廃仏毀釈補遺…関秀夫
[ 本稿は、季語随筆「廃仏毀釈補遺」から書評エッセイ部分を抜粋したものである。 (06/05/04 アップ時注記)]
本季語随筆の「出発は遂に訪れず…廃仏毀釈」(July 01, 2005)において、「廃仏毀釈」について若干、触れておいた。
偶然というものか、今、車中で読んでいる関秀夫著『博物館の誕生―町田久成と東京帝室博物館』(岩波新書)の中で、まさにこの件について触れている章があった。「廃仏毀釈」についてはネットでも情報は少なからず見出せる。が、自分の勉強のためにも、本書の記述をネット世界に参入させておくべくメモしておく。
その前に本書の性格に付いて触れておくべきだろう。書評エッセイを綴るゆとりはないので、出版社サイト(岩波新書 博物館の誕生)をリンクさせておく。
紹介文もいいが、画像が岩波新書よりも大きいし見易かったりするのが嬉しい。
冒頭付近に、「現在、博物館の裏庭に残っている一つの石碑の紹介からこの本は始まります。それは、初代館長、町田久成を顕彰する碑文です。今ではほとんど忘れられてしまった人物ですが、この町田久成こそ、東京国立博物館の前身となる東京帝室博物館の創設に生涯を捧げた、博物館誕生の生みの親というべき人なのです」とある。
この町田久成は、政争の混乱(「英国王子の接待をめぐる政争にまきこまれて外交官として挫折」←上掲の岩波のサイトより)で出世コースからは外れてしまったけれど、場合によっては大久保利通にも匹敵する国家の枢要な人物たりえたはずの人材だった。
事情があって博物館の誕生に携わるが、その経過でも大久保利通などとの交流が見え隠れする。
「私財を投じて、古書・古美術品を買い求め、少しでも散逸を止めようとした彼は、文化財調査や保護を提唱し、自ら実践した最初の人物といってよいでしょう」という町田久成のことは、頭の片隅に置いておいてもいいかもしれない(「町田久成墓」より)。
「いまに残る東京国立博物館の膨大なコレクションは、急激な明治の欧風化と開発の波の中で、町田久成が守り抜いた日本人の大きな遺産でもあ」り、「博物館づくりを通して、新興日本の国威と特色ある民族の伝統を欧米に示したいとする、若い町田久成の熱い思いが込められている」というが、実は「廃仏毀釈」という悲劇も深く関わってくるのである。
失われていく文化財
幕末から明治初年にかけて、急速に広まった各方面の西欧化の波と、神道の国教化をすすめる神仏分離の政策が、日本の伝統的な文化を否定する動きに拍車をかけ、やがて、破壊的な様相をみせてきた。廃仏毀釈と呼ばれる一連の神仏判然令は、神職を兼帯する僧侶に還俗を命じ、仏像を神体とする神社に対しては仏像を撤去するよう通達し、神職者の仏事関与を禁止し、これまで定着してきた神仏混在の日本的宗教の信仰形態に大きな混乱を招きはじめた。
破壊はまず比叡山の麓からはじまり、火の手はまたたくまに全国にひろがった。大津市の日吉山王権現社は、延暦寺の支配下にあった仏教と神道の複合的性格の濃厚な神社であったが、明治元年に神職者たちが境内の社殿になだれ込み、祭壇にまつってあった仏像や仏具をことごとく持ち出して焼き払った。
鎌倉時代から続く鎌倉の鶴岡八幡宮は、維新まで、境内に八幡社を中心に、薬師堂、観音堂、法華堂などの仏堂と仏塔を配置し、神職者の墓は近くの扇ヶ谷の浄光明寺にもうけるなど、仏教色を濃厚にそなえていたが、明治三年に薬師堂、護摩堂、大塔、経堂、仁王門などを取り払い、由緒ある仏像や仏具は持ち出され経典も散逸した。
春日神社と結びついていた奈良の興福寺の場合は、とくに被害が大きかった。いまでも、奈良公園の一角にわずかに残る五重搭。東金堂、大湯屋、南円堂、北円堂などは、難をまぬがれたが、ほかの御堂はすべて破壊され、寺の収入源であった寺領は没収、その上に僧侶たちをすべて春日神社の神職者に改めた。現在では国宝に指定されている、猿沢池のほとりに立つ五重搭は、このとき競売にかけられ、わずか三〇〇円(一〇円という話もある)という安値で古金商に落札された。購入した業者は木造部分を焼却して、売却できる金属部分だけを取得するために搭の周囲に薪を積み上げていたところ、これを聞きつけた付近の住民たちから猛烈な反対を受けて中止し、かろうじて破壊をまぬがれたという話も残っている。もっとも、住民たちに文化財保護の意識があったわけではなく、ただ自宅に飛び火して類焼するのを恐れただけの反対騒ぎだったという。
地方でも各地の寺院で原因不明の火災が相次いだ。またこの機に乗じて、組織的に中小の寺院の統廃合をきめ、村落からの僧侶を排除するところもあり、いたるところの沼地や道ばたに、仏像や仏具が投げ捨てられる、という痛ましい結果を招くことになった。東京では、小石川の伝通院や芝の増上寺などに対し、境内の神社の取り除きが命じられ、由緒ある彫刻や絵画などが除去された。
また、古くから多くの人々の信仰を集めてきた、神仏の混在する山岳信仰の寺院の場合は、神か仏かの選択を迫られた。仏教的な行者の勢力が強かった奈良県の金峯山(きんぷせん・きんぶせん)では、山上の蔵王堂の前に建ててあった鳥居を撤去、堂内から神像や神具をはずし、平安時代から「役行者の行道跡」と呼ばれていた霊地付近に投棄した。
もともと神道色の濃かった和歌山県の熊野那智山では、夫須美(ふすみ)神社(那智大社)の神職者とお滝の行者(滝本家)たちが、社殿の中から仏像や仏具を取りだし、さらには山内の仏堂を破壊して、如法堂などの堂内から多数の仏具を持ち出し、お滝の入口付近に大量に投棄した。そのあとが大正時代に発見されている。
閻魔像で知られる奈良の高円山の麓の白毫寺や、優雅な吉祥天像と九体仏で有名な京都南部の浄瑠璃寺も無住となり荒れるにまかされた。南都七大寺の一つの大安寺もまた荒廃して無住であったが、堂宇の中から引きずり出された木彫仏は、こもに包まれて付近の田圃に投げ込まれた。その後救出され、いまでは国の重要文化財に指定されているが、からだには当時の惨状を思い出させるいたましい傷跡が残っている。
こうして、寺院の堂宇や没落した旧家から投げ出された絵画や仏像などは、安値で欧米人に買い取られて大量に海外に流出した。各地の中小の無住寺院の荒廃もひどく、伝統的な古器旧物の破壊と散逸は、目を覆いたくなるほどの惨状であった。小さな仏像は、海を渡るすがたを風雨にさらしていたが、ときには、これを見かねた僧侶が自坊に持ち帰る姿もみられた。そのときのものと伝えられる小さな仏たちが、今も都内の寺院の御堂の片隅に眠っているのを、ときおり見かけることがある。
戒律の厳しい奈良の唐招提寺や聖徳太子ゆかりの法隆寺では、堂宇や仏像の破壊は免れたものの、経済基盤である寺領を取り上げられたために、僧侶たちの日常生活もままならない状態に陥り、古くから伝えられてきた貴重な古文書を、かまどの焚きつけに使ってしまうという情ないありさまであった。奈良市内の旧家には、そのころ、法隆寺や唐招提寺、海竜王寺などから、寺僧が持ち出して酒代のかわりに使った、寺印のある一切経の片割れが多数伝わっている。
こうした廃仏毀釈による宗教界の混乱もあったが、ハイカラ好みの維新政府が、西洋の新技術を導入する代償として支払う日本文化や伝統の否定を国家的には大きな損失であると受け止めて、これを憂う声が心ある知識人たちの間に次第に広まっていった。
初めての文化財保護法(古器旧物保存方)
内政的には、天皇を祭主とする祭政一致の確立をめざす維新政府の方針は、廃仏毀釈というかたちで人心と文化財を破壊してきた。また国家の近代化という名のもとに、旧体制の中で育てられた優れた守旧的人材を社会から排除し、いたずらに西欧化をいそぎ、殖産興業と富国強兵を推し進めると称して社会構造に急激な変化を与え、旧来の道徳観や価値観を否定して国民の精神生活を不安定にしてきた。こうした時流の中で、社会的に切り捨てられたものの一つに、日本の歴史的文化財があった。
(以上、転記終わり)
以下、この関連の記述は続くのだが、まあ、ここまででも、当時の様子は伺えると思うので、ここで転記はやめておく。
ただ日本の宗教というのは土俗性が濃厚で、神仏の習合(混在)という性格を六世紀からの伝統して保ってきたという点は、もう少し自覚した方がいいのかもしれないと思う。
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