動物と人間の世界認識/おまえはケダモノだ、ヴィスコヴィッツ
偶然だろうか、似た傾向の本を読んでいる。
一冊は、日高 敏隆著の『動物と人間の世界認識』(筑摩書房)で、本書はまだ読みさしだが、ちょっとだけ触れさせてもらうと、ヤーコブ・フォン・ユクスキュル(著の『生物から見た世界』(日高敏隆訳、思索社)←まさか絶版?!)の「環境世界(Umwelt)」論や棲み分け理論の故・今西錦司の「生物の主体性」論などを踏まえているようである。
後者の今西錦司氏の理論は、三十年以上も昔、接したことがあるが、どこか情緒的な感じがあって、いかにも日本的な理論のようにも思え、小生は好きになれなかった記憶がある(「今西錦司の世界」を参照)。
そうはいっても、小生のこと、何処まで理解できていたか、危ういものであるが。
前者のユクスキュル著の『生物から見た世界』は、とにかく非常に面白かった。学生になった翌年くらいに書店で発見し、一気に読んだ。
松岡正剛氏の評を借りれば、「自然はひとつではありえず、自然像もひとつではありえない。すべての動物それぞれが異なる知覚と作用のメカニズムによって、それぞれ別の自然観を具体的に携えて生きているものなのだ。そのような “Umwelt” を、総じて自然とか世界とよぶのはまったくおかしなことなのだ」ということになる。
Umwelt=環境世界は、あくまで数知れずいる動物種それぞれに固有のものなのであって、<環境=世界=自然>なるものが唯一のものとして客観的に存在する訳ではないのだと主張する。
日高敏隆氏に依れば、ユクスキュルの理論は、マルクス理論全盛の世にあっては、評判が悪く、一部の人に熱狂的に受け入れられただけに終わったとか。
日高敏隆氏は、動物の、当然ながら人間の環世界を岸田秀氏なら<幻想>と規定するところをイリュージョンといった概念を使ってより深く探求し説明している。
この辺りは、後日、改めて採り上げるかもしれない。
もう一冊は、アレッサンドロ ボッファ(Alessandro Boffa)著『おまえはケダモノだ、ヴィスコヴィッツ』(中山 悦子訳、河出書房新社)で、これも半分ほど読んだところなのだが、なかなか面白い。
レビューによると、「主人公ヴィスコヴィッツが様々な動物となって登場し、悲喜こもごもの生を語る20章。不完全雌雄同体カタツムリの愛など、それぞれの生態を生きつつ、人生の目的を求めて悩むケダモノの物語。エリオ・ヴィットリーニ賞受賞作」だとか。
著者は生物学者で、その知識をフルに活用し、さまざまな<ケダモノ>になったつもりで、その動物の世界認識(作者のイメージするところの)の限界を意識しつつ、それぞれの動物独自の世界・人生固有の悩みを語る。
とはいっても、すこぶる人間的で、その人間も、西欧的というのか、日本人ならもっと感情移入して動物の心・心理を描くだろうところを、かなり動物を見下しているように思えてしまう。
動物を主人公に物語を綴る多くの書き手ならば、もっとファンタジー豊かに描くだろう、と読みながら探究が、思い入れが足りないじゃないか、といった欲求不満を覚えつつの読書となってしまう。宮沢賢治ならずとも、宮崎駿監督ならずとも、動物の世界を描くには、空想力不足、もっと言うと、人間は神の似姿であって、動物は機械以上のものではないという宗教観がプンプンする。
それでも、欧米の方には珍しい試みなのかもしれない。
あるいは言い方を変えると、「機械以上のものではない」動物を、神の似姿である人間が懸命に、その動物種なりの制約された環世界(イリュージョン)の中において、人間味や情緒を読み込もうとする、そのイタリア人の努力ぶりこそが健気で楽しい本(短篇集)だということか。
子供の頃、庭の隅っこで、あるいは学校の帰り道、雨の中、カタツムリをじっと眺めていたことはなかったろうか。雨蛙の賑やかな語らい、それとも合唱に聴き入ったことは? 蟻の長い行列をどこまでも辿っていったことは?蝶々を追いかけて回ったことは? 犬や猫の表情や動きを眺めて飽きなかったこと…。
その際、ただ、動物を眺めている、全くの野蛮で下等な動物の世界をただの好奇心で、見下すように観察していたというより、気が付いたら、自分が何かの動物の世界に没入していたりして、ハッと我に還ったりする。
無論、所詮は人間の想像の世界の中の思い入れに過ぎない。けれど、動物も植物でさえも人間とは別種の世界、それも異質な世界の住人とは思い切れず、何処かに通底するような何かを感じずには居られない。
コオロギ等の昆虫の鳴き声に哀れを覚えたりする、それは日本人特有なのかどうか、それは分からない(このことは、別で書いたので略する)。
どんな動物であっても、人間の生まれ変わりではないかと思ったり、輪廻転生をそれなりの実感を以って想像してしまう性向。
日高 敏隆著の『動物と人間の世界認識』を読んでも、ましてアレッサンドロ ボッファ著『おまえはケダモノだ、ヴィスコヴィッツ』を読むと尚更だが、たとえば犬の世界認識を描くに、あまりに物足りなく思ってしまう。
いつだったか、犬の嗅覚の凄さをテーマに、掌編にも描いたことがあったが、数分子の臭いの元さえも犬の嗅覚は感じ取ってしまうという。
視覚の点では、猫にも人間にも劣る犬だが、こと、嗅覚となると超人的な能力を発揮する。
その犬の世界は、恐らくは人間にはどんなに想像力を駆使しても見えない、分からない世界なのだろう。
それこそ、赤外線や紫外線を比喩ではなく実際にありのままに見る能力のある昆虫類の世界が決して実感も想像もできないように。あるいは超音波を自ら発し且つ聞く能力のある蝙蝠の世界は、一体、いかなる世界なのだろう。その世界を想像力の限界に至るまで想像し尽くしてみようとしない田舎人はいないのじゃなかろうか。
真っ暗闇であっても、音だけで世界が見える。見えるだけじゃなく、飛び回るのだから、人がモノを明るい時には見えるような感じで的確に迅速に見分け判断し移動することができる。
犬に戻ると、路上の臭いが雨などで流されたりしていないかぎりは、数日前に歩いた靴の底の臭いの痕跡さえ、嗅ぎ分ける。曲がり角の先の臭いも、風向き次第だろうが、逸早く感じ取る。無数の臭いの痕跡の世界。人間が視力で1や2どころか10ほどの解像度と視覚能力を持って世界を見たとき、脳は流入する情報量の凄まじさに圧倒されるだろう。
が、生きることに慣れ親しむ中で、人間は見たいようにしか世界を見ることができなくなる。習ったようにしか世界が立ち現れてこなくなる。
見ているようで、見ていない。見たもののすべてをありのままに認識していたら、いかに人間の脳味噌が優れているからと言って、ほんの数日、世界を観察しただけでパニックになってしまうだろう。それほどに情報量は怒涛の洪水となって脳に襲い掛かっている。
ただ、生まれ育った中で形成された検閲機構などで目新しいものしか、目に入らなくなっているのだろう。
犬についても、数分子の臭いをも嗅ぎ分けるのだから、まともに臭いの痕跡を全て脳味噌に放り込んでいたら、あっという間にパニックになる。やはり、犬に必要な情報を選り分けていると思うしかない。目の前の誰かのお札が誰のものか、臭いで分かる。あれっ、このお札、何処かの家の箪笥から勝手に持ってきたんじゃないのって、人間の推理力と合わさったなら、一発で分かってしまうが、そんなことは犬の関心外であろう。
ご主人が遅い帰宅をした際、体や着衣、靴などに附着する微量の臭い成分を嗅いで、あ、ご主人ったら、また、あの娘のところで残業してきちゃったね、なんて、歴然と知れてしまう、はず。
だけど、そんなことも、ワンちゃんは関心外なのである。
臭いにおいての遠近・種別も適度にカットされて、必要な臭いだけに焦点が向くようになっている。
だからこそ、犬の飼い主にさえ恵まれれば、平安無事に暮らせるわけであろう。
その代わり、飼い主に恵まれず、自分が主人にならなければなくなった犬は、この世のありとあらゆる臭いを嗅ぎ分ける必要が生じてしまうのだろう。どんな微細な臭いも、どんな遠方から漂い来る匂いも、常に嗅覚的な意味で認識し敵か味方か、食べられるか食べてはいけないのかの判断が迫られる。
恐らくは、数日もしないうちにパニックになってしまう。犬の脳味噌は情報の洪水に溺れてしまうのだろう。
猫にしても、ペットとして可愛いと思うだけではなく、猫がどんな世界を生きているか、猫好きなら想像しないはずがないと思う。が、分かるようでいて、分からない。
猫についても、日高 敏隆著の『動物と人間の世界認識』の中で触れられていたけれど、もっと突っ込んでほしかったような(もっとも、まだ途中までしか読んでいないのだが)。
翻って、人間も動物もその与えられた能力でしか世界を見ないし感じないし、生きられないのだとして、その能力が、何も突然、人間が他の動物の優れた嗅覚や視覚や聴覚などを持つ、ということでなくても、たとえば、生まれ育つ中で形成された枠組みが外されてしまったとしたら、世界はどのように見え感じられるのだろうか。
人間の環世界から流入する情報が全て剥き出しのままに、一切、整理もされず、情報量もコントロールされないで脳味噌を襲ったとしたら。
世界を生き生きと感じられる? 恐らくは、ドストエフスキーではないが、そのあまりの圧倒的な存在感や現実感の凄まじさに、一瞬をも堪えることが出来ず、パニックに陥ってしまうのだろう。
そんな一瞬をほんの断片でも描くことができたら、どんな世界が示されるのだろう。
ま、夏の夜の夢として、これ以上は深入りしないほうがいいのだろう。
[本稿は季語随筆日記「「夏の夢」は季語ではない」(2005/07/28)より書評エッセイ部分を抜粋したものです。]
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