藤沢周平の周辺
[ 本稿は、一ヶ月以上前に書いていたもの。原稿の中では、未読のものがあると記してあるが、さすがに既に全て読了している。機会があったら、本稿の続きを書いた上でメルマガに掲載したかったのだが、未だに果たせていない。情ないことだ。]
( 本稿は04/10/04付けのメルマガにて公表。この補記はメルマガを配信したその日(04/10/04)に付したもの。 (06/03/05 アップ時追記) )
このところ、藤沢周平三昧である。といっても、終日、というわけではなく、仕事の合間、執筆の合間に手に取る本は、ほとんどが藤沢周平の本だということ。
しかし、実は、藤沢周平三昧になるにはわけがあって、さる方に周平の本を十冊ほど、戴いたのである。
である以上は、ひとつのチャンスと心得、ずっと読みつづけているというわけである。
ちなみに、今回戴き、読了した本を順不同で列挙すると、
『漆黒の闇の中で 彫師伊之助捕物覚え』(新潮文庫)
『消えた女 彫師伊之助捕物覚え』(新潮文庫)
『ささやく河 彫師伊之助捕物覚え』(新潮文庫)
『用心棒日月抄』(新潮文庫)
『凶刃 用心棒日月抄』(新潮文庫)
『孤剣 用心棒日月抄』(新潮文庫)
『時雨のあと』(新潮文庫)
残すは、『風の果て 上・下』(文春文庫)と『刺客 用心棒日月抄』(新潮文庫)である。
これだけ読みつづけても飽きさせないのだから、力量たるや、さすがと思うしかない。
小生如きが彼の作品にコメントを付けるのも生意気だろう。ま、感想くらいは綴ってもいいかなということで、簡単なメモだけ残しておきたい。
過日、日記にこんなことを書いた(原文のママである):
2004年8月19日 (木) 9:36p.m. 数日ぶりの月だった(1)
午後遅く、二度寝から目覚め、さて、どうするかと思い、とりあえず先月から読みつづけている藤沢周平の本を読むことにした。読了。これで七冊目だろうか。あと残すは三冊。「用心棒日月抄」は、物語として面白いし、また藤沢自身も初期の頃の重く暗めの短篇ではなく、読んで面白いものを書きたかったのだと言う。
楽しめることは楽しめる。決して読んでいて退屈はしない。が、やはり藤沢の真骨頂は初期ないし、短篇に尽きるのではと思う。長篇のものでも、短篇を積み重ねる形にしている。その個々の物語がいいのだ。
それはともかく、自分には時代小説は書けないとつくづく思う。時代考証を含め、例えば江戸時代の歴史的知見が相当にしっかりしていないと、難しい(その以前に、人情を描く心が貧困だというのは、さておくとしても)。
ところで、藤沢の小説は舞台が江戸時代の下町である。川や橋、木場、堀端などが頻繁に登場する。が、江戸は、同時に麻布にしてもそうだが、山の町なのだ。町とは江戸時代においては、呼べないとしても。山の手とはよく言ったものだ。
東京の山の手を歩くと、とにかく坂が多い。坂の町なのである。藤沢の小説が下町が舞台になっているし、庶民が登場することが多いこともあって、坂のある町が舞台として選ばれることは少ないような気がする(まだ、数冊しか読んでいないし、読む本がたまたま、そうだったに過ぎない可能性もある)。
「用心棒日月抄」にしても、主人公は分けあって脱藩した浪人が主人公なのだが、武家の出身である。が、活躍は下町ばかり。武家屋敷も、下町にあるものばかり。やはり、橋とかお堀とか木場とかが話を作る上で都合がいいのだろうか。それとも、資料として下町が多いから?
坂が登場すると、物語にもっと奥行きというか、謎めいたものになりそうな気がするのだが、さて。
ところで、周平(七冊目?)を読了したあと、黒猫ネロの火曜日夜半過ぎに書いたものの続編に手を付けた。
(以上転記)
ここまで書いて、さて、やはり不安になる。彼の作品には坂の登場が本当に少ないのか。仮に少ないとして、何故なのか。あるいは勘違い乃至は偏った印象に過ぎないのか。
「藤沢周平 橋 堀 坂」をキーワードにネット検索してみた。すると、下記のサイトが上位に上がった:
「美しい国 庄内 -Shonai Value Station 藤澤周平の世界 海坂藩と庄内を訪ねて」
藤沢周平は、山形の人であることは、十数年来のファンであり、彼の全集を中途に終わったが集めようとした小生、さすがに知っている(昭和2年12月26日(1927年)山形県東田川郡黄金村大字高坂に生まれた)。
が、彼の小説は読んでも、彼についての本は読んだことがないし、解説も読み飛ばしてしまう小生、彼の故郷と小説との関係について、丁寧に考えたことがない。
上掲のサイトを読むと、想像以上に故郷の風景が小説の舞台の上で大きな存在なのだと知れる。「庄内藩をモデルにしたと言われる「海坂藩」の出来事が多い」というし、「その背景には「山」と「川」そして「郷土」が土台にある」のだ。
資料を集めたりして、江戸の町の風景などを描くことはできるし、町の名前も書き込まれている。登場人物は、江戸市中を実によく歩く。
東京在住で、仕事柄都内を車でだが、走り回る小生は、江戸時代の町名が、案外と残っていたり、町名としては消滅していても、俗称・通称として残っていることを感じることが多い。
江戸や江戸時代を舞台にした時代小説を読むと、知っている町名が出たりして、とても嬉しくなってしまう。ファンになっている島崎藤村や夏目漱石の小説を読んでも、東京在住の小生には、馴染みの地名が多数、しかも頻繁に登場して、読んでいても味わい深いのである(小生が以前、高輪に住んでいたことが島崎藤村への思い入れに相当、作用している気がする)。
が、さて、町名や橋の名前(戦国時代末期より、特に平坦な地は、埋め立ての地であるか、いずれにしても、河の流れも含め、戦国時代以前の風景のかなりの部分を喪失している。運河(堀)が多く、橋が実に多い)、堀などは、資料に基づいてきちんと描けるとしても、さて、江戸時代の人の人情・機微となると、かなりの程度、作家の想像の余地がありそうである。
今は薄れてしまった人情にしても、江戸時代には残っていた(と我々の多くは思いたがる)のだろうから(?)、あるいは、なかったのだとしても描きたいのが作家の性(サガ)なのだろうし、問題は、そうした人情の機微を何処から得るか、ということになる。
そして、山形や庄内の方は、郷里贔屓ということもあるのだろうが、藤沢周平が生まれ育った地域・庄内の風土や人情を土台にして描いたのだと思いたいのだろうし、小説を読むと、その主張に一定の説得力を感じる。
「海坂藩」の出来事を描くのに、郷里の風景などを思い浮かべるのは、自然なのだとして、江戸の町の市井の人たちの人情の機微を描くのにも、生まれ育った庄内で育まれた心情・抒情・情念を底流にしているし、そうしたかったのだろう。
風景において、橋や堀が多く登場するのは、江戸の町の在り方として当然なのだとして、坂の登場が少ないのは、坂に纏わる人間の物語、坂の風景の持つ、平坦部とはまるで違う独自な風情が、藤沢周平には実感として持ちきれず、よって小説においても、作家のリアリティとして坂の登場する場面を描き切れなかった、と思うことは、推測の上で無理は少ないような気がする。
機会があったら、今度は、藤沢周平が、範として作家は誰なのか、などを中心に感想を綴ってみたい。
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