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2006/01/11

五木寛之著『風の王国』

 前回(「二上山のこと山窩のこと」参照)、小生は、「奈良の二上山は、(にじょうざん)と読むが、高岡の二上山は(ふたがみやま)と呼ぶ」と書いた。
 このことに間違いはないのだが、五木寛之の『風の王国』(新潮文庫)を読み進んでいって知ったことは、奈良の二上山(にじょうざん)も、昔は、<フタカミヤマ>と呼んでいたということ。
 やはり、この読み方のほうが、雰囲気が出る。
 高岡の二上山は、「ふたつの神という意味もある」「古代から神の山と崇められて来た」山である。

 奈良の二上山(フタカミヤマ)は、どういう謂れがあるのだろう。「標高515メートルの雄岳(北側)と474メートルの雌岳(南側)の二峰」があり、悲劇の皇子である大津皇子の墓があるからなのだろうか。
「サヌカイト」、「凝灰岩」、「金剛砂」の3つの石がある特別な山という受け止め方が古来よりあったのだろう。眺望も、前稿に記したように、「山頂付近からは、日本史の数々の舞台となった大和平野が一望でき、雄岳から雌岳へ向かう途中からは河内平野と大阪湾、雌岳の向こうには葛城、金剛 の山並みを望むことができる」ということで、この地に遣って来た渡来の人々の出自の風景を強く連想させるものだったのだろう。
 ついでながら、二上山のあれこれや万葉集の中の大津皇子らの歌などを親しみやすく紹介しているサイトがあった:
 http://www4.kcn.ne.jp/~t_kankou/kanko/nijyo/main.html(削除されたのか、今はこの頁が見当たらない。06/01/11注記)

 このサイトの中の、「折口信夫 (おりぐちしのぶ)」の項を読んでいて、折口信夫(釈迢空)の小説『死者の書』が、(恐らくは)「大津皇子をモデルに描かれ」ていることを思い出させてくれた。やはり、彼の本は読まないと、古代のことも理解が深まらない。

 さて、五木寛之の『風の王国』を読み進めて、小生の不明がまた露見してしまった。小生は、「近代において、山々を遊行する人びとを時に山窩などと賎称した。明治以降、政府は、戸籍に載らない、こういった流浪の民を徹底的に弾圧したり、戸籍に組み入れて行ったりした(国の民を一人残らず把握し、税を徴収し、兵力として活用する必要などがあったのであろう)」と記し、その上で、「最終的に完遂したのは、十五年戦争当時だったとも聞いたことがある」と書いた。

 が、本書によると、第二次大戦後の昭和二十四年の時点でなお、無戸籍の人びと、無職漂泊の人びとが、八十数万人もいて、戸籍を持たず、流動していたという。「それらの非・国民を根こそぎ強制的に定着させたのが、昭和二十七年、朝鮮戦争を機に、国家再編成をすすめる基本として全国的に施行された《住民登録令》」だったというのである(住民登録法の成立は二十六年)。
[尚、同じく昭和27年、未合祀だった200万人が急遽、靖国神社に合祀された。「敗戦時に靖国神社にいたのは、35万柱足らず!」であり、「昭和27年にもなって200万人もの「英霊」が捨て置かれていたという事実」があったのである。合祀に際しては、「厚生省が名簿づくり協力したこと。このときの合祀は、遺族の意思に関係なく、靖国神社が一方的に名簿に載せ、遺族に通知することでおこなわれたこと」なども理解しておいていいだろう。靖国神社に祀られることを願った戦死者もいるだろうが、とんでもないと思っていた人も多かったに違いないと小生は思う。→「土佐高知の雑記帳 靖国神社の怠慢と「英霊」」]

 五木寛之というと、小生がまず思い浮かべるのは、なんといっても、『青春の門』である。小説も欠かさず読んだし、この小説を原作にした同名タイトルの映画も全部かどうかは覚えていないが、観ている。
 松坂慶子の全裸に眩く思い、杉田かおるを抱き締める佐藤浩市を羨ましく思った(演技では、何度も撮り直しというか、やり直ししたそうな。その撮影の場面が生々しく想像され、生唾ゴックンだったなー)。
『青春の門』が手元にないので、ネットでその粗筋を確かめてみた(但し映画):
---ビデオ---青春の門/青春の蹉跌

 小生は、自分の青春を映画や小説の主人公等に思い入れしたいと思いつつ、自分とは違いすぎることに、戸惑っていたように記憶する。小生には、主人公の伊吹信介にとっての織江もいなかったし、伊吹のような体当たりの青春からも逃げ回っていたし、土台、無理な話だったのだろう。
 ついで、五木寛之というと、『さらばモスクワ愚連隊』を思い出す。加山雄三が主役を演じた同名タイトルの映画も観たが、映画については、やたらと退屈したという記憶しかない(小説の印象は、全くない)。
 彼のエッセイ集である『風に吹かれて』なども読んだ。
『蒼ざめた馬を見よ』も、タイトルに惹かれて読んだ記憶がある(言うまでもなく、ロープシンの『蒼ざめた馬』を読んでいたからこそ、五木の『見よ』に目が向いたのだろう) 。

 ネット検索して気付いたのだが、彼が訳したリチャード・バック著『かもめのジョナサン』も読んでいる。失礼な言い方をすると、若い頃の小生は、岩波書店や中央公論の世界の名著(日本の名著)などを中心の古典読書時代で、その合間の息継ぎに彼の本は手頃なのだった。
 自分にはありえない青春や人生のドラマがあって、夢想の中でもう一つの、決してなかった人生を思うには眩しいようなほど、気になる作家だったのだ(その意味では、石坂洋次郎などが中学から高校時代の青春の作家だった。彼に続くのが五木だったのかもしれない)。
 が、やがて、幾らなんでも青春には無理な頃合いになると、彼の本からは遠ざかった。彼の小説やエッセイには思想とかハードな中身があるようには思えなかったこともある。
 その誤解を埋めることなく、彼の本とは縁が切れていた。
 そう、この『風の王国』を読むまでは。
 しかも、本書を入手したのは、近所のゴミ捨て場だった。何十冊か束ねられた古びた文庫本の一冊に本書があったのだ。拾ったのは一昨年だったろうか。
 手元にはずっと置いてあったが、今更五木寛之の本でもあるまいという、億劫さが邪魔をしていた。
 本が茶褐色に変色していて、汚らしいことも気が進まない一因だった。
 が、この不況で小生、本が買えない。月に文庫本を一冊、購入したら、たちまちその週の食費に困ってしまう。
 それがある日、あることを調べるため、ネット検索していたら、松岡正剛氏の「千夜千冊」の中で本書が採り上げられているではないか。一瞬、目を疑った。

 何処でどう、勘違いしたのか分からないのだが、『風の王国』を浄土真宗の中興の祖である蓮如の活躍を描いた大衆小説だとばかり思っていた。今はどうも、蓮如には関心を持ちきれないでいる。手を出す機会は、ないはずだったのである。
 が、五木寛之は、松岡氏も認めるように、「大より小を、中心より辺境を、上位より下位を選び、幸福より不幸に、強さよりも弱さに、デカダンよりデラシネに、激しい関心をもっている作家」なのであり、「アウトローを徹底的に擁護する」作家なのだ:
松岡正剛の千夜千冊『風の王国』五木寛之
 そして、本書『風の王国』も、伝統的に戸籍を持たない無職漂泊の人びとを扱っている。ミーハーの小生、松岡氏が彼なりの事情もあってか、推奨しているなら、読む本が払底している今こそ、読んでみようかと思ったのだ(なんて、不純な動機!)。
 ただし、無職漂泊の人びととはいっても、現代にあっては、無戸籍では生活が成り立たないので、表面上は、普通の人々と同じような目立たない生活を送っている。が、古来よりの漂泊の魂は失っていない人々こそが主人公なのである。

 但し、休筆する前の五木寛之と違うのは、そうした無職漂泊の人びとを役行者(役小角)らに結びつく集団として、大胆なロマンを付与した点にある。つまり、魂は漂泊なる人々は数知れずいても、それぞれはバラバラで、しかも、多くは思想的背景など皆無で、単に通常の生活に耐えられなかったり、里の人々から石もて追われたりして山中に逃げ隠れた連中に過ぎないのを、五木氏は、実は、彼等は山へ逃げ込んだのではなく、里の民とは違う山の民の魂(山岳信仰)で固く結ばれ、しかも優れた指導者に導かれた集団なのだと小説の上で設定して、物語の背骨を形成しているのだ。
 今もって、古来よりの信仰や、常人の発想法とは隔絶した人々が、ひっそりと生きているというこのロマンを辿る限りに於いて、作家五木寛之の筆の力もあり、彼等の運命に読者は共感させられ、運命の行末を最後まで追いつづけてしまう。
 面白い。アウトローの人びとに何か、通底する思想信条を認めたいという五木寛之なりの願望もあるのだろう。
 流浪の民とはいえ、ただのアウトローではないぞ、思想もあれば信念に裏打ちされてもいるのだ…、というわけである。
 こうした設定は、作家・五木寛之の成長だったのだろうか。
 たんなるアウトローでは物足りないということなのだろうか。徹底して食み出し人間であっては、小説上の深まりがもう期待できなかったのだろうか。そこのところは、読者がそれぞれに判断すればいいことなのだろう。
 とにかく、忘れるには惜しい作品である。

 本稿に関連するエッセイとして下記がある:
コクリコのこと/二上山のこと山窩のこと
                (04/08/09付けメルマガにて公表済み)

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コメント

「漂白」の誤りが目に付きます。訂正された方がいいのではないでしょうか。

投稿: 村上通典 | 2008/05/18 17:03

村上通典さん

ありがとう。
訂正しました。

投稿: やいっち | 2008/05/18 17:12

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