野本寛一著『栃と餅』
野本寛一著の『栃と餅 ―― 食の民俗構造を探る ――』(岩波書店刊)を読了した。こうした地味な好著を手にしえるのも図書館だからこそ。自腹でとなると、情なくもためらってしまう。買いたい本、読みたい本は枚挙に遑のないないほどにある…そんな中で本書をとなると、二の足を踏んでしまっただろうことは間違いない。
この本が図書館に行った際に、入口付近の新刊コーナーにあったこと、まだ誰にも借りられないであったことは、運が良かったというしかない。
それとも、多くの方の目には素通りしていくだけの本なのだろうか。この手の本と言うと、柳田國男や折口信夫を筆頭に数知れずあるだろうが、そんな中でも一読してみると地味な感がある。
それは、筆者が自らを語ることが少ないからだろうか。読み手としては、筆者が足と体で見聞きし、集めた貴重な証言や画像のあれこれを読み眺めるのは楽しいが、探し回る際の筆者の息遣いや汗も、もう少し感じたい。
さて、上掲の岩波書店の案内によると、「今やグルメブームの名のもとに,ファストフードとスローフードが入り乱れ,食文化は大混乱している.しかし食の民俗を注意深く眺めてみると,食とは何よりも生きるためにあり,そこから儀礼のための食が生まれ,楽しみのための食にいきつく.長年の調査から先人たちの食に関する伝承知を描き,この列島の人々の食に関する嗜好の伝統が姿をあらわす」と説明されている。
そう、小生自身がその典型だったりする。一人暮らしだし、怠け者だし、生臭な男だったりするので(まあ、部屋には調理する場所がなく、流し台の脇にヒーターが一つあるだけ、それも故障して数年を経過する)、できるだけカップ麺は控えるようにし、スーパーなどで買ってきた惣菜などを戴くように努めてはいる。
が、やはり、水は低きに流れる、弥一は怠惰に流れっ放しというわけで、気が付くと、電子レンジで調理できる食品に頼っている現実がある。
昨日は、つい、息抜きというか、日頃の節制で控えていた宅配ピザを注文してしまった。この数年、小生にはカロリー過多の宅配ピザは、我が敬愛する方の誕生日に、一人、お祝いをする際に注文するだけにしていた。
が、その方の久しぶりの活躍の前祝いというわけではないが、つい、チラシに目が行き、電話に手が掛かり、気がつくと、一回では食べきれないセットモノを注文。
ああ、今年半年の頑張りでやっと1キロほど減量に成功したのに、昨日一日で一気に水の泡に…。
ということで、小生など、本書『栃と餅』を手にする資格など、毛頭ないのだ。
でも、自らを戒めるためと、好奇心とに導かれるままに、主に車内で本書を捲っていた。
そうなのだ、先人は、時に厳しい風土にあって、工夫に工夫を重ねて、その土地にあるもの、あるいは苦労の果てに植え育てることに成功した食品を、細かく数えたら何十にもなる工程を重ねて食べられるようにし、調理もアイデアを注いで、その知恵を細々と伝えてきたのだ。
小生は、身を引き締める意味でも、本書は読まないといけない。間違っても、グルメ本など読むものか(グルメになるには、懐が…)。
拙い。愚痴が延々と続きそうである。ここで、岩波書店からの本書の情報を更に(moreinfo)。ここはやはり、著者本人に本書の内容や書くに至る意図などを伺うにかぎる(このサイトには、本書の目次が載っている):
食素材は自然のサイクルの中で恵まれ,獲得されてきた.それは,驚くほど多様な方法によってなされてきたのである.飽食の時代と呼ばれる現今,この国の人びとは「生存のために食物を大切にいただく」という食の原点を忘れてしまったのだろうか.
食の民俗構造――,その一端は,「生存のための食」を基盤としながらも,そこから「儀礼のための食」「楽しみのための食」を発見し,伝承してきたところにかいま見ることができる.
憂慮すべきことの一つにイエ・ムラ・マチの伝承力の衰退がある.それは人びとのすべての営みを平板なものにしてしまう.食に関する伝承の衰退はとりわけ深刻で,伝承の断絶すらもある.さればこそ,伝承の種火だけでもあらゆる方法で次代に渡さなければならない.手のとどく過去の人びとの厖大な「食の体験」「食の伝承知」をどうしてもここで二十一世紀に繋がなければならないのである.
栃と餅に象徴される食の民俗世界はじつに多彩である.その記録ともいうべき本書は,全国各地で土と汗にまみれて生きた多くの人びとが私に託してくれたメッセージの集積にほかならない.(野本 寛一)
あるいは、本書の「あとがき」には、この列島に暮らす人びとは何を食べてきたのかということで、「生存のために懸命に食を得、保存するくふうを重ねた人びとの努力、この国の人びとの「食」に対する深い思いを忘却の淵に沈めてしまってよいものだろうか。食は決して没個性・平板・簡略一方のものであってはならない。食には民俗として伝統と厚みがなければならないのである」などともある(著者自身の言葉)。
ちょっと順序が違うが、筆者のプロフィールは、昨年のデータのようだが→「野本寛一(Nomoto, Kanichi)」
あるいは、「野本寛一著『近代文学とフォークロア』(三浦佑之)」においては、三浦佑之氏の手になる、野本寛一著『近代文学とフォークロア』についての書評を読むことができる。
「当然のこととして、本書で扱われている作品は、比較的新しいものも含めて地方の農村や山村を舞台にしたものが多く、作品そのものの分析に中心が置かれるというよりは、作品の中に見出せる民俗的な手法や事象を取り上げながら、それらに著者のフィールド体験や民俗学の知見によって分析を加えていくといったかたちで論じられている」というが、本書『栃と餅』は、「著者のフィールド体験や民俗学の知見」の分析と叙述の徹底が図られているということなのだろう。
一応、季語随筆に関連付けると、「栃の花」は春の季語、「橡の実(栃の実、あるいは橡餅)」となると、秋の季語となる。「栃の実」については、「果実はほぼ球形で熟すると三裂し光沢のある褐色の種子が出る」という説明が施されている。
「白山名物「栃餅」の志んさ」で「栃」のあれこれを伺ってみたい。
「栃の実とは?」で、説明と共に画像も見ることができる。
この白峰には、「太田の大栃の木」(樹齢1400年?)があって、有名らしい。
「栃の木を育てよう日記」などがあって、微笑ましい。
勿論、「栃餅の作り方」という頁もある。なんといっても、「とちもち」という語感がいい。
一時期、ファストフードに対抗してか、スローフードなる運動、ないし主義が流行ったことがある。今はどうなのだろう。「ニッポン東京スローフード協会」の中で、「スローフードの考え」を伺うと、「活動の指針として、次の3つをあげています」として、以下が示されている:
消えつつある郷土料理や質の高い小生産の食品を守ること。
質の高い素材を提供してくれる小生産者を守っていくこと。
子供たちを含めた消費者全体に、味の教育を進めていくこと。
異論など、ありえようはずがない。
が。
これは小生だけの述懐に過ぎないのだろうが、上掲の活動はいいのだけれど、日頃の自らの食生活を見ると、ひたすらに忸怩たる思いをするだけだし、なんといっても、スローフードというのなら、「質の高い素材を提供してくれる小生産者を守っていくこと」だけじゃなく、自分でそうした試みをやってみないと中途半端じゃないか、で、それでは小生ができるか…というと、到底、できそうもないし、やりそうにない。
で、すぐにめげてしまう。言っていること、思っていることと、やっている現実との乖離があまりに大きすぎることに、嘆く気力さえ湧かない現実。
[本稿は、季語随筆日記「栃と餅…スローライフ」(05/07/17)より書評エッセイ部分を抜粋したものです。]
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