« 2006年5月 | トップページ | 2006年11月 »

2006/06/13

川端龍子著『詠んで描いて四国遍路』

 図書館で、川端龍子著で画の『詠んで描いて四国遍路』(小学館文庫)という本を最初は時間潰しのつもりで読み始めたが、段々、彼の世界に惹かれていくのを感じていた。
 小生、さすがに川端龍子が高名な画家であることは知っていたし、その大作の幾つかを画集などで眺めたことはある。小生の居住する地域から、川端龍子記念館のある南馬込までは、小生の足でも、三十分もあれば行けるかもしれない。
 なのに、あまりに近すぎるから…というより生来の怠慢と、それ以上に、恐らくはとことん彼の作品に魅了されてはいかなったこと、まして、彼が俳句を嗜んでいたなどとは、上掲書を読むまでは全く、知らなかったのである。
 迂闊だし、不勉強の謗りを免れないところである。
 記念館の正式名称は、「大田区立龍子記念館」のようである。
 このサイトにも明記してあるが、「1963年,日本画家・川端龍子自身によって喜寿の記念に設立された。1991年からは大田区によって運営されている。」という。
「川端龍子自身によって喜寿の記念に設立された」! というところに彼の人となりが現れているのか。
 といって、小生、彼を貶めるつもりで書いているのではなく、むしろ、彼の反骨根性をこそ思い浮かべている(このことは、後述する)。

続きを読む "川端龍子著『詠んで描いて四国遍路』"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日高 敏隆著『動物と人間の世界認識』

 日高 敏隆著の『動物と人間の世界認識』(筑摩書房)を昨日も車中で待機中などに読んでいたが、文中、興味深い記述に出会った。
 一つは、『万葉集』には、蝶(チョウ)は登場しない、というのである。
 あるいは、『万葉集』など古典に詳しい人には、そんなこと、常識だよ、ということかもしれないが、小生には初耳(あるいは、初めて耳に残った)の知識だった。
 ちょっと、唐突な話題だったかもしれない。
 人間の認識は、その時代においてのイリュージョン(環世界)の中に制約されており、「万葉集」の時代にあっても、チョウは現実には飛び交っていたし、目にもしていたはずなのに、意識には上らない、だから歌の世界にも取り込まれようがなかったというのである。
 つまり、「これは万葉集の人びとの世界の中に、チョウは存在していなかったからではないか」というわけである。
 念のために断っておくと、本書にも注記されているが、チョウは「万葉集」に、歌の説明の文章の中の言葉としては登場している。それも、中国の古典からの引用文に過ぎない。
 ちなみに、小生が折々覗くサイトである「たのしい万葉集」によると、『万葉集』には、獣(けもの)や魚(さかな)以外では、「蜻蛉(あきづ)」「 蟻(あり)」 「蚕(かいこ)」「 蝦(かはづ)」「亀(かめ)」「 蜘蛛(くも)」「 蟋蟀(こほろぎ)」「しじみ」「 蝉(セミ)」「はえ」「 ほたる」「 まつむし」などの昆虫や生き物等が登場するという。
「蝶(チョウ)」については、「蝶(ちょう)は春の花をより引き立たせる生き物だと思うのですが、万葉集には一首もありません。大伴家持(おおとものやかもち)の歌の説明に登場するだけなのです」とある。中国の典籍からの引用文(漢文)も上掲のサイトで読むことが出来る。
 要旨も示されているので、覗いてみてほしい。
 何故に「蝶(チョウ)」が「万葉集」には(説明文以外には)登場しなかったのか、歌に詠まれなかったのか、などと問うことは、頓珍漢な問いなのだろうか。昆虫の中でも「蜘蛛」や「蟻」より詠われていてよかったはずなのに。
 尚、本書『動物と人間の世界認識』によると、『古事記』にも「チョウ」は登場しないとか(小生は未確認)。

続きを読む "日高 敏隆著『動物と人間の世界認識』"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

動物と人間の世界認識/おまえはケダモノだ、ヴィスコヴィッツ

 偶然だろうか、似た傾向の本を読んでいる。
 一冊は、日高 敏隆著の『動物と人間の世界認識』(筑摩書房)で、本書はまだ読みさしだが、ちょっとだけ触れさせてもらうと、ヤーコブ・フォン・ユクスキュル(著の『生物から見た世界』(日高敏隆訳、思索社)←まさか絶版?!)の「環境世界(Umwelt)」論や棲み分け理論の故・今西錦司の「生物の主体性」論などを踏まえているようである。
 後者の今西錦司氏の理論は、三十年以上も昔、接したことがあるが、どこか情緒的な感じがあって、いかにも日本的な理論のようにも思え、小生は好きになれなかった記憶がある(「今西錦司の世界」を参照)。
 そうはいっても、小生のこと、何処まで理解できていたか、危ういものであるが。
 前者のユクスキュル著の『生物から見た世界』は、とにかく非常に面白かった。学生になった翌年くらいに書店で発見し、一気に読んだ。
 松岡正剛氏の評を借りれば、「自然はひとつではありえず、自然像もひとつではありえない。すべての動物それぞれが異なる知覚と作用のメカニズムによって、それぞれ別の自然観を具体的に携えて生きているものなのだ。そのような “Umwelt” を、総じて自然とか世界とよぶのはまったくおかしなことなのだ」ということになる。
 Umwelt=環境世界は、あくまで数知れずいる動物種それぞれに固有のものなのであって、<環境=世界=自然>なるものが唯一のものとして客観的に存在する訳ではないのだと主張する。
 日高敏隆氏に依れば、ユクスキュルの理論は、マルクス理論全盛の世にあっては、評判が悪く、一部の人に熱狂的に受け入れられただけに終わったとか。
 日高敏隆氏は、動物の、当然ながら人間の環世界を岸田秀氏なら<幻想>と規定するところをイリュージョンといった概念を使ってより深く探求し説明している。
 この辺りは、後日、改めて採り上げるかもしれない。

 もう一冊は、アレッサンドロ ボッファ(Alessandro Boffa)著『おまえはケダモノだ、ヴィスコヴィッツ』(中山 悦子訳、河出書房新社)で、これも半分ほど読んだところなのだが、なかなか面白い。

続きを読む "動物と人間の世界認識/おまえはケダモノだ、ヴィスコヴィッツ"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ゼブロウスキー著『円の歴史』

 このところ、丹羽 敏雄著『数学は世界を解明できるか―カオスと予定調和』(中公新書)を読了し、今はアーネスト・ゼブロウスキー著『円の歴史―数と自然の不思議な関係』(松浦 俊輔訳、河出書房新社)を読んでいるなど、数学の啓蒙書を読む機会が多い。
 今は、昨年来の人気の本、小川洋子著『博士の愛した数式』(新潮社)を予約待ちしている。

 数学の本については書評など書けるはずもなく、感想文を綴ることさえ、覚束ない。
 丹羽 敏雄著『数学は世界を解明できるか』は、レビューによると、「天動説は数理モデルを構成して数学的に天体運動を説明する試みである。ガリレイは地上運動にも数理構造があることを示し、ニュートンはそれらを土台に近代的力学を創った。数学の発展がそれを可能にした。現象の基礎にある法則とその数学的表現である微分方程式が示すのは単純さと美しさをもつ予定調和的世界である。しかし、コンピュータの出現は自然の内包する複雑さを明るみに出した―。現代科学思考の到達点を平易に叙述」とのことで、まあ、車中では楽しませてもらったというところ。

 アーネスト・ゼブロウスキー著『円の歴史』は、適当に読み流すつもりでいたが、案外と洞察に満ちていて発見の本だった。だから、後日、感想文を綴ってみるかもしれない。

続きを読む "ゼブロウスキー著『円の歴史』"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

野本寛一著『栃と餅』

 野本寛一著の『栃と餅 ―― 食の民俗構造を探る ――』(岩波書店刊)を読了した。こうした地味な好著を手にしえるのも図書館だからこそ。自腹でとなると、情なくもためらってしまう。買いたい本、読みたい本は枚挙に遑のないないほどにある…そんな中で本書をとなると、二の足を踏んでしまっただろうことは間違いない。
 この本が図書館に行った際に、入口付近の新刊コーナーにあったこと、まだ誰にも借りられないであったことは、運が良かったというしかない。
 それとも、多くの方の目には素通りしていくだけの本なのだろうか。この手の本と言うと、柳田國男や折口信夫を筆頭に数知れずあるだろうが、そんな中でも一読してみると地味な感がある。
 それは、筆者が自らを語ることが少ないからだろうか。読み手としては、筆者が足と体で見聞きし、集めた貴重な証言や画像のあれこれを読み眺めるのは楽しいが、探し回る際の筆者の息遣いや汗も、もう少し感じたい。

 さて、上掲の岩波書店の案内によると、「今やグルメブームの名のもとに,ファストフードとスローフードが入り乱れ,食文化は大混乱している.しかし食の民俗を注意深く眺めてみると,食とは何よりも生きるためにあり,そこから儀礼のための食が生まれ,楽しみのための食にいきつく.長年の調査から先人たちの食に関する伝承知を描き,この列島の人々の食に関する嗜好の伝統が姿をあらわす」と説明されている。

続きを読む "野本寛一著『栃と餅』"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年5月 | トップページ | 2006年11月 »