小島英煕著『ルーヴル・美と権力の物語』
小島英煕(こじま ひでのり)著『ルーヴル・美と権力の物語』(丸善ライブラリー)を読了。
極めて個人的な感想を綴ることになりそうなので、最初に本書の謳い文句を掲げておく:
フィリップ・オーギュストからミッテラン大統領まで、数多くの権力者の八百年にわたるドラマの舞台であったルーヴル。そこには、王はもとより芸術家たちの野心とロマン、愛と憎しみ、生と死の複雑に絡み合う人間悲喜劇が繰り広げられてきた。また文化国家の模範といわれるフランスの背骨を形成したのもルーヴルであった。本書は、ルーヴルを狂言回しにして、フランスの権力と文化のあり方を追求したものである。こうした背景を知れば、美術品に対する見方も一変するに違いない。
ついでなので、目次を転記しておく:
1 ナチスの手逃れた名画四千点 / 2 大統領の野望 / 3 王たちの情熱 / 4 ルネサンスの時代 / 5 グラン・ダックス序曲 / 6 アンリ四世の大計画 / 7 絶対君主のルーヴル / 8 太陽王の時代 / 9 野蛮から洗練へ / 10 大革命とルーヴル / 11 世界の美術館の誕生
第一章に、「ナチスの手逃れた名画四千点」とあるように、第二次大戦中にナチスの手から守るために、ルーヴル美術館の名画を移動させたといういきさつが載っている。
が、美の集積が狙われたのは、何もナチスに始まったわけではない。このルーヴル美術館に己の権力の痕跡を残そうとした人間は、最近では、故ミッテラン大統領の例がある。
下記サイトにもあるように、「今日のルーヴルのシンボルがガラスのピラミッドです。故ミッテラン大統領が提唱した「ルーヴル大改造計画」によって生まれたもので、美術館のエントランスになってい」るのである:
(http://www.hankyu-travel.com/honmono/louvre_museum/ ←既に削除されているようだ。 06/02/19アップ時注記 )
是非とも、ルーヴル美術館とガラスのピラミッドとの対比を見てもらいたい。
さて、本書の刊行年は、平成六年である。十年も前の本を、何故、今更。実は本書は戴いた本なのである。そうでないと、小生は入手できなかったかもしれない(現在では出版社でも品切れとなっている)。
「あとがき」を読むと、その冒頭に、「本書は、日本経済新聞に一九九三年六月十五日から短期連載(全五回)された「ルーヴル・美と権力の物語」をもとに、新たに書き下ろしたものである」と書いてある。
日本経済新聞社が主催した「ルーヴル美術館二〇〇年展」のための企画だったらしい。
ちなみに、この企画は、1992年度新聞協会賞(<編集部門>)を受賞している。
この日本経済新聞に一九九三年六月十五日から連載されたという一点で、小生は本書に一挙に馴染みというか、因縁のようなものを感じた。
1993年の6月というと、サラリーマン生活最後の年に当っていた。翌年の3月にはリストラ退社している(実際には、2月末に首を申し渡されている)。
80年代の終わり頃から窓際族を実感していた。
それでも、真面目にやるしか能のない人間だったので、それなりに勤めていたが、事情があって、93年の6月から7月、94年の1月から2月に掛けての二度、入院生活を送ったりした。
会社が景気が悪く、働かない人間を雇っておく余裕があるはずもなく、二度目の入院を終えて出社した94年2月末に首を言い渡されたのだった(誕生日の翌日!)。
窓際族として働くのはきつい。十年以上経過した今もその頃の傷が癒えておらず、未だに一切、当時の実態に付いて触れた記事を書いたことがない。また、当分、触れないだろう。自分自身の社交性のなさという、人付き合いにおいてもあまりに不器用な人間という意味での反省もある。
そうした日々の中、会社での唯一の楽しみは、実は、日経新聞を読むことだった。会社には何故か社長も含め誰ひとり読む者のいない日本経済新聞とスポーツ新聞が届けられていた。スポーツ新聞は、全く興味がなかったし、他の人たちが読むに任せていたし、余程、暇にでもならない限り、目を通すことはなかった。
それより、日本経済新聞を読むほうが楽しかった。一般誌(自宅では、朝日新聞を読んでいた)はともかく、こうした経済に特化した新聞を読むのは、物珍しいこともあり、たまに来る日経流通新聞と併せ、数年来、愛読していたのである。
そうはいっても、経済にも暗いし疎い小生のこと、日経新聞を読む楽しみは、結局は人物紹介の欄(「私の履歴書」)と、何と言っても、美術系の記事を読むことになってしまう。
日経には、九〇年六月に、「ウイークエンド日経」が発刊され、その紙上で、「美の回廊」という企画モノが連載されていた。
日本では様々な展覧会が催され数多くの美術品を観ることが可能になったけれど、「いくらお金をかけても現実の美術展では不可能な企画を、紙上で試みようしたのが、「美の回廊」」だったのである。
この企画の結晶として、九〇年六月から九一年二月までの十回分の連載を集めた、その名も『美の回廊 絵とき謎とき美術紀行』(日本経済新聞社編)は、刊行された92年の初め頃、刊行後、即座に入手しており、今も手元にある。
僅かな癒しの時を絵に、紀行文に求めていた、懐かしい結晶の数々が収められているようで、小生には手放せない本なのである。
この「美の回廊」という企画の後を追うようにして、本書『ルーヴル・美と権力の物語』のもとになった「ルーヴル・美と権力の物語」と題された連載があったのである。小生が見逃すはずがないのだ。
が、書籍に纏められていたことは、迂闊にも今日まで全く知らなかった。戴いた本とはいえ、因縁を感じるし、僥倖をも感じる。
この本は、いよいよ切迫した日々を送っていた中での、束の間の夢の時を文章や掲げられた絵(写真)の中に求めていたのだった。
切迫…。メニエル症候群だったのだろうか。自宅では寝たっきりだったのだが(起き上がる気力は全くなかった。カーテンは終日、締め切り状態だった。何かの切っ掛けで始めた飲み終えた1リットルの牛乳パックを洗って束にするという作業をただ惰性で続けていて、その束が纏まったら、何処かの電力会社に持っていく。はずが、束だけが厚くなり、埃を被っていくのだった。外出する気力など到底あるはずもなかったのだ)、ベッドで寝ていて、ふと夜中に、あるいは明け方に目覚め、不用意に起き上がると、頭の中の風景がグルグル回りだし、しかも、その回り方が半端ではなく、もう、意識が追随できなくなり、終いには吐き気を催し、ベッドに倒れ臥し、やがていつかは回転が止むのをひたすら寝ながら待つのだった。
例えば、そんな症状も一つの例として挙げることができる。
会社で孤立し友人等とも疎遠(他人と話す元気などあるはずもなかった)になり、無様な姿を家族に晒したくないから、家族とも連絡を取らないようにする…。そんな中だからこそ、物理学(素粒子論)の本や、美術書、ヌード写真集、あるいは文学書の類いを貪り読む(見る)のが僅かな楽しみだったのだ。
好きだった展覧会巡りも、起き上がる気力が湧かないのでは、どうにもならなかったのだし。
さて、肝腎の本書の中身だが、既に冒頭で示したことで尽きている。
小生は、とにもかくにも現実の世界、身の回りの世界にはない世界を追い求めていた、その対象となった一つの文章群が集められている(本の土台と成っている)ということで十分だと思う。
こんな個人的な事情があるため、本書を客観的に批評するなど、難しい。
本書を読んだら、今度は、手元にある、『美の回廊 絵とき謎とき美術紀行』を読み返してみたくなった。
今、読んだら、どんな感想を抱くことだろう。
(本稿は04/09/15付けメルマガにて公表済み)
参考サイト:
「ルーヴル美術館オフィシャル・サイト」
「ルーヴル美術館 - Wikipedia」
モナリザ…。ルーヴル美術館のピラミッドの画像が載っている。
「変容するミュージアム――21世紀美術館研究」(「10+1 web site|テンプラスワン・ウェブサイト」中の一頁)
が面白い。「21世紀を迎えた現在、美術館の再編が世界的規模で進んでいるように思われ」、「バブル期の美術館建設ラッシュが一段落した日本でも、まだ青森県立美術館・金沢市立現代美術館・神奈川県立近代美術館などの建設が控えている」という。
「このような美術館の新設が、世界的な規模での美術館地図の書き換えを促していることなど、誰しも容易に了解可能なことであろう」が、「もっとも、この世界的な流行にはいささか腑に落ちない点もないではない。「文化の記録で、同時に野蛮の記録でないようなものは決して存在しない」というヴァルター・ベンヤミンの発言を引用するまでもなく、美術館の歴史とは実は戦利品の収奪と公開の歴史であった」のは、銘記しておいていい美術館の歴史の一つの側面だろう。
「建築家・磯崎新が著した美術館についての断章」をもとにしていて、興味深い記事である。
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