日高 敏隆著『動物と人間の世界認識』
日高 敏隆著の『動物と人間の世界認識』(筑摩書房)を昨日も車中で待機中などに読んでいたが、文中、興味深い記述に出会った。
一つは、『万葉集』には、蝶(チョウ)は登場しない、というのである。
あるいは、『万葉集』など古典に詳しい人には、そんなこと、常識だよ、ということかもしれないが、小生には初耳(あるいは、初めて耳に残った)の知識だった。
ちょっと、唐突な話題だったかもしれない。
人間の認識は、その時代においてのイリュージョン(環世界)の中に制約されており、「万葉集」の時代にあっても、チョウは現実には飛び交っていたし、目にもしていたはずなのに、意識には上らない、だから歌の世界にも取り込まれようがなかったというのである。
つまり、「これは万葉集の人びとの世界の中に、チョウは存在していなかったからではないか」というわけである。
念のために断っておくと、本書にも注記されているが、チョウは「万葉集」に、歌の説明の文章の中の言葉としては登場している。それも、中国の古典からの引用文に過ぎない。
ちなみに、小生が折々覗くサイトである「たのしい万葉集」によると、『万葉集』には、獣(けもの)や魚(さかな)以外では、「蜻蛉(あきづ)」「 蟻(あり)」 「蚕(かいこ)」「 蝦(かはづ)」「亀(かめ)」「 蜘蛛(くも)」「 蟋蟀(こほろぎ)」「しじみ」「 蝉(セミ)」「はえ」「 ほたる」「 まつむし」などの昆虫や生き物等が登場するという。
「蝶(チョウ)」については、「蝶(ちょう)は春の花をより引き立たせる生き物だと思うのですが、万葉集には一首もありません。大伴家持(おおとものやかもち)の歌の説明に登場するだけなのです」とある。中国の典籍からの引用文(漢文)も上掲のサイトで読むことが出来る。
要旨も示されているので、覗いてみてほしい。
何故に「蝶(チョウ)」が「万葉集」には(説明文以外には)登場しなかったのか、歌に詠まれなかったのか、などと問うことは、頓珍漢な問いなのだろうか。昆虫の中でも「蜘蛛」や「蟻」より詠われていてよかったはずなのに。
尚、本書『動物と人間の世界認識』によると、『古事記』にも「チョウ」は登場しないとか(小生は未確認)。
『動物と人間の世界認識』には、『聖書』にも、「新約、旧約をとおして、チョウは一回も出てこない」と書いてある(小生は未確認)。
まあ、欧米は聖書に影響されているが、そもそも神の似姿たる人間に焦点が合っていて、動物(獣)類はともかく、昆虫類など、ノアの方舟に積み込まれる動物たちの仲間にもあったかどうか(←この点は、機会があったら調べてみたい)。中東にチョウがいなかったはずはない(のだろうか。この点も調べる余地があり)。
『動物と人間の世界認識』によると、「『古事記』にはトンボはたくさん出てくる。「あきづ」という名前でである」として、「雄略天皇の腕にアブがとまって血を吸おうとしたとき、トンボがやってきて、アブを食ってしまった。天皇は、トンボはすばらしいとほめ、日本をあきづしまと名づけたと、詳しい記述がある」と続く。
まあ、「あきづしま」という呼称は小生も知っている。
さて、上掲書によると、『万葉集』の世界になると、トンボはまったく登場しなくなる。トンボを意味するはずの「あきづ」ということばは二回しか登場せず、しかもあきづ島、あきづ野という地名で出てくるだけである。生きていてアブを捕まえて食べるトンボとしては登場しない。しかし万葉集の時代にもトンボは当然存在していたはずである。」という。
が、「たのしい万葉集」によると、「万葉集」には、「あきづ羽の袖振る妹を玉櫛笥」(第三巻 )なる歌があるとか(何故か歌の全文が出ていない。「あきづ羽の袖振る妹を玉櫛笥奥に思ふを見たまへ我が君」のようだが。原文は全文が出ている…)。
意味は、「トンボの羽のように透き通った衣の袖を振って踊りを舞っている人のことを、私は心の底から慕っています。さあ、皆さん、見てやってくださいな」だとか。
確かに飛ぶトンボ、生きているトンボというよりも、トンボに仮託されたイメージが歌に使われているだけ、ではある。が、「あきづ島、あきづ野という地名」以外の登場例であることは間違いないような。
さらに、上掲書によると、「チョウとの関係で述べておくが、旧約聖書研究者の池田裕氏によると、『旧約聖書』にもトンボは出てこないそうである」とか(本書に興味深い記述がある。興味ある方は本書をどうぞ)。
ということで、本書『動物と人間の世界認識』では、以下のような結論に至るのである:
『古今集』、『新古今集』になると、チョウもガも出てくる。しかし『万葉集』には現れていない。それは『万葉集』という古典が、当時の自然のウムゲーブング(環境)を詠ったものではなく、万葉の人びとが彼らのイリュージョンに基づいて構築していた世界を詠ったものだからである(日高敏隆・森治子「万葉時代の人と動物」中西進編『万葉古代学』大和書房、二〇〇三年)。そしてこのことは『万葉集』や『古事記』や『古今集』、『新古今集』ばかりでなく、古典といわれるものすべてに言えることである。
さて、以下の話は少々恥ずかしいのだが、まあ、本当のことだから仕方がない。
まずは、本書から当該の箇所を引用しておく:
たとえば、哺乳類のひとつとして、イサナすなわちクジラが出てくる。しかし、このイサナが登場する歌を順番に見ていくと、クジラの現実の姿をあらわしたものはひとつもない。狩る様子を述べた歌もない。全部で一二回現れるイサナという言葉は、すべてイサナとり(クジラ取り)という言葉として現れている。これまでに詳しく行われている万葉集の研究でよくわかっているとおり、このイサナとりという言葉は、「海」の枕詞になっていて、「いさな」ということばが単独で現れることはないのである。 結局、万葉集のなかのイサナとは、生きた現実のクジラのことをいっているのではなく、クジラという巨大な生き物が存在している、広いおそろしい海という、当時の人びとが何らかの知識として話に聞いていて、そこから構築した世界のことを表現しているに過ぎない。これはある種のイリュージョンである。同じようなことが、他の動物にも言える。
として、ホトトギスやウグイスの話に続く(これも、興味深い話だが、略す。本書をどうぞ)。
さて、恥ずかしい話とは、小生、「イサナすなわちクジラ」だということに初めて気が付いたからである。
ゲッ、イサナってサカナのことじゃなかったの。小生、てっきりサカナとばかり思っていたんだけど。
困った時の「たのしい万葉集」で、また、お世話になる。「万葉集: 鯨(くじら)を詠んだ歌」を覗くと、「鯨(くじら)は「いさな」と呼ばれていました。セミクジラ・ナガスクジラ・コクジラなどをはじめ、イルカなども含まれます。日本近海にやってくるのは、冬が中心ですが、夏にも現われることもあります」と書いてある。
ああ、そうだったんだ。そういえば、「鯨魚(いさな)取り」という表記が歌に幾度も出てくる。小生、一体、何処を見てたんだろう。グシュン、である。
また、「歌の中では、「いさなとり」として浜・海・灘(なだ)を導いています」と「楽しい万葉集」にはあって、「イサナとりという言葉は、「海」の枕詞」だという日高氏の説を裏書してくれる(別に日高氏を疑っているわけじゃないのよ)。
一つだけ歌を詠んでみる。「鯨魚(いさな)取(と)り、海や死にする、山や死にする、死ぬれこそ、海は潮(しほ)干(ひ)て、山は枯(か)れすれ」である。
「海は死にますか?! 山は死にますか?! (いいえ、海も山も死ぬのです)死ぬからこそ、海は潮が干(ひ)いて、山は枯(か)れるのです」と意味を示してくれている(さだまさしさんの「防人の詩」って、この辺りも踏まえているのだと、初めて気がついた)。
この歌の評釈の最後に、「「鯨魚(いさな)取(と)り」は「海」を導く枕詞(まくらことば)です。鯨魚(いさな)は鯨(くじら)のことです」と、小生の止めを刺すように、再度、「鯨魚(いさな)」の説明が付されている。
ところで、日本で捕鯨が始まったのは、いつからだったのだろう。「たのしい万葉集」によると、「貝塚から骨が見付かっていることから、かなり古くから鯨を利用していたと考えられます。ただし、本格的な捕鯨技術が始まったのは16世紀ころからのようです。余談ですが、ペルーなどが日本に開港を迫ったのは、当時米国でも捕鯨が盛んで、捕鯨船の補給基地を求めてのことでしたね」とか。
そうだったんだよね。ペルーが来たのはクジラを追いかけてのことだったのだ。クジラの御蔭で(クジラが好きなペルーさんの御蔭で)日本は開国に至ったのだった(極論)。
上掲の引用文では、貝塚にクジラの骨が見つかるとあり、「かなり古くから鯨を利用していたと考えられ」るとあるが、時期の問題が定かではない。
「第12回 鯨肉がまぼろしに変わるまで」を覗くと、「日本人と鯨との関わりは、貝塚の中から鯨の骨が見つかることから、遠く縄文時代まで遡ることができる。ただし、捕鯨が事業として確立されたのは江戸時代の慶長17年(1612年)のことで、和歌山の太地にいた和田頼元が網を使って組織的な鯨漁を始めてからという」とある。
「日本海捕鯨の起源と発達―真脇遺跡から出土したイルカ」(日本海捕鯨の起源と発達 講師 金沢医科大学教授 平口哲夫 氏)を覗くと、「真脇遺跡から出土したイルカ」についての話に続いて、「クジラ漁の起源と盤亀台の壁画」なる項が興味深い。
「問題は、描かれた年代であるが、これはまだはっきりしていない。韓国南部で、縄文時代晩期から弥生時代にかけての時期にクジラ漁が行われていたとすれば、日本海側、特に北九州でも同様にクジラ漁をやっていた可能性は十分考えられる。盤亀台岩刻画の発見以前に、北九州では古墳時代あるいはそれ以降の「捕鯨図」らしき壁画がいくつか知られていた。盤亀台岩刻画の発見により、これら「捕鯨図」がまさしく捕鯨を描いたものである可能性が出てきた」というのである。
さらに、「韓国南部から北九州にかけての海岸地域や能登半島や富山湾側において、イルカ・クジラの骨が出てくる率が高いということは、イルカやクジラが漂着しやすい、あるいは捕獲しやすいといった条件下にあったと考えられる」とも。
また、「北九州から西南九州にかけての縄文時代の中期以降の遺跡からは鯨底土器(クジラの椎骨の椎端板を土器製作のマットに使用した結果、土器の裏底に椎端板の圧痕がついたもの)が出土している。この鯨底土器が特定の時期・地域に分布していることから、その時期・地域に捕鯨が行われていた可能性が指摘されている。縄文人が大きなクジラを捕ることは技術的に十分可能だったと思われる」とあって、縄文人の段階でクジラをどんな形にしろ採っていたと思ってよさそうである。
すると、「万葉集のなかのイサナとは、生きた現実のクジラのことをいっているのではなく、クジラという巨大な生き物が存在している、広いおそろしい海という、当時の人びとが何らかの知識として話に聞いていて、そこから構築した世界のことを表現しているに過ぎない」という日高氏の説はどうなるのか。
あるいは、「万葉集」に登場する人々、当然ながら編纂する人(びと)も含め、海の漁のことは知識の上では知らないことはなかったが、クジラ漁など全く知らないか、噂をホノ聞いたような人びとだったということは考えられる。日本の国土に従来から居住していた人びとの文化は野蛮なもので、渡来の文化人には縁遠いものだったのかもしれない。
だからこそ、まだ、クジラ漁もだが、日本には有り触れたチョウも、支配層の文化人たちの視野のうちには、未だ入ってきてはいなかったのかもしれない。
それにしても、日高 敏隆著の『動物と人間の世界認識』(筑摩書房)はなかなか面白いのに、本の題名が堅苦しすぎる。イリュージョンを「環世界」や「幻想」に代わって標榜するのなら、「イリュージョンを生きる」と題して、その副題にその題名を付したらと思ったりする。
[本稿は、季語随筆日記「チョウよトンボよクジラよ」(2005/07/29)より書評エッセイ部分を抜粋したものです。]
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