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2006/02/13

マイケル・ポーラン著『欲望の植物誌』

 既に数ヶ月前になるが、マイケル・ポーラン著『欲望の植物誌―人をあやつる4つの植物』(西田佐知子訳、八坂書房刊)を読了していた。
 あれこれ手を出していて、つい、感想文を書くのを怠る結果となった。
 最初に恥を告白しておくと、小生、書店の棚に並ぶ本書の背表紙に見える著者名を見て、かの経済人類学のカール・ポランニー(Karl Polanyi、 1886-1964)かと思った。
 実は、名前がうろ覚えで、名前が、マイケル・ポランニー(Michael Polanyi, 1891-1976)だったのかと思い直したりした(マイケル・ポランニーはカールの弟)。
 が、手にとって見ると、どうみても、経済人類学とは無縁ではないが、かなり遠い。暫くしてやっと、マイケル・ポーランは、ポランニーとは全くの別人だと思い至った次第。冷や汗を流してしまった。
 素養のないのは、どうしようもないものだ。

 これまた、続けての余談となって、拙いかもしれないが、書店で本書を取ったのは、タイトルに惹かれたからだったが、手に持って著者(小生には全く未知の方)の名前と同時に、翻訳書なので訳者名を見る。
 すると、西田佐知子(以下、敬称は略させていただく場合がある)とあるではないか!
 西田佐知子
 略歴などを見ると、「1965年生まれ。1998年、京都大学人間環境学博士課程修了。現在、名古屋大学博物館助手。専攻は植物分類学」とある。
 とても、小生の大好きな歌手、引退を惜しんだ歌手、関口宏氏を結婚相手に選んだことの口惜しさを噛み締めさせた、あの西田佐知子さんとは思えない。
歌手の西田佐知子については、既に雑文をモノしている。)

 訳者の西田佐知子氏は、上記したように65年生まれだという。
 というと、61年の「コ-ヒ-・ルンバ」62年の「アカシアの雨が止むとき」63年の「エリカの花散るとき」64年の「東京ブル-ス」というヒット曲を連発し、紅白歌合戦に毎年出場していた頃だ。65年にも、「赤坂の夜は更けて」で出場している。
 もしかしたら、苗字はともかく下の名前の佐知子は、父親辺りが当時人気実力最高だった歌手の西田佐知子にちなんだのかもしれないと咄嗟に思ってしまった。
 ちなみに、66年は「信じていたい」67年は「涙のかわくまで」68年は「あの人に逢ったら」69年は「アカシアの雨が止むとき」や「くれないホテル」、70年には「女の意地」で、紅白に連続出場している。
 小生が歌(歌謡曲)の世界に導かれたのは、彼女の存在が大きかったと思っている(妄想の中でも散々お世話になったし?! あとは、「シャボン玉ホリデー」という歌番組か)。引退を惜しんだ歌手としては、西田佐知子が小生の中では筆頭に上がる(あとは、山口百恵と森昌子か)。
 
 さて、本書の著者マイケル・ポーラン(Pollan, Michael)だが、本書(原題:「THE BOTANY OF DESIRE」)によると、「アメリカのジャーナリスト。「ハーパーズ・マガジン」の編集長を務めるかたわら、「ニューヨーク・タイムズ・マガジン」に定期的に記事を寄せるなど、ガーデニングから環境問題まで、幅広い分野を扱った記事やコラムを精力的に発表しつづけている。とりわけ近年は、遺伝子組み換え作物をはじめとする、環境問題に関する記事での活躍が目立つ」とある。
 邦訳には、他に、『ガーデニングに心満つる日』(主婦の友社)があるらしい(小生は未読)。
 目次を以下に示してみる:

 序章 ヒトという名の働きバチ
 第1章 「甘さ」への欲望あるいはリンゴの物語
 第2章 「美」への欲望あるいはチューリップの物語
 第3章 「陶酔」への欲望あるいはマリファナの物語
 第4章 「管理」への欲望あるいはジャガイモの物語

 いずれも馴染み深い植物・穀物である。さすがに、マリファナに馴染んでいるとは言い難いが、マスコミなどで世情を騒がす元凶になっている植物(薬物)で、潜在的には若者を中心に広く蔓延していると思しいし、体験したことがなくても、名前を知らない人は少ないのではないか。

 念のために、本書の帯に書かれている謳い文句を:

「とびきりハイになれるマリファナにも、黄金色のフライドポテトにも、人間を誘惑しようとする植物たちの欲望がひそんでいる―?ユニークな視点から人と自然のあるべき関係を静かに語りかけ、圧倒的共感を呼んだ話題の書。」

 とにかく分かりやすく、興味深く、読みやすい。この点だけは保証しておこう。

 人間は、様々な植物を人間の都合のいいように手を加えてきた。人間を主体に考えると、そうなる。
 が、植物というのはしたたかなものなのだ。むしろ、植物のほうこそ、人間を魅了し、あるいは人間を惹き付ける長所があるなら、その長所をとことん多彩に巧みに進化させてきた…、とも考えられる。
 人間は、リンゴ(あるいは、ジャガイモでもミカンでも桃でも同じことだが)なしでは、物足りなくなっている。懸命にリンゴを育てる。品種改良する。台風や害虫などから守ろうとする。
 マリファナにしても、当局による取り締まりが強化されているのだろうが、一方、マリファナを育てるほうも、手口が巧妙になる。野原で大っぴらには育てられないとなると、室内栽培に耐えられるよう人間が手を加える(あるいは、そんな人間のニーズに応えらえるよう、自らを改変する)。

 本書の中では、一頃、日本でも話題になった、遺伝子組み替えという技術、あるいはその技術が使われている実情なども採り上げられている。むしろ、この点で、本書がアメリカで話題になったと言うべきか。

 アメリカなどで盛んに遺伝子組み替え技術が使われ、大豆などに代表される食物に生かされている。この遺伝子組み替えという技術は、別に格別、新奇な技術でも何でもない、昔から人の手を使って行われてきたことを科学技術を使って、巧妙に効率的に行っているだけだ、だから、そうした操作で生まれた植物・食品は安全なのだという意見が、まことしやかに主張されたりする。
 その代表格は、立花隆だろうか(まあ、有名人だし、オピニオンリーダー的存在でもあるし)。
 彼は、遺伝子組み替え食品には何の心配もしていないと公言して憚らない(遺伝子組み替え技術や食品がマスコミを賑わせた頃の話。今も、発想法が変わらないのか、それとも改心されたのか、小生は知らない)。

 そもそも、遺伝子組み替え食品が、その原材料である植物を襲う害虫にのみ有害であるとの科学的確証は得られているのだろうか。人間や自然界の植物ひいては動物に影響を与えないという、どんな根拠があるのだろうか。遺伝子組み替えで、特定の害虫に耐えられるとしても、人間を含めた自然界に影響がないというには、相当程度の長い検証が必要なのではないか。
 遺伝子組み替えで作られた穀物をアメリカは輸出しているが、それは、壮大な人体実験のようなものではないのか。
 遺伝子のほんの僅かな違いは、外見の上ではまるで似たようであっても、人間や他の動植物にどんな影響を与えるかは本来、未知のことなのではないのか。
 遺伝子組み替え食品、その実情を知りたい方は、本書の第4章「「管理」への欲望あるいはジャガイモの物語」を是非、読んでいただきたいと思う。

 余談だが、立花隆の科学についての言動への批判は、相当根深くあるらしく、下記のような本さえ出ている(但し、小生は未読。立花隆の科学評論は、専門家の目で見れば怪しいとして、その怪しさを指摘するにも、相当程度の知識が要る。個別の分野の専門家が、集まって、社会的影響力の大きい立花隆の科学評論の問題点を指摘する、といった類いの本が待たれる):
 佐藤 進 著『立花隆の無知蒙昧を衝く 遺伝子問題から宇宙論まで』(社会評論社)


(本稿は04/09/08付けメルマガにて公表済み)

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