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2006/04/23

倉橋由美子さん死去…旅の重さ

[ 本稿は、季語随筆「倉橋由美子さん死去…旅の重さ」から書評エッセイ部分を抜粋したものである。   (06/04/23 アップ時追記)]

 倉橋由美子さんが亡くなられていたという一報を車中、ラジオで聞いた。
Sankei Web おくやみ 倉橋由美子さん(反リアリズムの作家)(06-14 0500) 」によると、「倉橋由美子さん(くらはし・ゆみこ=作家、本名・熊谷由美子=くまがい・ゆみこ)10日、拡張型心筋症のため死去、69歳。自宅は非公表。葬儀・告別式は近親者で行われた」という。
Hililipom>レファランスルーム」の「倉橋由美子」の頁を覗くと、彼女のProfileや著作リスト、翻訳リストを見ることができる。
 学生時代から文学活動を始め、明治大学在学中に「パルタイ」を発表し(60年)、芥川賞候補になったりなど、注目を浴びた。執筆活動を続けたが、「71年からしばらく小説の執筆から遠ざか」り、「80年創作を再開」という。
 その後は翻訳活動を中心に活躍していたようだが、小生は、皮肉にもというか、80年以降は関心を抱かなくなり、僅かにロングセラーとなった『大人のための残酷童話』を読んだだけである。
 それも、何処かの書店に立ち寄ったら、文庫版の『大人のための残酷童話』が目に付き、書き手の名を見ると、倉橋由美子とあり、懐かしさを覚えたくらいだった。
 数年前のこと。その頃、グリムやアンデルセンなどの童話や民話、昔話に興味を持っていたので、おお、こんな作家も、「大人のための残酷童話」というような際物的な仕事に手を染めていたのかと、やや驚いてしまったり(驚く小生が、迂闊で彼女の近年の仕事をフォローしていないだけのことなのに。まして最後の仕事がサン・テグジュペリの「星の王子さま」の翻訳だったとは、知る由もない)。

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レイチェル…海の燐光

[ 本稿は、季語随筆「レイチェル…海の燐光」から書評エッセイ部分を抜粋したものである。関連する記事に「センス・オブ・ワンダー…驚き」などがある。   (06/04/23 アップ時追記)]

 以下の引用文は、リンダ・リア (Linda Lear)著『レイチェル―レイチェル・カーソン『沈黙の春』の生涯』(上遠 恵子訳、2002/08東京書籍刊)からのものである(p.419-20)。
 尚、以下の地の文は、リンダ・リアの手になるものであり、引用はレイチェルの手紙からの引用である。

 新月の大潮がはじまっていた。ウエスト・ブリッジウォーターからサウスポートに帰ってまもなくの、ある月明かりの夜、真夜中近くにマージーとレイチェルは海辺に降りていき、波を見、波の音に耳を傾けていた。原始の自然をさらに深く感じようと懐中電灯を消すと、波は燐光があふれ、寄せるたびに、いままで見たこともないダイヤモンドやエメラルドのような大きな閃光を放っていた。その光景に見とれ、砂に光るとらえどころのない鬼火をつかまえようとしているとき、ホタルが一匹、波にきらめく光を自分の仲間と思ったのか、波のそばで盛んに信号を送っているのに気がついた。まもなくそのホタルはうねる波に落ちて湿った砂浜に打ち上げられ、あわてて光を点滅させていた。「そのあとどうなったかはおわかりでしょう」と、レイチェルは翌朝はやくスタンとドロシーに手紙を書いている。  
私は海に入ってホタルを救い出し(鬼火をつかまえようと、もう膝まで冷たい水に入っていたので、またぬれることなど気になりませんでした)ロジャーのバケツに入れて羽を乾かしてやりました。帰るときにはポーチまで連れてきました――そこならもう海の燐光には誘われないでいるだろうと願いながら。これをもとにした子ども向けの物語がすぐに浮かんできました――実際に書くことはないかもしれませんが。

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2006/04/10

『KAZEMACHI CAFE』…妹島和世のことなど

[ 本稿は、季語随筆「『KAZEMACHI CAFE』…読書メモ」から書評エッセイ部分を抜粋したものである。ほとんどエッセイ調というか雑文になっているが、ま、感想文ということでこのブログサイトに載せておく。関連する記事に、「松本隆対談集『KAZEMACHI CAFE』」がある。   (06/04/10 アップ時追記)]

 過日、図書館から借り出してきた『KAZEMACHI CAFE』(ぴあ 2005/03/19刊)を読了した。本書の大凡の性格に付いては、この季語随筆「KAZEMACHI CAFE…歌謡曲」(2005.06.06)で既に書いている。
 まあ、対談集なので、松本隆という逸材と、これまた才能溢れる方たちとの対談をひたすら楽しめばいい。何をコメントする必要があるわけもない。
 なので、脈絡も何もないメモ書きの羅列と相成るが、仕方ないと思っている。
 名前については敬称を略させてもらう。超有名人であり、一個の社会的財産となっているが故の敬意の所以である。

 松任谷由実との丁丁発止の対談の中で、ちょっと驚く記述を見つけた。尤も、何も驚く必要などないのかもしれないが。
 それは、三島由紀夫が市ヶ谷の陸上自衛隊駐屯地で自決した時、松任谷は「風都市」という、当時、松本隆がそのメンバーでもある「はっぴいえんど」が所属していた音楽事務所に居たというのだ。その音楽事務所は市ヶ谷に当時、あったのである。
 なんでも、松任谷の旦那様である正隆氏が事務所へ月給をもらいに行くのに付いて行ったのだという。
 せっかくなので、市ヶ谷の旧参謀本部の貴重な画像などを見てもらってもいいかも。
市ヶ谷の参謀本部について

 事務所(の屋上?)のドアを開けると、自衛隊のバルコニーが見え、何かのノイズが聞えていたというのである。三島由紀夫のアジ演説の声だったのか、警官隊の応じるマイクの声だったのか。それとも取材するヘリコプターの騒音なのか。
「ノイズ」という松任谷の言葉の選択が面白い。
 松本隆も松任谷由実にとっても、三島由紀夫らの行動が、あるいは時代の学生運動自体が「ノイズ」だったのだろうか。何か違うよ、ということなのか。勿論、こんな言い方では身も蓋もないというか、鰾膠(にべ)もないことになる。都会人特有の斜に構えたような独特なセンスもあるのだろうし。
 いずれにしても、時代はフォーク、それも没社会的な、政治的メッセージの欠片もないような、吉田拓郎であり、かぐや姫の神田川であり、ガロの学生街の喫茶店であり、井上揚水的な私小説的なフォークに主流が移っていきつつあった。

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ワトソン/ベリー著『DNA』

[ 本稿は、季語随筆「遺伝子という蛍? 」より、書評エッセイ部分を抜粋したものです。(06/04/10 アップ時記す)]

 ジェームス D.ワトソン/アンドリュー・ベリー著『DNA』(青木 薫 訳、講談社刊。文庫版が今春、出たばかり!)を読了した。小生は早とちりというのか、二重らせん構造が発見されるまでのドラマが、当事者(たち)の手により、学問状況を背景に描かれている本だろうと思い込んで借りてきた。
 二重らせん構造が発見されてから既に50年、功なり名遂げた一角の人物の自伝だろう、この歳になっても自伝や伝記の類いの好きな小生のこと、実話の物語を読むのも一興だろうと、そんな単純な動機で借り出したのだった。
 が、その手の本は、一九六八年に出版されていた(原書)。ジェームス・D・ワトソン著『二重らせん』( 中村 桂子/江上 不二夫訳、講談社文庫刊)と、既に文庫本にも訳書が入っている、その本である。
 小生は未読なのだが、出版社側のレビューによると、「生命の鍵をにぎるDNAモデルはどのように発見されたのか?遺伝の基本的物質であるDNAの構造の解明は今世紀の科学界における最大のできごとであった。この業績によってのちにノーベル賞を受賞したワトソン博士が、DNAの構造解明に成功するまでの過程をリアルに語った感動のドキュメント」だという。

 では、本書『DNA』とは。

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