごろ、シュメールの浮き彫りに見られる」とも。あるいは、「シルクロード沿いの遺跡に残されている壁画にさまざまな鼓、太鼓が描かれているが、キジル石窟遺跡では木彫撃鼓伎楽天が発掘されている」とか、「南米のペルーでは笛を吹きながら太鼓を打つ姿の壷が発掘されている」とも。

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← 粘った甲斐があった。やっと目が合った!

ツヅミの語源」の項には、「現在は"太鼓"といいならされているが、古語では"ツヅミ(鼓)"であ」り、「ツヅミの語源は、インド語の"ドゥンドゥビ(dundubhi)"である」。また「インドのドラヴィダ語にtutmiがあ」って、「これが、中国にわたると、漢字"鼓"と融合し、"都曇鼓"になった」というのだ。
「日本には外来語として"ツヅミ"の発音が輸入され、日本書紀などでは"豆豆美"、あるいは"都豆美"の文字で表されている」ともあって、「ツヅミが用いられている例」が示されていて興味深い。
 古事記、日本書紀、万葉集、枕草子、梁塵秘抄のいずれにも当該の言葉が載っているという。

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→ 君は僕を知らなくたって、僕は君を……やっぱり知らない。グシュン…。
 
 さらに、この「太鼓の歴史」なる頁には、太鼓や鼓に関係する画像が幾つも載っていて、眺めているだけで古く遠い世界に想いが馳せていく。

第28回 薬王寺・柳町 七夕まつり」でも紹介したが、この祭りで、「天然理心流の演武と市谷柳町試衛館、新選組流山隊の殺陣が披露」されていた。
 新宿区市谷柳町は試衛館跡があるなど、「新選組青春の聖地である」のだ。

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← その愛くるしい笑顔にゾッコン。

 同上頁には、「全長430mを歩行者天国にして行な28回目の恒例祭で、サンバをメインにおいてからは8回目になり、最近では地元の児童館の子供たちもチームをつくり、親子で参加して楽しむ様になりました」という説明があった。
「まちづくりの一環として「市谷柳町試衛館」が出来て、試衛館跡地に歴史標柱も建ち、昨年、一昨年はこの七夕まつりにも新選組のパレードを盛り込むことも出来ました」など、新撰組関係の話題も含め、ブログ「日野宿本陣文書検討会」は関心ある方には興味深いサイトに違いない。

■薬王寺・柳町七夕まつり-日野宿本陣文書検討会」を開くと、「2005試衛館まつり」の様子が分かる。

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→ 小生に気合を入れてくれた和太鼓の演技。

 余談になるが、「池田屋・裏」なる頁を覗くと、新撰組と池田屋と姫太鼓とが密接に関わる興味深い芝居のあったことを知ることができる。
 芝居の「あらすじ」によると、「時は元治元年6月5日。肥後藩の宮部鼎蔵(みやべていぞう)、長州の吉田稔麿(よしだとしまろ)たちが中心になり、尊王攘夷の志士たちと京に火をかけ、町を混乱に陥れようと池田屋で画策していた。その情報を聞きつけ、新撰組が池田屋に乗り込んだ。急な宿改めに池田屋に集結した志士たちは池田屋の裏(姫太鼓)の家へと逃げ込んだ…!」というのである。
 残念ながら特に姫太鼓との関わりが史実なのかどうか、小生には確かめられなかった。
 でも、知る人は知るの歴史だったのだろうか。

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← 足元を見よ! 見ないとバチが当るぞ! 全員、素足なのだ。

 和太鼓の演技を最初から最後までじっくり愉しんだ。年輩の方たちの音は気のせいか図太く確かな存在感を覚える。若手の鳴らす音は、意気と軽快さの心地いいリズム感。撥(ばち)捌きを目の前で見ることができたこともあってか、熱気をひしひしと感じた。
 一通り演技が終わると、誰からともなく、「アンコール アンコール」の声が。そして「アンコール」の声と拍手の合掌に。
 小生は、そのアンコールの演技も見、聞き、感じていた。

 上記したように、小生、徹夜明けで疲労困憊しているし、寝不足で(多分、雨に降られて体が濡れたこともあって)体や頭が熱っぽいような。
 なのに、「天然理心流の演武と市谷柳町試衛館、新選組流山隊の殺陣が披露」といううちの「新選組流山隊の殺陣」を見てしまった。
 広くはない商店街の空き地での殺陣なので、見ようによっては私闘のようで、迫力がある。

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→ 空き地で新選組流山隊の殺陣が。囲われた一角での演技なので、私闘のようで迫力があった。

 さて、気が付けば時間は四時半頃になっていた。五時近かったかもしれない。
 往路は東西線の神楽坂駅で降りていて、牛込まで遠かったので、今度は、大江戸線の牛込神楽駅から地下鉄に。小生の大江戸線、初体験である。
 とにかく、路線と路線との連絡路がやたらと長い。タクシーのお客さんで、地下道が長くてとか、地下の階段がしんどくてつい敬遠してしまうという苦情というか愚痴をしばしば聞く。だから、敢えてタクシーを選ぶ年輩の方や体に不都合がある方が少なからずいるのだ。
「大江戸線 → 東西線 → 京浜東北線 → バス」と乗り継いで(往路は「バス → 京浜東北線 → 東西線」という乗り継ぎ)、まっすぐ帰宅。部屋に入ったのは6時前。
 帰路は、青空とまではいかないが、日差しに恵まれている。
 雨が予報されていた日曜日だったが、若干、降られはしたものの、途中からは雨知らずに。やはりサンバや太鼓などの熱気が雨雲を吹き払ったのだろう。

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← 女性の剣士も何人か。出番の前の緊張感が伝わってくる。いざ、見参!

 小生は、疲れきっていて、ベッドに入りたかったが、まず、シャワーで汗を流す。頭も雨と汗で汚れていたし。
 そして、シャワー後、例によってロッキングチェアーで仮眠。泥のように眠った。
 そうして、夜半前後から、このレポートを書き始めた。「第28回 薬王寺・柳町 七夕まつり(1 牛込城篇)」「第28回 薬王寺・柳町 七夕まつり(2 笑顔篇)」とレポートを作成。
 画像の選定や画像サイズの縮小。そして画像の背景としての雑文をあれこれ書き綴る。
「第28回 薬王寺・柳町 七夕まつり(3 太鼓篇)」のための雑文を書き綴っているうちに、気が付くと外が明るくなってきた。体も、もう、悲鳴を上げている。
 とうとう、朝の五時ごろだったか、力尽きてしまった。
 ベッドにようやく潜り込み、目覚めたら十時過ぎ。
 とにかく、レポートを書き上げたいという一念。
 そして正午過ぎ、やっと仕上げた。疲れた。細かな修正・加筆などはあとで!

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