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2005/12/19

松岡正剛著『遊学 1』

 [ 新聞でも伝えられていたが、松岡正剛氏の「千夜千冊」が過日、目出度く千夜つまり千冊を達成された。その記念すべき千夜を、「『良寛全集』(上下)」で迎えられたのは、何故なのだろうか:
 「第千夜【1000】04年7月7日」 ]
 

 順序が逆になったが、松岡正剛著『遊学 2』(中公文庫)が車中で読むには具合が良かったので、引き続き、『1』も待機中の際などに読ませてもらった。彼の読書や思索を巡る渉猟を目くるめくような感を覚えつつ、そうかそういう視点があったのかとか、そんな背景があったのかと、それなりの刺激を受けた。
 彼の文章の語り口が軽妙なのは、無類の落語好きの父君の感化で、子供の頃から落語を聞きに通っていたからなのだろうか。
 実際、彼の父君は、何人もの落語家を贔屓にしていたというし、祝儀をはずんでいたとか。落語だけじゃなく、父君は歌舞伎も新派も相撲も大好きで、それぞれに贔屓がいたらしいし、散財もしたのだとか。しかも、玄人中の玄人に惚れ込んでいいたという。
 あるいは、「NHKの歌舞伎中継にかじりついているときは、役者がセリフをいう前にそのセリフをうなってみせるのが得意だった」とか。
 落語家らの語りの妙。若旦那やら隠居やら、あるいは扇子を箸に見立てて蕎麦を食べる仕草などの芸、軽妙洒脱な語りと表情、聞くものをその世界に取り込んで放さない。
 松岡正剛の千夜千冊には、桂文楽の『芸談あばらかべっそん』(ちくま文庫など)を扱った回もある:
 そういえば、表題の書でも、三遊亭円朝(1839-1900)が採り上げられていた。

 この千夜千冊も、本日(4日)の段階であと14冊と、カウントダウンの状況にある。大したものだ。この蓄積された夜話の中で、飯島吉晴氏の『笑いと異装』(モナド・ブックス43 海鳴社 )という「民俗学者が昔話にひそむ笑いの機能なんてものを軸にしながら、日本各地の笑いの儀礼やナマハゲなどの異装をともなう祭りなどを紹介」した本を採り上げるなど、彼の関心の巾は融通無碍である:

 あるいは、小生はこれまた未読だが、尾佐竹猛著『下等百科辞典』(批評社)などを採り上げたりもしている

 読むことも、書くことも、考えることも、編集することも、どこか日本の伝統芸能や文化に根差した芸を意識したり、意識するだけじゃなく、自分の活動の技として取り込んでいるのかもしれない。

 さて、表題の書に戻ろう。小生には、到底、松岡氏のような芸達者な技も能もないので、今回は、『遊学』から、松岡氏が本書の中で扱った彼を魅了する人物らの著作からの引用を、その一部だけでも転記してみたい。
 松岡氏がわざわざ引用したくなる文章・断章とはいかなるものか、その一端を改めて味わってみたいのである。但し、順不同で羅列する。


 

われわれが記憶すべきは岩の物質全体の波動という広大な事実である。注意深く研究さるべく中央的花崗岩はあまりに朦朧とし、より低級な岩々はあまりに平凡である。これらの板状結晶は容易に近づきうる最貴な丘阜を形成して特に注意を惹き、またそれに報いるように図られているように見える。そうだ、第一にわれわれは彼等の中に著しい堅さと一般的特性の完全なる大胆を見出すのだ、そして……。
(ジョン・ラスキン「石は記憶している」)


 

世界における私たちの特質はなにかというに、第一に気付くべきことは私たちが生活的ではないということにかかっていると私は考えます。それは言いかえて私たちがつとめて実行を避けている生物であるということであります。実行するならそれっきりのものになってしまう。故に私たちにおける存在性とは、実行に距離をおくほど濃くなってくるようなものにちがいありません。
(エドガー・アラン・ポー「翼をもった非生活文学」。引用文は稲垣足穂より)


 

自然というものについてわれわれが知っているのは運動だけである。この自然的運動があるためにわれわれの感覚も機能する。ということは、すべての概念、とりわけ幾何学的概念のいっさいが人工的につくられたということである。そこで次のことが言える。自然にいくつの運動が作用しているか知らないが、その数だけわれわれが幾何学をつくることが許されてよい……。
(ニコライ・ロバチェフスキー「差異の直観を科学する」)

 

意志willeとは世界の内的な本質そのものであり、その核心であり、カントの物自体にもあたっているものだ。したがって意志は現象をもち、その現象はショーペンハウアーいうところの根拠律にもとづくが、意志そのものには根拠律はとどかない。こうして意志とは、それ自体においては原因も動機ももたないものとなっている。これをわかりやすくいえば、無に近い意志なのだろう。
 意志の発現のあらゆる段階は自然史をつくっている。それは物質の闘争史として語りうる。次に動物の段階になると、意志の客観化のための認識があらわれる。物質現象としての意志を認識過程がおおってくる。この認識は個体と種族の維持のための手段として出現し、本来は意志への奉仕を目的としていながらも、しだいに意志の現象に干渉しはじめる。ここにショーペンハウアーの考える人間の悟性や理性の本質があった。それはまさに葛藤の連続であり、苦悩の現実である。表彰としての世界の内実は苦悩に満たされる。宇宙史このかたの生物史・社会史をへた意志の発現は、こうしてまことに悲劇的な苦闘ばかりを強いられ、そこにわだかまる。世界はことごとく意志に反したものとなる。まさに絶望が支配するばかり――。
 しかしこのとき、少数の認識がこの意志への奉仕を脱出し、そのくびきを投げすてようとすることがある。あらゆる目的から自由になるため、認識が意志にたいする逆作用をおこすことがある。これが諦観resignationである。ショーペンハウアーは、この意志の自己揚棄がインド哲学や仏教に見いだされ、しばしば芸術のなかにも認められると考えた。
(アルトゥール・ショーペンハウアー「感電する世界意志」。松岡正剛によるショーペンハウアー哲学の略説)

 

地上の薔薇の灰は天上の薔薇の生まれる土壌である。私たちの宵の明星は対蹠点の暁の明星ではなかろうか。光の時間は測ることができる。だが夜の領域は時間と空間を超越している。
 (ノヴァーリス「雰囲気は結晶である」)
 

 

 閻王の口や牡丹を吐かんとす
 牡丹散って打ちかさなりぬ二三片
 地車のとどろとひびく牡丹かな
 山蟻のあららさまなり白牡丹
 蟻王宮朱門を開く牡丹哉
 (与謝蕪村「牡丹を吐く俳諧師」)


 

私は物質のうちにいたるところ付加されている能動的原理を認めるからこそ、物質をつらぬいていたるところに生命の原理、すなわち表象の原理がひろがっていると考えます。これはモナドであり、いわば形而上学的アトムであって、部分をもたず、自然的には生じたり滅びたりすることのないものです。
 (ゴットフリート・ウィルヘルム・ライプニッツ「外部に主語がある」)

 

道元は坐れといふ。人間的連続の切断における表現停止である。それは絶対の場を示唆する。不立文字(ふりゅうもんじ)の無位の相として、混沌に背骨をまっすぐにたてることは、一つの天体たることである。……生とは強引にふりむいた<時>の意識である。
 (道元「言葉から出て言葉へ出る」但し、吉田一穂の『古代緑地』の一節)

原題:「松岡正剛著『遊学 1』抜粋」(千夜千冊達成、おめでとうございます)
       (本稿は、04/07/20付けメルマガにて公表済み)

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