« 読書拾遺『カトリーヌ・Mの正直な告白』 | トップページ | 坂口安吾著『桜の森の満開の下』 »

2005/12/10

バタイユ著『宗教の理論』

 ジョルジュ・バタイユ著『宗教の理論』(湯浅博雄訳、ちくま学芸文庫)を眺め通した。そう、文字通り、字面を眺め終えたというのが正直なところ。だから、ただの感想文さえも書けそうにない。
 ここでは、バタイユに絡む若干のことを書き綴るだけにしておく。
 そうはいっても、本書の性格を一般的にでも紹介しておく必要があろう。例によって本書の背表紙の謳い文句を転記しておく:

 

ミシェル・フーコーをして「今世紀で最も重要な思想家のひとり」と言わしめたジョルジュ・バタイユは、思想、文学、芸術、政治学、社会学、経済学、人類学等で、超人的な思索活動を展開したが、本書はその全てに通底・横断する普遍的な<宗教的なるもの>の根源的核心の考察を試みる。その視線が貫いていく先にある宗教の<理論>は、あくまで論理的な必然性まで突き詰められたものであり、矛盾に満ちた存在<人間>の本質を、圧倒的な深みをもって露呈させる。バタイユ死後に刊行された、必読のテクスト。

 この中で、「宗教の<理論>は、あくまで論理的な必然性まで突き詰められたものであり」というくだりには、納得できない。但し、「矛盾に満ちた存在<人間>の本質を、圧倒的な深みをもって露呈させる」には、心底、実感する。

 本書の初版は、85年だが、それをちくま学芸文庫に収めるにあたり、ほぼ改訳に近いほどに手を加えたという。
 訳者によると、「私見では、本書はニーチェの『道徳の系譜学』の系統に連なる思想書であり、<宗教>をめぐる思索として、ある堅固な根本思想と独自の視角からの探究を徹底して貫いた論考であ」るという。

 さて、本書ということではなく、バタイユというと、小生が連想するのは、「消尽」とか「蕩尽」という言葉である。遠い昔、学生時代の終わり頃、バタイユに凝り、古書店でバタイユ全集を入手したものだった。
 最初にバタイユの存在を知ったのは、大学に入学して間もなく知り合いになった友人の書架にバタイユの『文学と悪』だったか『内的体験 無神学大全』だったかを見たときだったと思う。
 思想というと、安直な思想史の本か、せいぜい中央公論社の世界の名著シリーズどまりだった小生は、友人の蔵書に軽いカルチャーショックを受けたものだった。
 バタイユ、モーリス・ブランショ(『文学空間』)、ミシェル・レリス、ロートレアモン、ボードレール、ランボー、ガストン・バシュラール、、モーリス・メルロ=ポンティ、アントナン・アルトー…。なんだ、こいつは高校生の時に既にこんなものを読んでいるのか! と、この中の幾人かの名前を知っている程度の我が身を振り返って愕然としたものである。
 他に、作家・思想家以外では、ジョルジュ・ド・ラ・トゥール、マルセル・デュシャン、ジャコメッティ…。ただただ、唖然呆然である。
 若い頃は、無理を承知でも背伸びをする。上掲の何人かについて、密かに調べ、読み漁り、触りに触れて溜め息したものだった。そして自分なりに絵画についても嗜好を探り当て、ハンス・ベルメールや、エゴン・シーレや、 レオノール・フィニ、セリーヌ(『夜の果ての旅』)などへの関心を以って、己の独自性をささやかに自負しようと試みたりしたのだった。
 やがて、幾分の時間を経て、学生時代の終わり頃になって、ようやくバタイユに関心が向き出した。すると、一気に彼の世界に、あるいは、思い込みの中のバタイユの雰囲気に浸り始めたのだった。
 バタイユを読み始めるその前には、サドの本を読み漁っていた。まるでサドの世界がバタイユへの道ならしであったかのように。
 バタイユで一番、印象に残った作品は、やはり、彼の処女作である『眼球譚』だったろうか。『マダム・エドワルダ』も、『エロティシズム』も、『呪われた部分』も、それぞれに感じるものはあったはずなのだが。
バタイユが生まれたとき、父親は梅毒を患って全盲状態で、かつ半身不随だった。そこでバタイユは不在の父を透視しつづけた“眼球の父”になった」と、松岡正剛氏も言及しているように、彼の眼球への拘りは特別なモノがある。

 しかし、鈍な小生をも捉えて放さなかった概念、それとも観念は、「消尽」や「蕩尽」だった。その当時も今も、これらの観念が彼の思想や文学の中心的なテーマに関わるものなのか、小生は分からないでいるのだが。
 ただ、小生は、それらの言葉に勝手に思い入れし、バタイユの本を読まなくなった頃になって書き始めたエッセイや小説の中で、これらの言葉を直接に、あるいは脳裏に思い浮かべながら、ある種の至高性の極をなぞり続けようとしていたのを思い出す。
 その前に、哲学科の卒業論文として書き上げ提出し、呆気なく却下された創作『闇の世界へ』自体、バタイユ的エロティシズムを意識していなかったと言えば嘘になる。が、到底、バタイユの世界に触れているとは自分でも思えなかったので、ただただ創作になるしかなかったのだけれど。
 さて、では、肝腎の「消尽」や「蕩尽」の意味は如何。小生には、正確な理解を示すことはできない。
永井俊哉講義録 第6号」では、「エロティシズム」と題して、ジョルジュ・バタイユを扱っている。

 永井氏の説明によると、「エロティシズムとは、規範を侵犯すること、つまりはめをはずすということであ」り、「夫婦間の合法的セックスはエロティシズムではない。快楽殺人は、たとえそこに性的なものがなくても、エロティシズムである。殺人や強姦は、人的資源の蕩尽だが、バタイユに言わせれば、蕩尽こそ至高の快楽である。」ということになる。
 さらに、「フロイトの術語をバタイユの言葉に翻訳すると、現実原則は禁欲と労働による富の蓄積を命じるのに対して、<快楽原則=涅槃原理>は、その富の蕩尽を命じる」のであり、さらに「マルクスの剰余価値学説が教えるように、人間の労働は、常に消費する富以上の《過剰》を生産するだが、過剰は蓄積されるか蕩尽されるか二つに一つである」という。
 現代は、過剰なまでの資本の蓄積の時代に入って久しい。だからこそ、富を蕩尽することは、逆に快楽の極致たる営みなのである。
 永井氏によると、「現在は、脱工業社会(post-industrial society)であり、脱勤勉社会(post-industrious society)である。蓄積のために蓄積する時代は終わった。富を蕩尽するエロティシズムの欲望を、文化的創造へと昇華する時代だ」という。
 さて、小生は、そんな高尚な意味ではなく、古臭い言葉を使えば、もっとアヴァンギャルドな意味で消尽や蕩尽を受け止めていた。
 エロティシズムへの欲望は、死をも渇望するほどに、それとも絶望をこそ焦がれるほどに人間の度量を圧倒する凄まじさを持つ。快楽を追っているはずなのに、また、快楽の園は目の前にある、それどころか己は既に悦楽の園にドップリと浸っているはずなのに、禁断の木の実ははるかに遠いことを思い知らされる。
 快楽を切望し、性に、水に餓えている。すると、目の前の太平洋より巨大な悦楽の園という海の水が打ち寄せている。手を伸ばせば届く、足を一歩、踏み出せば波打ち際くらいには辿り着ける。
 が、いざ、その寄せ来る波の傍に来ると、波は砂に吸い込まれていく。波は引いていく。あるいは、たまさかの僥倖に恵まれて、ほんの僅かの波飛沫を浴び、そうして、しめた! とばかりに思いっきり、舌なめずりなどしようものなら、それが実は海水であり、一層の喉の渇きという地獄が待っているのである。
 どこまでも後退する極楽。どこまでも押し寄せる地獄。地獄と極楽とは背中合わせであり、しかも、ちっぽけな自分が感得しえるのは、気のせいに過ぎないかと思われる悦楽の飛沫だけ。しかも、舐めたなら、渇きが促進されてしまい、悶え苦しむだけ。
 何かの陥穽なのか。何物かがこの自分を気まぐれな悪戯で嘲笑っているのか。そうなのかもしれないし、そうでないのかもしれない。しかし、一旦、悦楽の園の門を潜り抜けたなら、後戻りは利かない。どこまでも、ひたすらに極楽という名の地獄の、際限のない堂々巡りを死に至る絶望として味わいつづける。
 明けることのない夜。目覚めることのない朝。睡魔は己を見捨て、隣りの部屋の赤い寝巻きの女の吐息ばかりが、襖越しに聞え、女の影が障子に悩ましく蠢く。かすかに見える白い足。二本の足でいいはずなのに、すね毛のある足が間を割っている。オレではないのか! オレではダメなのか。そう思って部屋に飛び込むと、女が白い肌を晒してオレを手招きする。そうして…。
 夜は永遠に明けない。人生は蕩尽しなければならない。我が身は消尽しなければならない。そうでなければ、永劫、明けない夜に耐えられない。身体を消費しなければならない。燃やし尽くし、脳味噌を焼き焦がし、同時に世界が崩壊しなければならない。
 そう、我が身を徹底して破壊し、消尽し、蕩尽し、消費し尽くして初めて、己は快楽と合体しえる。我が身がモノと化することによって、己は悦楽の園そのものになる。言葉を抹殺し、原初の時が始まり、脳髄の彼方に血よりも赤い光源が煌き始める。宇宙の創始の時。あるいは終焉の祭り。
 高校時代の終わりだったか、J・M・G・ル・クレジオの『物質的恍惚』を読んだことがあった。小生には何が書いてあるか、さっぱり分からなかった。
 もしかしたら、このタイトルに魅了されていただけなのかもしれない。どんな詩よりも小生を詩的に啓発し瞑想を誘発してくれた。
 その本の中に、「すべてはリズムである。美を理解すること、それは自分固有のリズムを自然のリズムと一致させるのに成功することである」という一節がある。小生は、断固、誤読したものだ。美とは死であり、自分固有のリズムを自然のリズムに一致させるには、そも、死しかありえないではないか、と。
 不毛と無意味との塊。それが我が人生なのだとしたら、消尽と蕩尽以外にこの世に何があるだろうか。
 そんなささやかな空想に一時期でも耽らせてくれたバタイユに感謝なのである。
 バタイユの<理論>を理論的に理解するのは、間違っているのではないか。
 そう思うのも、バタイユの思考が直感的感性という、焼け切れんばかりに殺気だった閉じた回路を際限もなく経巡っているように思えるからである。
 本書『宗教の理論』に描き綴られているのは、論理というより、蕩尽へ向けての誘惑の叫びのように感じられる。だからといって、小生が、『宗教の理論』を読まなかったといえば、やはり言い訳になるのだろうが。


原題:バタイユ著『宗教の理論』を読まず(04/07/02付けメルマガにて公表)

|

« 読書拾遺『カトリーヌ・Mの正直な告白』 | トップページ | 坂口安吾著『桜の森の満開の下』 »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

はじめまして大絶画と申します。
復刊ドットコムに『バタイユ』特集が開設されています。みなさんの投票次第でバタイユ関連の書籍が復刊される可能性があります。
特集ページへはURLからアクセス可能です。投票にご協力ください。
なおこのコメントが不適切と判断されたら削除していただいてかまいません。

投稿: 大絶画 | 2010/09/08 21:40

バタイユの全集を持っている小生。
バタイユの本が売れないなんて、不思議。
時代なのか。
いったい、どんな時代なのか。

投稿: やいっち | 2011/01/29 17:50

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: バタイユ著『宗教の理論』:

« 読書拾遺『カトリーヌ・Mの正直な告白』 | トップページ | 坂口安吾著『桜の森の満開の下』 »