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2006/06/13

川端龍子著『詠んで描いて四国遍路』

 図書館で、川端龍子著で画の『詠んで描いて四国遍路』(小学館文庫)という本を最初は時間潰しのつもりで読み始めたが、段々、彼の世界に惹かれていくのを感じていた。
 小生、さすがに川端龍子が高名な画家であることは知っていたし、その大作の幾つかを画集などで眺めたことはある。小生の居住する地域から、川端龍子記念館のある南馬込までは、小生の足でも、三十分もあれば行けるかもしれない。
 なのに、あまりに近すぎるから…というより生来の怠慢と、それ以上に、恐らくはとことん彼の作品に魅了されてはいかなったこと、まして、彼が俳句を嗜んでいたなどとは、上掲書を読むまでは全く、知らなかったのである。
 迂闊だし、不勉強の謗りを免れないところである。
 記念館の正式名称は、「大田区立龍子記念館」のようである。
 このサイトにも明記してあるが、「1963年,日本画家・川端龍子自身によって喜寿の記念に設立された。1991年からは大田区によって運営されている。」という。
「川端龍子自身によって喜寿の記念に設立された」! というところに彼の人となりが現れているのか。
 といって、小生、彼を貶めるつもりで書いているのではなく、むしろ、彼の反骨根性をこそ思い浮かべている(このことは、後述する)。

 龍子記念館探訪記ということでは、ネットで見たかぎりでは、「いづつやの文化記号」の「川端龍子記念館」(2005.07.23)が読んでいて楽しかったし、参考になる。「この美術館は龍子の作品を年4回くらい展示してくれる」というが、一回くらいでは彼の作品世界の全貌には到底、触れられないのかもしれない。
「もう1点、目を楽しませてくれたのが右の“獺祭”(だっさい)。真ん中に僧侶の衣装を纏って座っているのは獺(かわうそ)。獺は水中で捕らえた鯉や鯰をすぐには食べずひとまず、岸に並べておくという習性があり、これを獺魚を祭るという。それで魚が獺の前に並べられている。獺を僧に仕立てているのが面白い」など、ユニークな絵のタイトルのこと、「温泉好きの画家が女性が何人も入ってる温泉郷を幻想的に描いた絵」の紹介など、「“獺祭”(だっさい)」の画像もあって、参考になると思われる。
 このさいとの御蔭で、「江戸東京博物館で龍子の生誕120年を記念した回顧展が10/29~12/11まで開かれる」といった情報も入手することができた。

 川端龍子記念館の画像は、ネットではあまり見つからない。僅かに、「美術館散歩04-05」の中に「龍子 変幻する視点: 川端龍子記念館」という項があり、記念館のエントランスの雰囲気を示してくれているだけである(ちゃんと探せば、建物の全体を示す画像が見つかるかもしれない。建物の画像に拘るのはこの記念館は、上記したように川端龍子自身が設計したからという理由もある)。

 上掲のサイトには、末尾に、「美術館の前には、河津桜が満開であり、龍子公園のなかのアトリエ、本宅、庭などのガイドツアーもあった。龍子が素晴らしい建築の才能も持ち合わせていたこと、なぜ自分がタツの子であると考えたのかなどの説明がよかった」とある。
 時期を選んでいけば、馬込桜並木があるので、馬込文士村の一帯の中でもあり、文化の香りに浸れるかも。
「馬込文士村」については、「馬込文士村とその周辺を歩く - はみだし散策の樂しみ方 -」が参考になる。

「なぜ自分がタツの子であると考えたのかなどの説明がよかった」という微妙な言い回しが気になった方もいるかもしれない。川端龍子の出生は、なかなかに一筋縄では行かないところがある。彼自身も、彼より12歳年下の異母弟・川端茅舎も、彼らの父のことは黙して語らずだったようである。
 詳しくは、「川端茅舎 俳人川端茅舎と思い出の中の親族 森谷香取(川端) 」に当たるのがいいのかも。
 これは、川端茅舎が大叔父である川端清の娘さんの手になる一文なのである。
「45歳を待たずして没した茅舎はその晩年の15年近くをありとあらゆる病魔との闘いに明け暮れた。龍子が言うには茅舎の病歴たるや所謂病気の問屋といった状態で、彼を永く治療にあたられた病院長は「茅舎君のかからないのは産婦人科だけだ」と苦笑されたのだそうだ」などとあって、俳人茅舎を知るにも、必読のサイトかもしれない。
 川端茅舎の俳句については、後日、改めて採り上げることがあるものと思う。今は、「川端茅舎論   渡部芳紀」などを覗くだけに留めておく。

 さて、肝心の川端龍子の画業の一端なりともネットの上で触れておきたい。それには、ざっとネットを見渡したかぎりでは(とても、全体を総覧することはできなかった)、「Jomonjin_Ryuishi_Gallery 川端龍子」が充実している。このサイトの冒頭に、「森谷香取の祖父川端龍子 (文化勲章受章者、近代日本画の巨匠) の画業と主要作品を紹介します」とあるだけに、余計、覗いてみたくなる。
 先に、「彼の反骨根性をこそ思い浮かべている」と書いたが、「前年(昭和3)に院展を脱退した龍子が、1929(昭和4)年に青龍社の樹立を宣言、「健剛なる芸術」の創造を実践してゆく」などといった足跡にも一端が示されている。
 また、龍子記念館という建物の様子を伺う画像が見つからないと不満を上で書いていたが、奇しくもこのサイトに画像が載っている。ラッキーだった。
「金閣炎上」(1950) や、特に「夢」(1951)という作品など、幻想味が漂っていて、こんな世界も描いていたのかと、驚いてしまった。

 さて、川端龍子と俳句との結びつきに触れておきたい。「Welcome to UNIC 有限会社ユニック」の中の、「川端龍子」を覗く(このサイトに限らないが、ネットで検索してヒットした頁の場合、分岐した末端の頁から元の頁やホームページへのリンクが貼ってないのは、困りものだ)。
「龍子と俳句の結びつきは、明治40年ころから始まる。当時、国民新聞社に席を得ていた龍子は同僚のアララギ派歌人・平福百穂と親交を持つ。そして国民新聞社を通じ高浜虚子とも結びついてゆく」とあり、さらに、「昭和19年に先立たれた夏子夫人の冥福を祈り、龍子は川之江市出身の俳人・深川正一郎とともに昭和25年から6年間にわたる四国巡礼の旅をする。その間に八十八ヵ寺の水墨画を描く。そして画に2句から6句程度の俳句とエッセイをしたためた。すでに、この巡礼より3年前に「ホトトギス」同人に推挙されており、ただものならぬ句風を備えている」とあって、大凡を知るには、十分かもしれない。
 この「昭和19年に先立たれた夏子夫人の冥福を祈り、龍子は川之江市出身の俳人・深川正一郎とともに昭和25年から6年間にわたる四国巡礼の旅をする。その間に八十八ヵ寺の水墨画を描く。そして画に2句から6句程度の俳句とエッセイをしたためた」が、これが、『詠んで描いて四国遍路』(小学館文庫)に結実したわけである。
 
 残念ながら、ネットでは、川端龍子の草描作品例を見つけることが出来なかった。なかなかいい味わいなのに。
 どうせ旅するなら、訪れた先で俳句をひねり、川端龍子の草描とまではいかなくとも、俳画の類いをささっと描けるようであれば、実に楽しいと思うのだが。


 以下は、「武蔵小金井パレード(5)」からの転記である:

 武蔵小金井でのパレードを見逃すまいと、追っ駆けに過ぎないとはいえ、小生なりに、苦労(?)もしている。30日の土曜日は運悪くというか仕事。
 小生の場合は、土曜日に仕事ということは、翌日の朝(七時前)にならないと営業が終わらない。多少は早めに帰っても、就寝は八時過ぎ(大概は九時前後)となる。
 幸い、武蔵小金井のパレード開始時間は夕方の七時。
 ちゃんと日中、グッスリ眠れるなら、問題はないが、小生の場合、睡眠障害の気味があるので、昼間は心ならずも、断続的にダラダラと眠ることになる。しかも、近所では改築工事やら下手なピアノの練習やら、蒲団パタパタやら、そして昼間だから当然ながら明るい!
 睡眠のタイミングなどが狂うと、夕方近くになって眠気が再度、襲ってくる恐れもある。
(翌日がタクシーの営業という場合、就寝を早め、眠れなくても睡眠時間帯をたっぷり取っている。しかも、営業中、疲れたり眠くなったら、断固、休憩を取る。この営業時間(休憩時間)の融通の利くところが、タクシー稼業の好きなところの一つ。)
 どうにも、心配でならなくて、小生、とうとう、土曜日の仕事を休むのは憚られたので、早退することいした。夜半前に帰宅しちゃったのである(土曜日など、半勤という制度がある)。
 30日の土曜日は、隅田川の花火大会があったり、電車では人身事故で一部の路線で運行停止となったり、通常より人の出は多かったが、サンバのほうが大事(! いえいえ、タクシーのお客様のほうが大切だと思っております)だから、見逃したくない一心で、早退しちゃったのである。
 不謹慎?!
 ところが、早退も早退、六時間も早く帰ったので、今度は時間を持て余してしまって(午前中は睡眠と季語随筆の執筆で充実していた)、日曜日の午後は、どうしたものか、このまま部屋で燻っていたら、またまたロッキングチェアーで居眠り、惰眠、転寝、ウトウトとしてしまって、気が付いたらパレードの時間を過ぎていたってことになりかねないと心配されてきた。
 なので、居眠りなどできないよう、図書館へ。他人様の目があれば、さすがの小生も少しは緊張するはずなのである。
 そこまではよかったが、こんな時に限って図書館で読みたい本が何冊も見つかる。
 借り切れないので、一冊だけ、図書館で読了してしまった。それは、川端龍子著で画の『詠んで描いて四国遍路』(小学館文庫)という本。
 レビューを示すと、「「愛染」「鳴門」など豪放な大作で知られる日本画の巨匠・川端龍子が四国遍路に出たのは戦後間もない1950年のことだった。龍子は、妻と息子の菩提を弔うと同時に風景画を極めたいと写生帳を携え、65歳から6年がかりで88カ所すべての札所をスケッチしながら巡り終えた。それらは「草描(そうびょう)」と名付けた墨画淡彩の作品として発表されている。『ホトトギス』同人でもあった龍子の俳句と短い探訪記が添えられた全作品を収録。世に数多ある遍路紀行本とは一線を画す、格調高い画文集」となる。
 俳句は、変にひねってなくて平明だし、探訪記も簡潔で且つ人間味に溢れている。が、なんといっても草描(そうびょう)と呼ばれる風景画(多くは札所のお寺を描いている)が素晴らしい。


[本稿は季語随筆日記「川端龍子の世界へ」(2005/08/02)より書評エッセイ部分を抜粋したものです。]

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