トルストイ著『生命について』
数年ぶりでトルストイ著『生命について』(八島雅彦訳、集英社文庫)を読んだ。
読んだ…、と言い切れるのか、ちょっと危ういかもしれない。実のところ、読むのが辛かったのである。一見すると彼なりに論理的に書いているようで、必ずしもそうではなく、敢えて言えばパセティックな論理に貫かれていると言ったほうがいいだろう。
読むものからすると(その世界に没頭出来る者には)ある種の共感をもって、波に乗るように読み進められるが、共感できないと、全ての言葉が右の耳から左の耳へ通り抜けていく。
こうした評論風エッセイを読むと感じるのは、トルストイがやはり天性の小説家だということだ。『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』などは、読む者を物語や、あるいは個々の叙述の場面に浸らせてくれる。読んでいるうちに、いつしか滔々(とうとう)と流れる大河に浮かび漂っていていることに気付き、読者はただ作家の筆の導くがままに流れていけばいい。
作家の世界にのめり込もうと思わなくても、豊穣なる世界、肥沃なる大地をしっかりと、今、歩いているという感じを持つことができる。
それが、自らが思想家というか宗教的実践者として語りだすと、教条的であり、道徳臭が強く、不毛な意味で理屈っぽい。
そう、彼は、上掲の大作を書き上げた後、小説家たることを止めて、社会的慈善事業などの実践者たる道を選んだのである:
「トルストイ・年譜」
作家魂を捨ててまで、そうした世界に飛び込んだのならば、枯れたとまではいかなくても、何某かの宗教的高見に至るか触れるかしていればいいが、本書の末尾にある「鑑賞 ――ぼくたちの同時代人」の中で中沢新一氏も書いているように、トルストイほどに怪物的なまでの強い自己愛の持ち主はなく、まさに、本書は過剰なまでの自己愛の書であり、高尚な宗教的知恵を語っていながら、その実、トルストイ本人はその知恵から一番遠いことを、最初から最後までつくづくと感じさせられる。
逆に言うと、その凄まじいエゴイストぶりを感得することに本書を読む(小生には)被虐的楽しみが或ると言えようか。その強烈な自己愛と告白衝動癖は、小説の場合も露骨に表れていたりするのだが、同時に彼の作家魂が、芸術的表現の中に韜晦してくれるので、臭みを感じるよりも感銘が深いのである。
そういえば、ドストエフスキーも、小説は抜群なのに、「作家の日記」の大部分、あるいは、例えば『悪霊』の中のスチェパン氏の演説などは、やたらと退屈な叙述が続く。
作家というのは、自分の主張をダイレクトに書くと、陳腐極まる論理展開しかできないが、いざ、小説の形を取ると、作家に表現の魔が取り憑いてしまい、自身でさえそのドラマ性に引き摺られているのではないかと思えるほどで、常識の枠を突破し、そんな世界など表現するつもりは無かった、自分でさえ気がつかなかった、むしろ、己としては否定すべき世界として表現しているのに、読み手として振り返ると、何故かその否定性の中にこそ聖なる偉大と深遠の世界が現れてしまっている、そんな事態が生じてしまうことがあるようである。
作風の全く違うドストエフスキーとトルストイなのだが、その作家としての虚構表現の魔が、自分でも意外な世界が読者に、また、作家自身にさえも示してしまう点では、共通するものを感じる。
ここまで書いてくると、『生命について』は、それを評論として読むのではなく、実は小説作品として、意図せざるドキュメント風の虚構作品として読むと、面白いのだという言い方をしたくなる。
宗教的信条の告白というより、過剰なる生命の横溢の書なのであり、その異常なる世界をわれわれ読者は堪能すればいい、そのように読むと、実に興味深い本だということになる。
恐らく、トルストイが聞いたら、真っ赤になって怒るだろうが。
ちょっと読後感があまりに独特だったもので、叙述の順番が狂ってしまった。
例によって、本書の背表紙にある謳い文句を転記しておく:
「幸福へのあこがれにこそ、生命についてのあらゆる認識の基礎はあるのだ」人間は生命体として生きているだけではなく、かけがえのない"愛の意志"として生きている。科学の万能も、偏狭な宗教や国家主義も否定し、19世紀ロシアで危険視されたトルストイ主義。しかし地球を越えて「生命」を考えねばならない今こそこの"人生の教師"の書が再び必要とされる。
そう、言わんとするテーゼには、全く異存はない。その通りである。「幸福へのあこがれにこそ、生命についてのあらゆる認識の基礎はあるのだ」という主張の何処に異議を差し挟めようか。
中沢新一氏の的確な要約を引用するなら、「生命はたんなる物質的な現象ではなく、生き物すべてがいだいている幸福への欲求というものの中に、その本質がある。しかし、その幸福をエゴの中で追求しているかぎり、けっして幸福は得られず、かえって不幸や苦しみがもたらされることになる。このジレンマをのりこえていくためには、理性によってエゴの欲求をおさえ、他者を愛し、他者の幸福のために生きるような生き方を、選ぶことによって、人は本当の生命に近づいていくことができるのだ」。
もう、主張はこれだけに尽きるのである。
この主張に文句など付けようがないではないか。
ただ、では、トルストイは実践できたの、ほんの少しでも、といった愚問をトルストイ本人に突き付けるなら、彼は怒るだろうが、彼が反論などできるはずがなく、まさに彼こそが、この主張から一番遠い存在なのだということに気付かされる。しかも、実は、そのことを誰よりも自身が痛感していたのだ。
矛盾の極でなくして何だろう。
日本では、武者小路実篤(懐かしい。中学や高校生の頃、ついつい読み浸ったものだ)を始め、志賀直哉(『暗夜行路』は素晴らしい。『小僧の神様』を小生は、ずっと『小説の神様』と誤読していたものだった)や有島武郎(『或る女』を始めて読んだ時の感銘は忘れられない)など、白樺派の面々がトルストイの思想に影響され、中には実践を試みた作家もいる。
武者小路実篤の「新しき村」や、白樺派というわけではないが、トルストイに心酔し、実際に会いに行ったりもした徳富蘆花(『不如帰』も『自然と人生』も、文体が馴染めなくて、今に至るも読了できていない)も、武蔵野(当時の千歳村)にて田園生活を送ったりした。
最後に、本書から小生が気に入った一節を引用させてもらう。
「第二十八章」として、「肉体的な死は空間のうちにある肉体と時間のうちにある意識を滅ぼすが、生命の根本を成している、それぞれの生きものが持つ世界に対する特殊な関係を滅ぼすことはできない」というテーゼを示した後、彼は、本書の中でも幾度となく繰り返し言及している死の恐怖について語る。
以下は、その中の一節である(こんな素晴らしい文章が随所に見られる):
わたしは五十九年の間生きてきて、その間ずっと、自分の肉体のうちに自分自身を意識してきた。そして、この自意識こそがわたしの生命であったと、そうわたしには思われる。しかし、それはそんな気がするだけなのだ。わたしは五十九年の間生きてきたのでも、五万九千年の間生きてきたのでも、五十九秒の間生きてきたのでもない。わたしの肉体も、肉体の生存時間も、<わたし>の生命を少しも規定しないのである。もし、わたしが、生きている一分ごとに、自分の意識のうちで、わたしとは何か、と自問するとしたら、わたしはこう答えるだろう。考え、感じているあるもの、すなわち、全く独特の仕方で世界に関係しているあるものである、と。わたしが、<わたし>と意識するのはそれだけであって、それ以外にはない。わたしはいつどこで生まれたのか、わたしはいつどこで今のように考え感じ始めたのか、ということについては全く何も意識しないのである。わたしの意識がわたしに語るのは、わたしはある、わたしが現在身を置いている、世界に対するこの関係をもって、わたしはある、ということだけである。自分の出生、幼年時代、青年時代のさまざまな時期、中年期、ごく最近のことについては、何もおぼえていないこともよくあるのだ。わたしが過去の何かをおぼえていたり、人から思い起こさせられるとしても、わたしはそれを他人の話を聞かされるのとほとんど同じようにおぼえていたり、思い出したりするのである。だとしたら、わたしの生存期間を通して、わたしがずっと<一人のわたし>だったと断言するいかなる根拠があるだろうか。わ
たしの一個のからだというものも決してなかったし、現にありはしないのだ。わたしのからだ全体は、絶えず流れゆく物質であったし、現にそうなのだ――それは非物質的な、目に見えないあるものを通っており、そのあるものが自分を通過してゆくこのからだを自分のものと認めているのである。わたしのからだ全体は何十回となく変化してきた。古いものは何一つ残っていない。内臓も、骨も、脳も、すべてが変化したのである。 (p.169-70)
(04/06/28付けメルマガにて公表。トルストイ論乃至はドストエフスキー論としては、ジョージ・スタイナー著『トルストイかドストエフスキーか』(中川 敏訳、白水社)が秀逸。原書は1959に出ている。2000/06に訳書の新装復刊版が出されたのも納得。読みづらいのが難点だが…。小生は、『言葉への情熱 叢書・ウニベルシタス』(伊藤 誓訳、法政大学出版局)を読んで以来、評論に関してスタイナーに圧倒されてしまっている。05/12/03付記)
| 固定リンク
「肉体・恋愛」カテゴリの記事
- 先手必笑(2015.08.10)
- ベルニーニの謎の表情へ(2014.12.28)
- ベクシンスキー:廃墟の美学(後篇)(2010.03.03)
- ベクシンスキー:滅亡の美学(前篇)(2010.03.03)
コメント