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2005/12/03

富岡多恵子著『丘に向ってひとは並ぶ』

 朝日新聞朝刊の読書コーナー「自作再訪」は、欠かさず読む。5月9日(日)は、富岡多恵子氏で、『富岡多恵子集9 評論?』(筑摩書房)所収の「室生犀星」だった。表題には、「言葉を読むよろこび 人を識る楽しさ識る」とあ
る。
 小生のPCでは、「しる」を仮名漢字変換させようとしても、「識る」は候補リストに出てこない。「識る」という表記に何か意味があるのだろうか。
 なんて、詩人に意味があるだろうか、と問うのも失礼な話だろう。言葉の表記には、人一倍神経を払うのだろうし、それを感得できない己の不明を恥じるべきなのだろう。でも、分からない。
 富岡多恵子氏は、詩人として作家人生を始め、『丘に向ってひとは並ぶ』で小説家デヴューを果たした。やがて、この「室生犀星」で、「言葉を読むよろこび 人を識る楽しさ識る」という味をしめたのだという。以後、中勘助、釈 迢空という詩人の評伝を書いていく。

 富岡多恵子氏の情報をネットで調べていて初めて気付いたのだが、かの篠田正浩監督作品の『心中天網島』(近松門左衛門原作)の脚本は、武満徹氏や篠田正浩氏と共同執筆だという。
 近松門左衛門

 この映画、小生の好きな女優、岩下志麻が際立っているのは別儀として、異色の作品で、冒頭には文楽のシーンが映し出されるのが印象的だった。
 ネットでこの映画作品について調べると、「冒頭は文楽のカットに始まり、そこに篠田監督と脚本の富岡多恵子との電話でのやりとりが音声でかぶせられます。あえて虚構性を前面にうち出すことで、観る側の小春や治兵衛への感情移入を排除しているかのようです」とある。
 そうそう、この映画には文楽のシーンだけじゃなく、黒子も登場するのだった
 音楽を担当していたのは、脚本作成にも関わった武満徹氏。
 とにかく、富岡多恵子氏は多才な方なのだ。

 富岡多恵子氏については、下記サイトも参考になる:

「富岡多恵子氏の略歴(『朝日人物辞典』より)」の項の、「大阪北郊では少なくなっていた,大阪義太夫文化のなかで育ち,バレーポール少女となったが,東洋の魔女にはなりそこなって,大学在学中に詩人となった」が面白い。
 また、「池田満寿夫と離婚」とある。そうか、池田満寿夫が佐藤陽子と結婚する前は、富岡氏と結婚していたのか、と、今更ながら知った。
 しかし、一番、注目すべき点は、「義太夫文化に発する語りの芸能の精神がいきづいている」という指摘だろう。
 上掲のサイトでは、他に、富岡氏の文章も読めるメリットがある。

 さて、同じくネットにて、『丘に向ってひとは並ぶ』についての情報を得ようとしたが、多くのサイトでは、『丘に向かってひとは並ぶ』と表記されている。手元の文庫本(中公文庫、昭和五十一年刊行)では、表題の如く、『丘に向ってひとは並ぶ』なのだが。
 肝腎の読書した感想は、この本については発見できなかった。例えば、下記のサイトのように、本のタイトルに触れるだけで、すぐに他の本に移っていく。あたかも、本書は最初の小説作品だから触れるしかない、でも、どう評価したら分からない、とでも言うように:

 このサイトによると、富岡氏は、「京都南座で大道具の棟梁をしていた伯父の関係で、彼女は中学時代から、歌舞伎、文楽、新国劇などをよく見に行っている。観劇好きの少女であった。」という。
 なるほど、それなら、映画に文楽のシーンを取り込むのも、彼女なりの必然性があるわけだ。
 また、富岡氏は、「1935年(昭和10年)、大阪生まれ。ただし、大阪といっても西淀川区というさびれた工業地帯、いわば‘ヘキ地’である。父親は鉄材の古物商で、商人の娘として育っている。ここでいっておきたいのはつまり、彼女がそういう風景を背負っている、ということである。」
 後段は、少なくとも、『丘に向ってひとは並ぶ』を読むかぎりでは、作品理解の上で参考になる。
 ただし、背景、風景として、である。
 作品は、解説されている多田道太郎氏も(小生の感じでは)、どう受け止めどう料理したらいいか、当惑しているようで、詩人だった富岡氏が、何故に唐突に小説を書き始めたのか、それはわれわれには分からないと正直に書いている。「しかしとにかく語りたくなったのだ」と言うしか多田氏には術(すべ)がないようである。 
 この点は小生も実感する。愛想の無い文体で、文学的叙述を期待してしまう「センサク好きの読者をつきはなす文章」なのである。
 むしろ、まさに、富岡氏は「語りたくなったのだ」ろう。詩人なればこその欲求とでも憶測を逞しくするしかないのかもしれない。
 本書には、表題のほかに、「希望という標的」、「イバラの燃える音」の三作品が収められている。が、いずれを読んでも、「センサク好きの読者」を突き放し、表題からは想像できない世界が独特の文体で語られている。
 むしろ、読む作品ではなく、富岡氏に語ってもらうべき作品なのだと思う。
 それにしても、富岡氏は生前の室生犀星に何度か会ったことがあり、彼に室生犀星が作った詩の賞をいただいたこともあったとか(61年)。凄い経験である。その頃から、犀星の小説を読み始めたという。
 本書は、それから十年後の71年に刊行されている。もしかしたら、犀星に小説を書く上での後押しをされた感じがあるのかもしれない。
 そう、言葉を読むよろこび 人を識る楽しさ識る」と同時に、義太夫文化に発する語りの芸能の精神が、その芽吹く風穴を見つけ、語る風に書く楽しさを識ったのに違いない。
              (04/06/23付けメルマガにて公表)

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