« トルストイ著『生命について』 | トップページ | バタイユ著『宗教の理論』 »

2005/12/08

読書拾遺『カトリーヌ・Mの正直な告白』

ラヴェルのボレロから牧神の午後へ」の中で、カトリーヌ・ミエ著の『カトリーヌ・Mの正直な告白』(高橋利絵子訳、早川書房)を読み始めたと書いている。
 内容は、出版社のレビューだと、「彼女は呼吸するようにセックスする。体のすべてを使って、いつでも、どこでも、だれとでも。フランス現代美術誌『アート・プレス』の女性編集長が、自らの奔放な性生活を赤裸々に明晰に描き、文学界を騒然とさせた自伝的作品」というもの。
 先週末、残りの部分を一気に読んだ。

 小生は、「セックス描写の連続とも思える『カトリーヌ・Mの正直な告白』は、確かに女性でなければ描けない女性の観点・生理・感覚があって、驚く面もあるが、それでも退屈はしないで読み通せそうな予感がある」と、上掲の記事で書いているが、確かに最後まで読み通した。
 本書にしても、やはり読んでいくうちに段々と退屈になっていく。セックス描写に尽きるわけだから、ややスキャンダラスな内容だったり、性的な冒険を試みたりしていても、結局は似たり寄ったりの叙述の連続になってしまう。
 エロ小説にしたって、退屈せずに最後まで読ませるのは相当な技術が要る(ようだ。どんな工夫や秘密が要るのか小生には分かっていない)。週刊誌などのたかが数頁のエロ記事でも、すぐに退屈してしまう。挿絵か写真がなかったら、文章を追っているうちに耐え難いほどの苦痛を覚える時もある。

 その意味では小生に最後まで一応は読ませたのだから、凡庸な内容ではない。というより表現力だろうか。ほんの時折だが、タイトルにあるように、彼女の告白の正直さ(決してえげつなくない。徹底して正直で率直であろうとしているから)が形而上的高みに届くかのような叙述に出会うことがある。
 快感とか興奮も悲しいかな人間は薬物でも使用しない限り、病的ならざる凡人は持続できない。すぐに新しい刺激を欲する。喉が渇く、呑みたい、性において渉猟的であれば(形の上では受動的な風を装っても、それは呼び込み誘う手口に過ぎない)、水呑み場はすぐに見つかる。特に若く醜くない女性であれば、草刈場は至る所、至る時に存在する。

 呑む。呑まれる。飲み干す。吐き出す。その繰り返し。飽きることはない。時間が浴びるほどに呑んで、うんざりしたはずの水を新鮮な泉に変えてくれるからだ。
 ただ、文章にすると、同じことの繰り返しに映ってしまう。せいぜい、こんなきわどい状況でセックスした、こんな意外な人とやった、こんなアングルで試みた、そんな意表を突く(かのような)場面を次々と展開してみせるのが凡俗なH小説の常道手段であろう。
 本書をとことん退屈させるまでに至らせなかったのは、数少ない書き表現し尽くす営みこそが持つ、あるいはそんな営為を徹底して初めて書き手にさえ気づかせる、格別な叙述に出会うからなのだろう。
 以下がその典型というわけではないが、正直さが詩情をさえ醸し出している気がするのだ:

 

フェラチオをしているときは、愛撫を受けている本人よりも、相手の体のことがわかるようになる。そしてなにより、相手を支配しているという、言葉では説明できない快感を得ることができるのだ。舌の先をほんの少し動かしただけで、相手からはとてつもなく大きな反応が返ってくる。しかも、口の中にペニスが入っていることをはっきりと意識できるのは、ヴァギナにもペニスが挿入されているときなのだ。
 ヴァギナの快感は、入っているものが溶けていくような感じとともに太陽の光線のように体中に広がっていく。一方、口の快感は、柔らかい亀頭の感触を唇の外と内、舌と口蓋、さらには喉の中で完璧に味わうことができるということだ。いうまでもないことだが、最後には精液を味わうことになる。結局、セックスのときには、自分が相手に要求することを、相手にも要求されることになる。
 わたしにとっていまだに不思議なのは、膣よりも口のほうが感覚が伝わりやすいということだ。フェラチオをしているときの快感が、どうして体の端まで伝わるのだろうか。ペニスを、ブレスレットを腕にはめるようにしっかりと口にくわえ、唇に力を入れると、膣の入り口にもその感覚が伝わる。夢中になってフェラチオをしているとき、体の位置を変えたり、リズムを変えたりすることがある。すると、どこからともなく、もう待ちきれないという気持ちが一気にわきあがってきて、体にも力がみなぎってくる。その場所がどこにあるのかは、漠然としたイメージでしかわからないが、体の奥のほうが、大きく開いていくのが自分でも感じられるのだ。そうすると、セックスのパートナーが、膣のまわりを縁取るように刺激を与えてくる。クリトリスの隣を刺激されると、ペニスを締つけている口にも力が入ってくる。それはわたしにもはっきり感じ取ることができる。それでも、体に指令を与えているのは、口のほうなのだ。そのことになんとか説明をつけようとして、いろいろな考えが頭の中をかけめぐっていく。
 わたしはフェラチオをしているとき、ほとんどまぶたを閉じたままでいる。だが、ペニスのすぐ傍まで目を近づけているので、自分がしていることはほんの細かい部分まで見て取ることができる。そうすると、頭の中に浮かんだイメージが欲求をますます掻き立てていく。空想の場面は、おそらくまぶたの裏側にひそんでいるのだろう。頭の中にほんの一瞬考えがひらめき、どうすれば男性を悦ばせることができるのか、いっぺんにわかってくる。
 呼吸を整え、まず自分がどんなことをするのか、頭の中で考えをまとめてみる。しなやかな動きで、手がペニスを包みこむ。ペニスを傷つけないように、歯を包み隠すように唇を内側に折り曲げる。ペニスがすぐ傍まで近づいてきたら、亀頭を優しく刺激する。自分の手がペニスを導き、だんだんとそれが口元まで近づいてくるところを、わたしはじっと見守っている。その途中でペニスは少し向きを変えたり、花が芽吹く直前の大きく膨らんだ蕾のように固く引き締まっていく。ペニスが口元まで来たら、素早い動作でペニスから手を離す。釘を抜くときのように、二本の指だけでつまんで、絹のようにつやつやしたペニスの先端に、唇の柔らかい部分を押し当ててキスをする。支えていtが手を離して、喉の奥に達するまでペニスを口の中に入れていくと、ジャックは――わたしの舌がどんな動きをするか完璧に把握していても――快感にうっとりとなって、思わず短いため息をもらすのだった。そのとき、わたしの耳にもジャックの声がはっきりと聞こえる。すると、わたしもさらに興奮をかきたてられるのだ。
 ペニスが喉の奥まで届いたら、しばらくの間はそのままにしておく。それと同時に、舌の付け根のでこぼこした部分で亀頭を刺激していく。すると、わたし自身、息が詰まって窒息しそうになり、おまけに目には涙が浮かんでくる。フェラチオをするときは、体全体を垂直に保ち、車輪の中心軸のようにしっかり体を安定させて、中心がぶれたりしないように動かずにじっとしていなければならない。その体の軸を中心に頭だけを左右に振り、頬や、唾をつけて湿らせた顎、額、髪の毛、鼻の頭まで使ってペニスを愛撫していく。そして、ペニスだけでなく睾丸まで舌を使って刺激する。亀頭はいちばん長い時間をかけて刺激する。舌の先がペニスの包皮の中に入っていかないように注意しながら、ペニスの先端に円を描くようにして舌を這わせていく。それから、なんの前触れもなく、いきなりペニスを口にくわえるのだ。すると、男性は驚いて声を上げる。その驚きがわたしの陰部にまで伝わってくる。

 以下、「フェラチオをしているときのことを思い出して、説明していくだけでこれだけのページを費やしてしまったのだから、もし、自分の書きたいことをそのままどんどん書いていったら、これからまだ何ページも使うことになるだろう。」などと続く。
 けれど、実際には、関連する内容だが、ややトーンの下がった叙述になる。
 もしも、徹底して引用したような文章が続けられたら、一個の現象学風(?)な形而上書になりえるだろうが、なかなかそうはいかないのである。
(余談だが、二十年以上も昔のこと、誰かの随筆を読んでいたら、彼曰く、何処かのソープで(当時はソープという表現はなかったのだが、敢えて変換している)フェラチオで男性のモノに万が一にも傷をつけないよう、そして与える快感を極限まで高めるため、歯を全部抜いた女性と会ったことがある、という話を読んだことがあったっけ…。)

 そうだ、先週末、半年以上前に予約しておいたダン・ブラウン著の『ダ・ヴィンチ・コード (上) 』(越前 敏弥訳、角川書店)が、ようやく順番が回ってきて、借り出すことができた。話題の本だったから、すぐにも読みたかったのだが、ま、遅れてきた青年(中年)なのだから、周回遅れがお似合いなのだし、じっくり楽しませてもらおう。

|

« トルストイ著『生命について』 | トップページ | バタイユ著『宗教の理論』 »

肉体・恋愛」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 読書拾遺『カトリーヌ・Mの正直な告白』:

« トルストイ著『生命について』 | トップページ | バタイユ著『宗教の理論』 »