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2006/05/04

レイチェル…島尾敏雄…デュ・モーリア

[ 本稿は、季語随筆「読書雑録」から書評エッセイ部分を抜粋したものである。   (06/05/04 アップ時注記)]

 ほかでも書いたが、結構、充実した読書体験を重ねている。昨年の四月から書籍の購入を控え、その代わり、昨年末から図書館通いを再開。
 自分で買うとなると、新聞などの書評や広告を頼りに、多くは書店での立ち読み、時には本を見た最初の印象だけで買ったりする。が、無制限に買える筈もなく、どうしても、自分の好みの分野、それも、従来の読書経験でそれなりの好感触のあった分野や著者の本を買うことになりがちである。
 が、図書館となると、懐具合を気にせずに済むので、手にする本の分野を大幅に広げることができる。たとえば、リンダ・リア (Linda Lear)著『レイチェル―レイチェル・カーソン『沈黙の春』の生涯』(上遠 恵子訳、2002/08東京書籍刊)などは、関心はあるから書店で目にしたら手に取ることはあるかもしれないが、しかし、大部の本ということもあり、また、伝記という性格もあって、購入は躊躇っただろう。
 というか、まず、買わなかったに違いない。
 が、図書館からの借り出しなので、とりあえず持ち帰り、読んでみて、つまらなかったら返却すればいい。最後まで意地を張って読み通す必要もない。結構、気楽である。

 さてこの本、小生には発見といっていい本だった。作家らについての評論、評伝的な本は、小生は買わないことにしている。昔なら、時間が無尽蔵にあるかのような感覚があって、好奇心の導くがままに何にでも手を出していたが(今から思えば、なんて贅沢なことだったろう)、読める本の数は限られている。年間、百冊あまり、この先、長生きしても二千か三千冊も読めるかどうか。
 だったら、誰かについて、何かについての、周辺を書いた本ではなく、読むに値する書き手の、その書かれた本をこそ、まず読むべきだし、そのように限定してさえも、なかなか手の付けられない作家・書き手は数えきれないほどにいるのである。
 だから、書店だったら、パラパラと捲って、棚に返しただろう。が、図書館の本なればこそ、敢えて手にし、読み始め、こんな素晴らしい本があったのだと拾い物をしたという感激をしたのだった。
 レイチェル・カーソンの人間性、文学性、表現力の豊かさ、科学者の観察眼と分析力、女性であるというハンディ、難しい子育て、ついに死の病となったガンとの戦い、彼女の研究と著作への壁となった産業界や役所(役人)との戦い、そして決め手となるのは、彼女の詩情溢れる文章。こういった世界には、多分、書店では出会えていなかったと思う。
 何故、書店ではダメだったと思うのか。それは、なんといっても彼女の著作である、『沈黙の春』へのあまりに高名すぎて読んでしまったかのような感覚、今更、読み直すのも面倒だという感じ、どうせヒステリックに、声高に環境破壊への警告を発しているのだろうし、感受性も自らの正義感への揺らいだ信頼もあって、要するに億劫だったのである。
 でも、詩情溢れる、しかし科学者の目と相俟った世界が表現されているとなると、話は違ってくる訳である。
 といいつつ、小生は、『沈黙の春』はまだ、読んでいない。これから借りて読むつもり。ただ、その前に、上掲の評伝『レイチェル』を読んだことは、一個の体験に近いものだったとはメモしておきたいのである。
 
 同時に並行する形で、島尾敏雄著の『死の棘』を、さらには一緒に併載されている『出発は遂に訪れず』をも読了した。『死の棘』も、『レイチェル』同様、四十日余りをかけて、ゆっくり読んだ。『死の棘』は戦後日本文学最高の仕事のひとつという呼び声もあることは知っていたが、やはりこれも『レイチェル』とは違った理由で読むのが億劫だった。確か、学生時代に読み齧った記憶があるが、重苦しくて、正直、鬱陶しくて、うんざりし、冒頭の数十頁でギブアップしてしまった。
 学生時代から読み漁ってきた埴谷雄高とは島尾敏雄は同郷ということ、そして埴谷雄高らが島尾を高く評価していることは知っていたが、これまた、あまりに幾たびも噂を聞いていて(対談や評論の中で島尾への言及に触れてきて)、どこか食傷気味になってしまったのである。
 今度、じっくり彼の世界に付き合ってみて、この『死の棘』は、なるほど、夫婦の、まさに夫婦同士でなければ分からぬ機微などが描かれていて、しかも、奥さんは狂気の淵に立ったりしたわけだし、その奥さんととことん付き合おうというのだから、息苦しさはたとえようもないものがあったりするのだが、さはさりながら、段々と、読み進めていくうちに、痴話喧嘩や夫婦ののろけ話を印画紙のネガの色彩で見せ付けられているようで、しまいには、いい加減にしろよ、のろけ話も大概にしろよといいたくなってしまったりする。
 むろん、描かれる世界は憂鬱の極みなのだが、夫婦でなければ分からぬ味わいが、これでもかというほどに見せ付けられているような錯覚に陥りそうになるのである。
 最後まで退屈させることなく、本来は同じことの繰り返しであり、大したストーリーが展開するわけでもないのに、じっくり読みとおさせる力量と表現力の秘密がそこにはあるのかもしれない。
 そうはいっても、奥さんが、日常の甲斐甲斐しい働き振りをしているかと思うと、ふとした瞬間に鬼の形相になったりする、しかも、その切っ掛けが分かるようでいて分からないので、無数の地雷の埋まる日常という戦場にいるような気分にさせられて、下手なスリラーよりははるかに凄みのある恐怖感も味わえる余禄(?)もある。

 偶然だろうが、『死の棘』の世界に浸っていた或る日、ラジオから『死の棘』の話題が聞えてきた。一瞬、ドキッとしてしまった。高橋惠子らのキャストで『死の棘』の公演をやる、その宣伝ということでか、高橋惠子へのインタビューがされていたのだった。
 おお、高橋惠子とは、昔の関根恵子ではないか。小生は、『おさな妻(1970)』の頃からのファンなのである。「高校生ブルース」は見逃してしまったが、えっ、こんな清楚(そう)な方がヌードになるの! と、見せちゃダメ、ボクだけに見せて! と思いつつ、かぶりついて見たものだった。
『死の棘』は、松坂慶子主演(小栗康平監督)での映画化もされている。これも観ていない。松坂慶子のファンだというのに。

 さて、いずれにしても、『死の棘』は、文学的に重過ぎて小生の手に余るので、感想文も含めて、書評エッセイは書かないつもりである(『出発は遂に訪れず』は、いつか触れるかもしれない)。

 さらに同時並行の形で、何冊かの本を読んできた。『西暦535年の大噴火』は、もしかしたらトンデモ本かと若干、警戒しつつ読んだのだが、結構、信憑性があるとわかった。この本については、図書館で偶然、見つける数ヶ月前に、なぜか感想文を書いている→『山焼く』『番外編「山焼く」
 読後の感想文は敢えて書かないが、たとえば、永井俊哉氏による、「仏教伝来の謎を解く鍵,」と題されたレビューは紹介しておきたい。「西暦535年、史上空前の火山爆発が起き、その後一年以上も太陽が暗くなり、洪水・干ばつ・ペストが全大陸を覆い、無数の人々が亡くなったことを実証した、英語圏では話題の本。日本の読者にとっては、この大噴火の後に仏教が伝来したことが興味深い。著者は、この事件が現代と古代を画期すると言うが、それほどのインパクトがあったかどうかは、疑問である。しかし、本書の調査対象は、ヨーロッパ・アフリカ・アジア・アメリカにおよんでおり、地球史の一体性を実感させてくれるという点で、一読の価値がある」という。
 特に、個人的には、日本への仏教の伝来との絡みで、実に興味深かった。
 この点については、以前も紹介したが、永井俊哉氏による「なぜ仏教は日本で普及したのか」という論考が参考になる。

 他にも、谷川 渥著『鏡と皮膚―芸術のミュトロギア』(ちくま学芸文庫2001/04刊)を読了し、今は、デュ・モーリア『レイチェル』などを読みかけている。後者は、冒頭の数頁を読んだだけで、はやくも作品の世界の虜にさせてくれている。
 そのあとは、いよいよデュ・モーリアの『レベッカ』だ。何処の書店を回っても書架には見出せなかった。既に忘れられた作品なのだろうか。ドラマ化もされたはずなのに。

 さて、今日中には、小生の好きな書き手であるオリヴァー・サックス著(Oliver Sacks原著),の『タングステンおじさん―化学と過ごした私の少年時代』(斉藤 隆央訳、早川書房刊)を読了するはず。刊行されていることは知っていたが、タイトルに引っかかるものがあって、手を出せないままに、書籍の購入断念の時に突入してしまった。その本に図書館で遭遇。即、ゲット。
 この本も、ひたすらに面白い。感想は、上掲のレビューに尽きている。「本書を読み終えた感想はこのひと言だった。本書のテーマは無機化学だ。無機化学というといかにも無味乾燥な響きがして、実際、味気のない啓蒙書が多いものだが、著者が描き出す世界はこの上なく豊かに彩られていた。電球のフィラメントを作る会社経営者であるタングステンおじさんをはじめ、具体的で博物学的な知識を教えてくれる面々はまるで生きた博物館だ。水銀に浮くタングステンの比重に驚嘆したり、猛毒の塩酸と苛性ソーダを混ぜた溶液を飲んでみたり、サウス・ケンジントンの科学博物館に飾られた周期表の前で何時間も夢見心地で過ごすなど、みずみずしい感性の少年が実験に挑み、物質の魅力にとりつかれてゆくさまは、まさに化学をめぐる冒険であり、読む者は引き込まれずにいられない」…。
 どうぞ、このレビューを全文、読んで下さいな(レビューの中に、「センス・オブ・ワンダー」なる言葉が現れてくる!)。
 念のために断っておくが、小生は科学は嫌いじゃないし、物理も生物も天文学も好き。だけど、科学で唯一嫌いなのが(退屈だったのが)化学。その無味無臭というか無機的というか、無機質というか、とにかく高校時代は嫌いだった。大学に入っては縁が切れて嬉しかった。
 が、本書を読んで、化学の楽しさを存分に味わった。著者のサックスにはオカルト趣味も錬金術趣味もないが、時代が時代だったら、その世界にドップリ浸っただろうことは間違いない。
 とにかく著者は、ありとあらゆることをやってのける。失敗も数限りない。仮に今の時代だったら、危険な少年、マニアックなオタク少年として、必ずや少年院か精神科の病院に押し込められるに違いない。中学生になったかどうかの頃には親に公認で、知り合いに少女の死体を提供されて、その脚を解剖している(ちなみに、この解剖などで医学の道は断念したとか。解剖に深入りしすぎて、本物の生きた女性を愛せるようになれなくなるのではと、心配になったというのだ)。
 それにしても、精神科の医師であるサックスが、物心付いた頃から、ここまで徹底して化学(科学)少年だったとは、意外だし驚き以外の何ものでもなかった。
 ちょっと本書からは離れるが訳された斉藤 隆央氏には、他にも、イングラム著『脳のなかのワンダーランド』やレビー著『暗号化』といった訳本などでお世話になっている。いずれも図書館から今年になって借り出したものだ。これも図書館通いのもたらした縁というべきか。
[本稿を書いたのは、本日の昼下がりのことだったが、夜になってオリヴァー・サックス著『タングステンおじさん―化学と過ごした私の少年時代』を読了した。
 本書の末尾近くで、サックス自身の化学への失望が語られている。
 それは、量子論の登場により、化学の世界が原子のレベルに引き寄せられ、いずれは原子の構造の理論から化学の世界が説明し尽くされる、というある種の失望(当時、量子論の成功があまりに華々しくて、一時的にはそんなふうな化学の悲観論があったとか。実はそれは誤解であって、原子の次元と分子の次元とはまるで位相が違っていて、化学の世界はあくまで自立した学問の世界として今日も、これからも存立し続けると思われているし、実際、そのようである)と、サックス自身の中の化学離れとが時期的に重なっていて、或る日、気がついたら、憑き物が落ちたかのように化学への無上の好奇心、熱中する心が失われていることに気づいた、という。
 同時に、サックスの思春期の始まりでもあったのだろうが。
 小生は、サックスとは違って、化学(分子)と物理(原子)の世界の位相を明確には理解できないままに、化学なんて、要するに原子論の応用的実用的分野に過ぎないんじゃないのという誤解を払拭できないままに、化学は退屈という偏見をずっと抱きつづけてしまった。
 ついでに改めて書き添えておくと、本書のあとがきで訳者である斉藤 隆央氏が書かれているように、サックスによる他の本が精神医学の世界の「センス・オブ・ワンダー」が語られているとすれば、本書は化学を通じて物質世界の「センス・オブ・ワンダー」が語られている。しかも、微妙に精神の世界と交錯していたりして。
 とにかく、面白かった。(同日夜、追記)]

 余談ついでだが、夕べ、NHKラジオでピアニストの青柳いづみこさんのお話を聞きかじった(ちなみに、NHKでは、「青柳いずみこ」と表記されている…)。彼女が好きだというドビュッシーについての話だったと思う。彼女については、何年か前、『水の音楽』を読んだことがある。が、演奏は、たまにラジオで聞いたことがあるだけ。
 ドビュッシー。昨夜は話の最後に、『月の光』を聴くことができた。久しぶりだったこともあるだろうが、その世界に浸った。悲しいことに(なんて言っちゃいけないね、仕事中だったんだから…嬉しいことに)お客さんが乗ってこられたので、ボリュームを思いっきり下げるしかなかったのが残念。
 彼女には既に十年以上も前のドビュッシー本があるが、さすがに昨夜の話は最新の成果と彼女の見解が示されていた(ような気がする。その内容は、ネットなどで裏付けしたかったが、さすがに未だ、ネット上には書かれていないようだ)。
 彼女の話のあとだったこともあってか、ドビュッシーの「月の光」を違う印象を持って聴けたような。

 ちなみに、彼女には『青柳瑞穂の生涯 --真贋のあわいに』(新潮社)という著作がある。共に青柳…。えっ、もしかして…。そう彼女は青柳瑞穂の孫娘さんなのだ。

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